酒田3万石を最上義光公から拝領、亀ヶ崎城主となってから
志村光安は、酒田城下の整備や社寺仏閣の整備などをおこない
慶長16年(西暦1611年)に没した。
その後継ぎは、最上家のお家騒動で暗殺。
その子孫も最上家の没落とともに、酒田を離れたという。
出身地とされる山形市の漆山志村には、子孫は居ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
歴史に彗星のように現れて、消えていった志村一族。
では、本荘の志村家との関係をどのように考えると良いのであろう。
(写真は本荘城復元大手門、大手門から街を見る、門を出た右側に志村七左衛門の屋敷があった)
私は志村光安の一族の誰かが、最上の重臣であった楯岡豊前の守満茂の家臣として任用されたと推測。
知行地を加増された武将が、勢いのある武将の親族を家臣を採用する例は多くあるようです。
ところが、もともと楯岡氏の家臣だったのではないか?という話が出てきました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E5%B2%A1%E6%B0%8
確かに楯岡氏も最上一族
これは、志村光安の末裔という人からの手紙にあります。
それによると本荘の志村一族は漆山志村の一族とは鎌倉・室町の時代に分かれて、楯岡氏に仕えたのではないかとの話。
確かに同じ出羽の国の話で、最上義光が山形を平定する前は群雄割拠の時代。
これは、江戸時代以前の話ですので精査する必要がありますね。
先祖の話、まだまだ先がありそうです。
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