岡崎城は愛知県岡崎市にあります。徳川家康生誕の城として有名ですが、城には興味深い歴史が多く、何度訪れても新しい発見でワクワクです。
今回は岡崎城再建60周年の記念事業の一環として普段は立ち入ることができない清海堀の見学が期間限定で行われているので訪れました。
岡崎城 清海堀 「岡崎城跡 石垣めぐり」パンフレット 抜粋して加筆
当日参加者に配布された資料は上記パンフレットと岡崎市文化財保護審議会委員で岡崎城を知り尽くした奥田敏春氏の解説チラシ、60周年記念シールでした。上図はパンフレットの岡崎城図(後本多・江戸時代後期)の一部に奥田氏の解説チラシに基づいて、清海堀の城防御上の働きを矢印で書き加えてあります。
清海堀の名前の由来は、松平氏が岡崎を制する前に西郷清海入道が作った堀と伝承されているためで、奥田氏によれば古くからある堀という意味のようで確たる根拠はなさそうです。
絵図は江戸時代後期のものですので、徳川家康が構築したとされる清海堀の基本は維持されつつ後世の石垣、櫓、門、曲輪などの築造結果が示されています。
家康の築いた清海堀をめぐる道は、二の丸から(清海堀)の土橋を渡り持仏堂曲輪で直角に2回曲がり清海堀の北側の細い通路を進み、もう一度直角に曲がって本丸に入るものだったと解説されています。
岡崎城 (清海堀) 解説チラシによる清海堀は南北の二条の堀を指すとされる
南側の清海堀だけを清海堀とする見方もあるようですが奥田氏は、家康が築いた清海堀はその機能から南北2条であったとされます。写真は北側の(清海堀)とした土の堀です。今は風化により堀底が丸みを帯びていますが、往時は薬研堀でもっと深かったと思われます。南側の清海堀も石垣を積む前は、このような形状だったのではないでしょうか。
岡崎城 清海堀に降りる特設階段 普段立ち入れない廊下橋から特設階段で降りる
受付を済ますと、ヘルメットと軍手と資料を渡され、廊下橋から特設階段で一人ずつ清海堀に降りました。もうワクワクです。廊下橋は大正時代に現在のコンクリート造りになったそうです。
岡崎城 清海堀 左手は石垣、右手は土の切岸。右手上に本丸、天守がある
城の石垣は、武威を示すために見せる石垣を積んだとされますが、ここでは見えない側に石垣を積み見える側は土の斜面になっています。堀底の人物と対比すると石垣の高さが想像できると思いますが、堀底から見ると石垣が垂直に立ち上がっているように見え圧倒されました。堀は時間の経過で埋まっている可能性が高いそうですが、往時の堀底を確かめる発掘調査はされていないそうで、今後に期待です。
岡崎城 清海堀の石垣は田中吉政が初期で、5期ほどに分けられる。
徳川家康が南北2条の清海堀を築いたのは、豊臣秀吉と敵対した小牧・長久手の戦いの時とされますが、その後家康の関東移封によって秀吉家臣の田中吉政が岡崎城に入部し天守台の石垣を築いたとされます。同時期に清海堀の初期の石垣も積まれたと考えられています。現在見ることの出来る清海堀の石垣は崩落、改築によって積み直しが度々行われてきたので積まれた時期が5期ほどに分けられて確認出来るそうです。清海堀の石垣は、まさに石垣のデパートですね。
写真の石垣でも手前は野面積みで古く、奥は新しいのがわかります。
岡崎城 清海堀の石垣 表面の築石が転落して中の裏込め石が見えている。
この辺りの石垣は田中吉政時代とされる石垣です。いかにも古そうな野面積みの石垣です。貴重な石垣を守るため、石垣周辺の樹木が伐採されています。樹木よりも石垣の保護を優先してほしいと願うばかりです。
岡崎城 矢穴で割った石。一つの石で矢穴のサイズが複数ある
当初は自然石の野面積みだった石垣も次第に矢穴で割って整形した石が使われるようになったとされますが、ここではその変遷が分かる、各種の石が積まれています。写真の石は矢穴で割られていますが矢穴の幅と深さ形状が3種類ほどありますね。矢穴の形状によって道具の矢も違うとされるので、どうしてこうなったのか不思議に思いました。
岡崎城 再建60周年記念御城印 紙の汚れに見えるのは細かな金箔です。キラキラときれいです。
記念事業として、岡崎城天守受付で御城印をいただきました ¥300。 御城印、今はやりですね。
岡崎城は絵図で分かるように、南は菅生川、西は矢作川という天然の要害で守られているため防禦の要は東と北の方向になります。絵図の備前曲輪(新城)は家忠日記に登場する、家忠が普請にかかわった岡崎新城とされ、東からの武田氏に備えたとされます。後に秀吉と対峙した時には北に備えて二の丸からの進入路を2条の清海堀で補強したのではないでしょうか。
⯃清海堀探索のイベントは2019/11/30(土)までの土日(午前10時~午後3時)に行われています。残りわずかの期間ですが、興味深い見学になると思いますので、お時間のある方は是非どうぞ。