毘沙門堂砦は静岡県浜松市天竜区二俣町にあります。
今回は『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会編1978と「豊臣期遠江二俣における城下町と川湊」山村亜紀2018などを資料として携えて出かけました。
天正三年(1575)徳川家康が武田勝頼の家臣依田信蕃の守る二俣城を攻め、籠城する依田信蕃を兵糧攻めにするため家康本陣を鳥羽山城に置き蜷原砦、和田ヶ島砦、毘沙門堂砦を付城として築き攻囲したと伝わります。6ヶ月間持ちこたえた二俣城でしたが天正3年12月には降伏開城して退きました。
往時の二俣城は西に天竜川、東から南に流れる二俣川を天然の要害としていましたが、二俣川は後に河川改修によって流路が大きく変わって今見る姿になりました。
二俣川の流路の変遷と二俣城の付城配置
二俣城で徳川と武田の争奪戦が展開していたころは二俣川の河道はCでした。大雨が降ると天竜川が鳥羽山を回り込む辺りで水かさが増し、二俣川の水位が10mも上がり二俣城の城下は度々浸水被害で悩まされていました。
江戸時代の寛政期になって、篤志家が私財を投げ打ってBへ二俣川を流すため鳥羽山にトンネルを掘る工事を行い、完成させました。ところが間もなくの大雨でトンネルは大崩壊してしまい、その後現在見られる開削工事を行い二俣川の河道は直線的に天竜川に流入するようになりました。
二俣城の北(上流部)、笹岡城の南側の二俣川の河道も蛇行しており、度々氾濫し大きな被害を出していましたので昭和の時代になってDの河道を開削し直線的な流れに改修されました。
※最近の大雨による各地の被害を見るにつけ、往時の人々の水との戦いへの執念を感じます。
さて、ここからは本題の毘沙門砦です。
毘沙門砦 二俣川を挟んだ対岸に付城として築かれ、兵糧攻めの補給路遮断の役割を担った
付城は北に蜷原砦(守将:大久保忠佐)、天竜川を挟んだ西に和田ヶ島砦(榊原康政)、東に毘沙門堂砦(本多忠勝)、南には鳥羽山城(大久保忠世)で鳥羽山城には家康の本陣が置かれたとされます。徳川オールスターが勢ぞろいの徳川の命運をかけた戦いだったことがわかりますね。
家康にとって二俣城の攻略は短期間で終えたかったでしょうが、天然の要害に守られた二俣城攻めを強行して多くの将兵を失うことを懸念して兵糧攻めを選択したのではないでしょうか。
毘沙門堂砦 栄林寺から尾根へ登ると虎口地形、土塁地形が見えてくる
陣城としての構築だったためか、短期間の使用だった為か遺構の形は明快ではありませんでした。虎口らしい地形、土塁らしい地形としておきたいと思います。
毘沙門堂砦 主郭東側の尾根を断ち切る堀切
堀切は元々浅かったのか、風化によって埋まったのか確認はできませんでしたが、現況は浅い堀切が尾根を断ち切っていました。尾根の西端部に主郭が有りましたが、地形が残るのみでした。主郭周辺には無線中継の反射板が立っていました。
毘沙門堂砦 主郭下には腰曲輪が築かれている。防御の要は切岸
主郭から二俣城は西に700m程ですから、お互いの動きはよく見えたと思います。四方を取り囲まれた二俣城では、武田勝頼の後詰を期待して6ヶ月間も耐えていたのではないでしょうか。結局、援軍来たらずで降伏、開城になりました。
毘沙門堂砦側から見ると、二俣城から城兵が打って出て、二俣川を渡って攻めてくることは考えにくいので、厳重な防御態勢を構築する必要がなかったように思いました。念のための砦構築工事を行ったのではないでしょうか。
二俣川の流路の変遷がとても興味深かったので、そちらに重点を置いた内容になりました。往時の地形(川、道、田畑)と今の地形が大きく変わっていることが間々あるので、注意深く見ていく必要があると改めて感じました。