太宰府天満宮に漱石の句碑、道真の歌碑、それに万葉歌碑を訪ねた。
西鉄太宰府駅前から太宰府天満宮参道を望む
西鉄太宰府駅前の灯明台の一面を飾る夏目漱石の句碑
反橋(そりばし)の小さく見ゆる芙蓉かな 夏目漱石
この句の句稿は前書きつきで次のようになっているとのこと。
太宰府天神 反橋の小さく見ゆる芙蓉哉
夏目漱石は妻鏡子と二人で明治29年9月の初めに1週間九州地方を汽車旅行したという。明治29年6月9日、漱石は熊本市光琳寺町の自宅で中根鏡子と結婚式を挙げている。
太宰府天満宮の心字池に架かる太鼓橋(反橋・・そりばし)の第一橋
漱石が詠んだ「反橋の小さく見ゆる芙蓉かな」の反橋は、太宰府天満宮境内の心字池に架かる三連の太鼓橋で、本殿への参拝路となっている。三連といったが実際は第一橋は反橋(太鼓橋)、第二橋は平橋(平らな橋)、第三橋は反橋(太鼓橋)と成っている。太宰府天満宮は鳥居をくぐって境内に入る前に、左手斜めの方向に第一橋と第三橋の反橋を見ることができるのだが、普段は気付かない。第一橋は近く第三橋は遠くにあるので、二つの反橋のうち第三橋の反橋の方が小さく見える。よって、漱石が「小さく見ゆる」と詠んだ「反橋」はどちらかというと、二つ目の反橋(第三橋)の方が相応しいとする論考がある。
そこはかとなく艶っぽくて気品漂う淡紅色の芙蓉の花越しに太宰府天満宮の太鼓橋が望まれる。華やかな風景の先には太宰府天神のお社があるのだ。
ここのところ、ずっと長い間、芙蓉の花木を見つけることができない。
太宰府天満宮参道 突き当りの三の鳥居をくぐった境内の右手に東風吹かばの歌碑がある
東風吹かばの歌碑
東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅(むめ)の花
あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真
福岡県瀬高町出身の書家・助弘桂雪の書 昭和23年(1948)建立
結句が「春な忘れそ」であるこの歌は十訓抄(1252年頃成立)や太平記(1370年頃成立)に出てくるという。拾遺和歌集(1005年頃成立)と大鏡(1080年頃成立)では結句を「春を忘るな」としているようだ。
道真は901年(昌泰四年)2月1日に京都を出発し流罪の地、筑紫大宰府に下ったという。
太宰府天満宮楼門から本殿を拝す
太宰府天満宮内庭から楼門を見る
太宰府天満宮本殿
太宰府天満宮 飛梅 左近の梅 (右近の橘、左近の梅)
太宰府天満宮の菖蒲池越しに左右を梅林に彩られている万葉歌碑を見る 背景には宝物館と文書館がある
万葉集梅花の宴の梅花の歌三十二首のうちの一首・筑前介佐氏子首(こびと)の万葉歌碑
萬代(よろずよ)に年は来経(きふ)とも梅の花
絶ゆることなく咲き渡るべし 筑前介佐氏子首
万葉集巻五-830
筑前介(ちくぜんのすけ):介は国司の二等官。令制では大国と上国とにおかれた。大国では正六位下、上国では従六位上相当。筑前は上国。当時筑前介は山上憶良のすぐ下の役だったわけである。佐氏(さし):佐伯氏か。子首(こびと):伝未詳。
天平二年(730)正月十三日、大宰の帥・大伴旅人は自邸において、府官および管下諸国の国吏等をまねき、盛大な梅の花の宴を催した。その折の人々が詠んだ歌が梅花の歌三十二首と題されて万葉集に収録されている。
西鉄太宰府駅前から太宰府天満宮参道を望む
西鉄太宰府駅前の灯明台の一面を飾る夏目漱石の句碑
反橋(そりばし)の小さく見ゆる芙蓉かな 夏目漱石
この句の句稿は前書きつきで次のようになっているとのこと。
太宰府天神 反橋の小さく見ゆる芙蓉哉
夏目漱石は妻鏡子と二人で明治29年9月の初めに1週間九州地方を汽車旅行したという。明治29年6月9日、漱石は熊本市光琳寺町の自宅で中根鏡子と結婚式を挙げている。
太宰府天満宮の心字池に架かる太鼓橋(反橋・・そりばし)の第一橋
漱石が詠んだ「反橋の小さく見ゆる芙蓉かな」の反橋は、太宰府天満宮境内の心字池に架かる三連の太鼓橋で、本殿への参拝路となっている。三連といったが実際は第一橋は反橋(太鼓橋)、第二橋は平橋(平らな橋)、第三橋は反橋(太鼓橋)と成っている。太宰府天満宮は鳥居をくぐって境内に入る前に、左手斜めの方向に第一橋と第三橋の反橋を見ることができるのだが、普段は気付かない。第一橋は近く第三橋は遠くにあるので、二つの反橋のうち第三橋の反橋の方が小さく見える。よって、漱石が「小さく見ゆる」と詠んだ「反橋」はどちらかというと、二つ目の反橋(第三橋)の方が相応しいとする論考がある。
そこはかとなく艶っぽくて気品漂う淡紅色の芙蓉の花越しに太宰府天満宮の太鼓橋が望まれる。華やかな風景の先には太宰府天神のお社があるのだ。
ここのところ、ずっと長い間、芙蓉の花木を見つけることができない。
太宰府天満宮参道 突き当りの三の鳥居をくぐった境内の右手に東風吹かばの歌碑がある
東風吹かばの歌碑
東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅(むめ)の花
あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真
福岡県瀬高町出身の書家・助弘桂雪の書 昭和23年(1948)建立
結句が「春な忘れそ」であるこの歌は十訓抄(1252年頃成立)や太平記(1370年頃成立)に出てくるという。拾遺和歌集(1005年頃成立)と大鏡(1080年頃成立)では結句を「春を忘るな」としているようだ。
道真は901年(昌泰四年)2月1日に京都を出発し流罪の地、筑紫大宰府に下ったという。
太宰府天満宮楼門から本殿を拝す
太宰府天満宮内庭から楼門を見る
太宰府天満宮本殿
太宰府天満宮 飛梅 左近の梅 (右近の橘、左近の梅)
太宰府天満宮の菖蒲池越しに左右を梅林に彩られている万葉歌碑を見る 背景には宝物館と文書館がある
万葉集梅花の宴の梅花の歌三十二首のうちの一首・筑前介佐氏子首(こびと)の万葉歌碑
萬代(よろずよ)に年は来経(きふ)とも梅の花
絶ゆることなく咲き渡るべし 筑前介佐氏子首
万葉集巻五-830
筑前介(ちくぜんのすけ):介は国司の二等官。令制では大国と上国とにおかれた。大国では正六位下、上国では従六位上相当。筑前は上国。当時筑前介は山上憶良のすぐ下の役だったわけである。佐氏(さし):佐伯氏か。子首(こびと):伝未詳。
天平二年(730)正月十三日、大宰の帥・大伴旅人は自邸において、府官および管下諸国の国吏等をまねき、盛大な梅の花の宴を催した。その折の人々が詠んだ歌が梅花の歌三十二首と題されて万葉集に収録されている。
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