片瀬城は静岡県周智郡森町にあります。片瀬城は別名一宮城とも呼ばれるようですが、北東1.3kmにある真田山城も別名一宮城と呼ばれています。どちらも在地の国人武藤氏によって築かれたといわれますので、伝承が錯綜している可能性があるかもしれません。
なお武藤氏は室町期にここより約2km東の同じ森町地内の武藤氏屋敷付近に住して一帯を支配したとされます。
今回は現地案内板と「今川氏の城郭と合戦」水野 茂編著2019を参考資料としています。
片瀬城は新東名高速道路の工事で遺構が分断され、遺構の残存状態が悪いとされ情報も不足していましたので、あまり期待せずに出かけました。
現地説明板に掲載されていた、水野 茂さんの精緻な縄張図を帰宅してから検討した結果、この日に見学したのは城域南端部の堀切と工事で削られた曲輪の一つの遺構だとわかり、主郭のある本体部分を別の日に再チャレンジして納得のできる見学が出来ました。
片瀬城 説明板の立つ八面神社 遺構の南端部はここから400m程北にある
片瀬城 説明板に掲載されている精緻な縄張図 作図は「今川氏の城郭と合戦」の編著者でもある水野 茂さん
新東名高速道路の工事で消滅した部分とゴルフ場建設で失われた遺構を加筆しました。八面神社から①までは約400m程あります。初日は新東名との位置関係がよく分からないままでしたので腑に落ちないなァ~と思いながらの見学になりました。
片瀬城 縄張図と国土地理院地図を重ね合わせて遺構位置を加筆 位置関係が把握できた
初日は不満足な形で帰ったので、八面神社に立つ説明板の縄張図と国土地理院地図を比較、重ね合わせて遺構の位置を確認しました。上図のAコースが初日にたどった部分で①の堀切と②の残欠曲輪を見学したことがわかりました。
主郭を含む遺構の大半を見学するにはBコースと判明したので、別の日に再チャレンジで見学に出かけました。
片瀬城 堀切① 新東名の南側にはこの堀切しか明確な遺構はない 縄張図参照
Aコース途中の山道周辺には自然地形や人の手の加えられたあいまいな地形がありましたが、この堀切はハッキリと城郭遺構と分かりました。この段階では位置関係がつかめていませんので、縄張図のどこに該当するかは分からないままでした。
片瀬城 残欠曲輪② 北側は新東名の工事で削られフェンスが張られている
堀切①を土橋で渡り緩い登りの道を少し進むと平坦地に出ましたが、すぐに新東名の金網フェンスになりました。帰宅してからの確認でここが縄張図の②の地点だとわかりました。
片瀬城 新東名の北側に主郭などの遺構が残る。Bコースを登る。 左手上(南)に新東名が走る
新東名の橋の下に車を停めて再チャレンジに向かいます。尾根までは新東名の保守道が利用できました。
片瀬城はAコースのネット情報はありますがBコースの情報は少ないので、道を少し詳しく紹介します。
片瀬城 駐車位置から見たBコースの登り口
遺構は新東名の北側の尾根上にありますのでまずは尾根を目指して登りました。新東名のフェンス沿いに保守道の階段が設けられていましたので崩落個所を除いて楽に登れました。
片瀬城 保守道の階段が一部崩落。 藪漕ぎで迂回する
新東名の保守道が尾根上まで続いていましたが一か所が崩落していましたので、右手○に迂回しましす。左手にはコンクリートの側溝がありますが、転落しかかっていますので近づくのも危険です。この1か所を越せば再び階段の道で楽に尾根に登れました。
片瀬城 堀切④と土橋、奥に曲輪③ を北から見る。その先(南)には新東名のフェンスがある
尾根に登ると城址遺構の中でした。縄張図の「馬出し」の部分は工事で消滅しましたがここから北側の遺構が見学出来ました。
片瀬城 堀切⑥ 西から 左手上に曲輪⑦ 予想外の堀切の規模の大きさに驚く
堀切のスケールは現地に立ってみないとわからないものですが、この堀切も想像以上に大きな規模で嬉しくなりました。
片瀬城 曲輪⑦ 虎口⑥を備えた曲輪 中央奥に主郭、右手に北東辺の土塁、虎口左手にも土塁
堀切⑥から虎口⑥を通り曲輪⑦に入りますが、この間に虎口受けの地形も有り見どころの一つでした。
⑦の北西上には主郭とされる最高所の平坦面がありましたが特段の遺構や土塁は見当たりませんでした。
片瀬城 北端部⑨からの景色 今はゴルフ場となり堀切⑩埋められたようだ
主郭のある尾根の先端部からはゴルフ場が見えました。途中の鉄条網のフェンスを迂回して先端部分まで行ってみました。ここはゴルフボールが飛んで来そうな場所なので危険防止のフェンスだったようでした。
堀切⑩を期待したのですが、ゴルフ場建設で埋められたのでしょうか、発見できませんでした。
片瀬城は事前の情報が少なかったですが、現地の説明板、縄張図のおかげで再チャレンジで想像以上の遺構が確認出来、大満足の見学が出来ました。