今日の街角風景は、大分県佐伯市の国木田独歩館を訪ねた時のものである。
国木田独歩は明治26年から明治27年にかけて佐伯に鶴谷学館の教師として赴任。
国木田独歩館は、明治26年10月から明治27年6月末までの間、国木田独歩と
弟収二が下宿した鶴谷学館の館長であった坂本永年邸であり、城山の麓に展開する
城下町の一角にある。
国木田独歩は主屋2階に下宿し、裏山にあたる城山(140メートル)の山上まで散歩
することも多かったと伝えられているとか。
国木田独歩館入口正面の冠門
国木田独歩館前の武家屋敷通り 左に国木田独歩館の冠門
国木田独歩館前で
国木田独歩館前で
国木田独歩館玄関
前庭から国木田独歩館を見る
城山の麓にあたる地形を活かした国木田独歩館の庭園
国木田独歩館の庭園を見る
独歩と弟収二が下宿した国木田独歩館の主屋二階
国木田独歩 (1871~1908)
「春の鳥」、「源おぢ」、「鹿狩」など、佐伯を舞台とする作品も少なくないとか。
上京後は従軍記者を経て雑誌編集などに従事するが、明治41年6月23日
病没。
「武蔵野」、「忘れえぬ人々」、「欺かざるの記」など、明治の文壇に輝く名作を
数多く遺す。
豊後佐伯城址(鶴屋城)の三の丸櫓門(重文) 後ろは城山(140メートル)
国木田独歩館は、この写真の右手の城山の麓に大きく展開する城下町の一角にある。
慶長6年(1601)、秀吉子飼いの大名であった毛利高政が二万石で佐伯藩に移封
され、築城と町作りを進め、慶長11年(1606)に完成したのが豊後佐伯城(鶴屋城)
である。毛利高政は秀吉子飼いの大名でありながら、その大名家は綿々と引き継がれ
明治維新まで存続したという。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます