ヤブカンゾウ わすれ草
ヤブカンゾウ わすれ草
梅の花が咲いた。万葉集巻5-818に掲載されている山上憶良の歌を紹介する。
梅 豊後梅
春さればまづ咲く宿の梅の花
独り見つつや春日暮(くら)さむ 筑前守山上太夫
万葉集巻5-818(山上憶良)
天平2年(730)正月13日、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)は自邸において、府管および管下諸国の国史から沙弥の滿誓までを招き、盛大な梅花の宴を催した。この時の梅花の歌32首が万葉集に載せられている。この時に詠まれた山上憶良の歌である。
万葉集で忘れ草と詠まれたキスゲが咲いている。ヤブカンゾウ、ノカンゾウなどとも言われており、いずれもユリ科ワスレグサ属の多年草で、夏の初め長く伸びた茎の上部に鮮やかなオレンジ色や黄色の百合に似た花をつけている。万葉集にはワスレグサ(忘れ草)を詠んだ歌は五首あるといわれているが、ここでは大宰の帥として太宰府に着任していた、天平二年(730)頃の大伴旅人の歌を載せたい。また、養老四年(720)征隼人持節大将軍として南九州に出征した旅人にも少しふれたい。
忘れ草(万葉表記) ヤブカンゾウ(写真) ノカンゾウ キスゲ
忘れ草 我が紐に付く香久山の
古りにし里を忘れむがため 大伴旅人
万葉集 巻3-0334
大意:わすれ草を自分は紐につける。香具山のあたりのあの懐かしい
故郷をひとときでもわすれているために。
大伴旅人と隼人とのかかわり
七二〇年に大隅国守(くにのかみ)が隼人によって殺害され、以後一年数ヵ月にわたって隼 人が朝廷に抵抗した事件はよく知られている。
そのとき、朝廷が隼人を制圧するため大軍を派遣したが、その大軍を率い た人物が大伴宿祢旅人(すくねたびと)であった。旅人は当時中納言で中務卿(なかつかさきょう)も兼ねていた から、政府の要職にあったのであるが、この隼人の抗戦勃発で「征隼人持節 大将軍」に任命されて九州の南端までやってきたのである。
じつは、大伴旅人はこの時はじめて隼人と接したのではなかった。この抗 戦より十年前の七一〇年正月元日の朝廷の儀式で、旅人は隼人を率いていた。 この正月元日の儀式は藤原宮では最後にあたり、三か月後には都は平城京に 移っている。その最後の朝賀はつぎのようであった。
女帝の元明天皇が大極殿(だいぎょくでん)に出御(しゅつぎょ)さ れ、臣下から拝朝の礼を受けた。そのとき隼人・蝦夷(えみん)も参列していた。この 儀式で左将軍をつとめていた大伴旅人は、右将軍・副将軍とともに皇城門 (朱雀・すざく門)の外で東西に分れて陳列していた騎兵の中を、隼人・蝦夷を率いて 行進したのであった。
このように、大伴旅人は都が藤原京にあった時期から隼人に接触してい た。その点では、当時の有力官人としては、隼人と縁のあるまれな存在であっ た。そこで、大伴旅人という人物と、その周辺についてさぐってみたい。
大伴氏は、朝廷に早くから仕えた有力な軍事氏族で、天皇・宮廷の警護な どにあたった。古代では、世襲的職業グループを「伴(とも)」といい、伴を率いて朝廷 に奉仕する首長を「伴造(とものみやつこ)」といっていた が、大伴とはその中の最有力者の意であろうと思われる。始祖伝承では、天 孫ニニギノミコトが高千穂峰に天降った際に随伴・先導していた天忍日(あめのおしひ)命が 祖にあたると伝えられているので、天皇家に奉仕する家柄としての伝えも古 い。
このような要職にありながら、七二〇年に大隅国守陽侯史(やこのふひと)麻呂が殺 害されると、征隼人持節大将軍に任じられたのであった。この任命は、大伴氏 が古来朝廷の軍事を担当してきた名族という氏固有の伝統によるのであろ う。
「持節」とは、隼人を征討する将軍に天皇が節刀を賜与して、天皇の権限を 代行することを容認したことを意味している。その節刀を持って隼人征討 にあたったのであり、この間の旅人の行為・行動は天皇の代行として、すべて認 められることであった。
隼人の国守殺害は、天皇・朝廷にとっては屈辱的反逆行為であったから、大 宰府から事件が急報されると、数日のうちに征討軍を編成して西海道(九 州)に向かわせている。急遽任命された征討軍の主脳は、大伴旅人を大将軍と し、以下に副将軍二名であり、律令のなかの軍防令(ぐんぼうりょう)の規定からすると、この 構成での出兵は兵士一万人以上の場合に相当する。
それらの兵士の大半は、大宰府に急使を遣わして、大宰府管下の西海道諸 国から徴集されたとみられる。大挙しての出兵の目的地は大隅国府のある 鹿児島湾奥部であったから、西海道の東・西沿岸部にそって征討軍は南下し たとみられる。となると、東岸部では日向国府が、西岸部では薩摩国府が兵帖(へいたん) 基地とされ後方拠点になったとみられる。
都を発した大伴旅人大将軍は大宰府で情報を収集し、兵力を整えた後に 西岸部側を南下して薩摩国府を拠点として指揮をとったと推察される。朝 廷では、戦闘は短期間で、勝利で終わると考えていたとみられる。というの は、中央で要職にあった大伴旅人を大将軍に任命していることから、長期戦 は予測していなかったとみられる節があるからである。
ところが、予測ははずれて隼人の強い抵抗にあい、長期にわたって苦戦を 強いられることになった。旅人は都を出て約半年後の七二〇年八月になる と、いまだ勝利への見通しがつかぬまま、副将軍を残して帰京することに なった。年齢も五六歳であったことから、長期の野戦は身体にこたえたこと もあったのであろう。いっぽうでは、やはり朝廷での要職を長期にわたって空 けることができなかったと見るべきであろうか。
隼人の抵抗はその後も続き、翌七二一年七月になって副将軍らはよ うやく帰京し、「斬首獲虜合わせて千四百余人」と勝利の戦果を報告して いる。
大伴旅人はその後、隼人と関わることはなかったのであろうか。じつは、隼 人との関係は断続的にその後も見出せる。旅人は七二八年ごろ、大宰帥(そち・大 宰府の長官)になっている。それより四年前にすでに正三位に昇叙しているの で、いまさらという感じがする。大宰帥は従三位相当官で旅人より下位の官 職であり、六四歳にもなっていたので、当時としてはかなりの高齢である。都 から離れた大宰府に異例の異動で、しかもこの年になって、なぜという思いで あったろう。
おそらく、背後には藤原氏による政略があったとみられる。その翌年には、 長屋王の変がおこっているからである。
長屋王は天武天皇の孫で、聖武天皇即位とともに左大臣となり、政権の最有 力者であったが、藤原氏の陰謀の犠牲となって自死した。その直後に、藤原不 比等(ふひと)の娘光明子(安宿媛・あすかひめ)が、それまでの伝統を破り臣下の出身にしてはじ めて皇后となった。光明皇后の出現で、藤原氏はいっそう勢力を振るうように なった。大伴旅人が大宰府に遠ざけられたのは、かれが長屋王に近い存在と 見られていたことが主因であろうか。
大宰府赴任後、旅人は妻の大伴郎女(いらつめ)に病没されている。都から遠くに離さ れたうえに、妻を失なって、ときに酒に寂しさをまぎらす日もあったようであ る。
このところ色とりどりの紫陽花(あじさい)の花が花屋さんの店頭を飾っている。今日は、隅田川の花火にちなんで名づけられた「墨田の花火」という紫陽花を写真で紹介しながら、万葉集で紫陽花を詠んだ二首をみてみた。
万葉集には4516首が集録されているが、紫陽花(あじさい)を詠んだ歌はわずかに2首のみであるという。万葉集では約1500首が何らかの植物を詠んでおり、170種を超える植物が登場すると云われている。最高歌数は萩の137首、次いで梅の119首であり、桜は42首という。これに対して紫陽花(あじさい)を詠んだ歌はわずかに2首である。
紫陽花 銘「墨田の花火」
大伴宿祢家持、久邇京より坂上大嬢に贈る歌五首・・・(の内の一首)
言問(ことと)はぬ木すら紫陽花(あじさい)諸茅等(もろちら)が
練(ねり)の村戸(むらと)にあざむかえけり 万葉集巻4-773 大伴家持
(大意)物を言わない木でさえ、色の変わりやすい紫陽花や諸茅などの、一筋縄で行かない心にあざむかれたということです。(まして人間である私は、変わりやすいあなたの心にあざむかれて、とまどいすることです。)・・岩波 日本古典文学大系 万葉集一
紫陽花 あじさい 味狭藍 銘「墨田の花火」
(右の一首は、)左大臣、味狭藍(あじさい)の花に寄せて詠めり。
紫陽花(あじさい)の八重咲く如く弥(や)つ代にを
いませわが背子見つつ偲(しの)はむ 万葉集巻20-4448 橘諸兄
(大意)紫陽花の八重に咲くように、幾重にも栄えておいで下さい。わが君よ。私はその立派さを仰いで讃嘆いたしましょう。・・岩波 日本古典文学大系 万葉集四
元号「令和」が始まった。徳仁皇太子殿下が新天皇として即位された。令和の時代が良い時代であることを願いたい。令和へのカウントダウンフィーバーや婚姻届けの急増が報じられている。生活と心が豊かになるような、令和フィーバーが起こることを期待したい。
「令和」の出典は万葉集巻五にある大伴旅人が、太宰府市の都府楼址付近にあったとされる旅人邸で主催した、梅花の宴で詠まれた32首の序文からとられた。日本の万葉集という文書から採用された新元号であり、誠に喜ばしい。
大伴旅人邸は福岡県太宰府市の都府楼址付近にあったとされるが、まだ特定されていない。でも、たぶんそうだっただろうと思わせる、都府楼址付近の坂本八幡宮が令和観光で大変な人気となっている。
福岡県太宰府市の都府楼址
福岡県太宰府市の都府楼址の万葉歌碑 坂本八幡宮のすぐ傍
天平2年(730)正月13日、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)は自邸において、府管および管下諸国の国史から沙弥の滿誓までを招き、盛大な梅花の宴を催した。この時の梅花の歌32首が万葉集に載せられている。そのトップを飾る歌が、この万葉歌碑に刻まれた歌である。
正月(むつき)立ち 春の来(きた)らば 斯(か)くしこそ
梅を招(を)きつつ 楽(たの)しき終へめ 大弐紀卿
(万葉集巻五-815)
大意:正月になって、春が来たらば、このように、梅の花を招き寄せて
楽しいことの極みを尽そう
大弐紀卿:当時、大宰大弐であった紀氏の人。名は未詳。
徳仁親王殿下が新天皇に即位される5月1日に施行される「平成」に代わる新元号は「令和(れいわ)」に決定され、4月1日に菅義偉官房長官が記者会見で発表した。
出典は万葉集の梅花の歌三十二首の序文である。
梅の花が咲いている。万葉集巻五に梅花の歌三十二首が載っている。天平二年(730)正月十三日大宰の帥(だざいのそち)・大伴旅人邸で梅花の宴が行われた時のものである。大伴旅人の生涯を飾る豪華な梅花の宴であったに違いない。その時を記した梅花の歌三十二首の序は次のとおりである。
梅花の歌三十二首、あわせて序
天平二年正月の十三日に、帥の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)きき、。時に、初春の令(れい)月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(くん)ず。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を盖(きぬがさ)とし、地を坐(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞の外に開く。淡然に自(みずか)ら放(ほしきまま)にし、快然に自(みづか)ら足る。若し翰苑あらぬときには、何を以ちてか情(こころ)をのベむ。請ふ落梅の篇を紀(しる)さむ。古と今とそれ何ぞ異ならむ。園の梅を賦して聊(いささ)かに短詠を成す宜(ベ)し。
以下、序文に続く梅花の歌二首を紹介する。
梅 加賀白
正月(むつき)立ち 春の来らば 斯く(かく)しこそ
梅を招(お)きつつ 楽しき終(を)へめ 大弐紀卿
梅花の歌三十二首の冒頭を飾る 万葉集巻五-815
梅 豊後
わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れ来るかも 主人
大伴旅人当時66歳 万葉集巻五-822
トゲのある「茨」が咲いた。万葉仮名では「宇万良(うまら)」で、ノイバラのことである。
ノイバラ
道の辺(へ)の茨(うまら)の末(うれ)に這(は)ほ豆(まめ)の
からまる君を別(はか)れか行かむ
丈部鳥(はせつかべのとり) 万葉集巻20-4352
大意:道のほとりのイバラの先に這いつく豆の枝のように、からまる
あなたに別れて行くのであろうか
天平勝宝七歳(755年)二月に、上総国天羽郡(かみつふさのくに
あまはのこおり)(現在の千葉県富津市の西南部)出身の丈部鳥が
防人(さきもり)として筑紫へ派遣されたときに詠んだ歌である。
防人は筑紫、壱岐、対馬に派遣され国防の任についた。大宰府の
水城大堤を築いたのも彼らであった。
すみれの花が咲いている。息の長い花である。
すみれ スミレ 菫(すみれ) 園芸種
春の野に すみれ採(つ)みにと 来(こ)しわれそ
野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける 山部赤人
万葉集巻八-1424
万葉時代には、蔬菜類は多くは山野に出て必要な野草、山菜を採取したとされる。この歌は菜取り(なとり)に関する歌であり春菜摘みの歌であるが、このすみれ採(つ)みは薬草狩りの要素が強そうだ。一夜(ひとよ)寝にけると詠っているところから見ても、すみれは早朝に採取したほうが薬効があると信じられていたのではないか。赤人はあだ名という説がある。赤ら顔だったのであろうか。とすればスミレは高血圧などに効くのであろうか。
梅の花が咲いている。万葉集巻五に梅花の歌三十二首が載っている。天平二年(730)正月十三日大宰の帥(だざいのそち)・大伴旅人邸で梅花の宴が行われた時のものである。大伴旅人の生涯を飾る豪華な梅花の宴であったに違いない。その時を記した梅花の歌三十二首の序は次のとおりである。
―大宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首、また序
天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみにあらず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。請ひて落梅の篇を紀さむと。古今それ何ぞ異ならむ。園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。
梅 加賀白
正月(むつき)立ち 春の来らば 斯く(かく)しこそ
梅を招(お)きつつ 楽しき終(を)へめ 大弐紀卿
梅花の歌三十二首の冒頭を飾る 万葉集巻五-815
梅 豊後
わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れ来るかも 主人
大伴旅人当時66歳 万葉集巻五-822
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