岡崎城は愛知県岡崎市にあります。徳川家康生誕の城として有名ですが、三河の雄族として飛躍するためには岡崎城での困難な戦いを経なければなりませんでした。
家康が誕生のころの岡崎城、三河の覇者となるころの岡崎城、東へ大きく勢力を伸ばすころの岡崎城、近世の岡崎城など城郭としての構成は変遷をたどっていますが、本丸の位置は築城初頭からほぼ変わりがないようです。
今回は天正六年から十三年にかけて家忠日記に度々登場する岡崎城の新城について「三河岡崎城」愛知中世城郭研究会編 2017を主な参考資料として現地を訪れました。
岡崎城 曲輪の概略位置図 時代とともに曲輪の数、名称が多少変化した
「三河岡崎城」によれば若き日の徳川家康が三河一向一揆との戦いに勝利し足元を固めたあと、東の遠江へ勢力を伸ばし浜松へ進出したころの岡崎城は現在の東曲輪までだったと考えられています。
※伊賀川は現代の河川改修前には300mほど西を流れていました。
岡崎城 東曲輪 今は駐車場となったが復元されてた東隅櫓が立つ
新城が築かれる前は 本丸、二の丸、東曲輪が主だった曲輪で、三の丸、備前曲輪はまだ無かった。南を流れる菅生川からの比高は約12mです。
備前曲輪 今はビルが立ち並び遺構はないが地形が残る 家忠日記に登場する新城はココ!
家忠日記の天正六年二月十一日には新城普請の触れがこの日あったとされます。ただしすぐに中止されました。武田との軍事衝突に備えた浜松への参陣のためと考えられています。
浜松参陣が中止となり同年2月18日には再び新城普請が始まり21日まで毎日新城普請を行っている様子が日記からわかります。
これまで岡崎の新城はどこだったのか分かりませんでしたが「三河岡崎城」では研究成果として後に備前曲輪と呼ばれるようになった部分を指しているとされました。
新城は、岡崎城本丸から約400m、東曲輪から約200mの位置にあり、東向きに備えた独立した城として築かれたようです。
武田との緊張関係にあった家康が、岡崎城を守るため東側に出丸のような城を築いたと思われます。
家忠日記によると同年2月末日まで普請は続きましたが3月1日になって浜松より陣触れがあって普請はいったん中止されました。
岡崎城 備前曲輪南側の高低差 ここだけで3mあるが菅生川からは約12mの高低差
地図を見て分かるように、新城(備前曲輪)が築かれたのは、菅生川の段丘崖の上で、この付近の段丘は2段になっていた可能性がありそうです。
岡崎城 三の丸 家忠日記のころにはまだ築かれてなかった可能性あり 写真で見えている範囲がほぼ三の丸
今は現代の道路が通り、ビルが立ち並び往時の面影は全くありませんが、絵図によって三の丸の位置は判明しています。三の丸が築かれたのは新城(備前曲輪)が築かれた後の岡崎城の曲輪の拡張に伴ってのことの様です。
天正十三年十一月十三日になると、大事件がおきました。豊臣秀吉と敵対した家康の岡崎城を守っていた石川教正が出奔したのです。家忠日記によれば家忠は、どの国衆よりも早く岡崎城に駆け付け、新城の「七之助かまえ」に入って非常事態に備えたとされます。同年十一月十八日には家忠が岡崎城の普請に入っているので、石川教正の出奔に拠って秀吉方に漏れた軍事秘密である城の構造を、急いで手直ししたのではないかと思います。その後十二月に入るとすぐに岡崎城の南部にある東部城の普請に入っています。秀吉との緊張関係が高まり、西からの攻撃に備えた動きだったとされます。
家忠日記に登場する「七之助かまえ」が新城そのものの呼び名だったのか、新城の一部を指すのかは家忠日記からはわからないようですが、この素早い行動が後に家康にほめられました。
家忠日記によると天正六年段階の新城普請の時に国衆が平岩七之助親吉からふるまいを受けているので、この七之助と新城の「七之助かまえ」に関連があるかもしれないと想像しました。
これまで岡崎城の多くの曲輪は、遺構が失われているとして、見学したことがなかったのですが、今回「三河岡崎城」を参考にして見て回りました。確かに遺構は有りませんが、絵図に基づいた曲輪の位置などを手掛かりの、想像力を思いきり膨らませて見学することで、往時の姿がいくらか見えたように思い、望外の収穫が有りました。また家忠日記も改めて読み直したいと思いました。
※【現代語訳、家忠日記】中川三平編 2019 も参考にしました。