福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.4.27(日) 諫早に本明川を見る

2011-09-29 | 旅行記

   今日の街角風景は、親戚の法事の会食をした料理屋「魚莊」から見た長崎県諌早市を流れる

   本明川(ほんみょうがわ)の風景である。

   諫早市(いさはやし)は長崎県の中央部にあって、人口は14万人を越える長崎県第3の人口

   を有する都市である。

   2005年3月1日に北高木郡飯盛町、森山町、高木町、小長井町および西彼杵郡多良見町

   と合併し、人口14万都市となった。これによって、かって諫早市も属していた北高木郡は所

   属する自治体がなくなり、消滅した。

長崎県の多良山系に源を発する本明川(ほんみょうがわ)が諫早の市街地に入ってきた。

右岸(写真で左側)側は永昌(えいしょう)東町、左岸側は天満町、直近の橋は四面橋だ。

     昭和32年7月25日にこの地を襲った集中豪雨により起こった、本明川の大洪水は

     諫早大水害と呼ばれ、539名の人命を奪った。僕はこのとき高校1年で長崎にいて、

     忘れることのできない諫早大水害を知ったのだ。     

     この時の現地情報はアマチュア無線に頼るしかなかったといわれる。

JR諫早駅は右岸(写真の左側)にあって、それと並行する形で本明川は南下する

本明川が左にカーブして東行する辺り

  カーブしている向こう岸は天満町で旧諫早街道が通る歓楽街

諫早の市街地を東に流れ下る本明川   左岸側が城見町、右岸側が高城町

   右岸側の小山は高城址で今は諫早公園となっている。この諫早公園に、国指定重要文化

   財の眼鏡橋(天保9年(1838)5月起工、翌年8月完工の石橋)が移築、保存されている。

   かっては向こうの方の橋の近くに天保10年(1839)架橋の石橋・眼鏡橋があった。諫早

   大水害の時、本明川に架かるこの眼鏡橋が頑丈であったため、流失せず、流木等をせき

   止めて洪水の被害を拡大したのではないかとも言われている。

諫早の市街地を東に流れ下る本明川はやがて有明海にでる。

右岸側の小山は高城址(あるいは亀城址)で諫早公園となっている。

   諫早家の始祖 龍造寺家晴は諫早2万6200石で召抱えられた佐賀鍋島藩(37万7千石)

   の陪臣である。家督を継いだ龍造寺直孝は本藩に従属し、御親類同格とされていることに

   鑑み、龍造寺の姓を改め、伊佐早の地名からこれを縮めたを諫早とし、地名も諫早とした。

   諫早家は本藩より命ぜられた諸役の他に、長崎の警備を分担し、長崎街道を往来する長崎

   奉行などの公用の旅行者に宿舎や人馬を提供した。


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