寺本城は愛知県知多市八幡字堀之内にあります。
寺本城は大高城の城主を務めた花井備中守の一族の花井播磨守により築かれたとされます。城址は開発により一部が改変を受けていますが神社の境内地であったたため、かなりの部分が残されていました。
今回は (1)「愛知県中世城館跡調査報告4 知多地区」愛知県教育委員会編1998 を資料として出かけました。
寺本城 付近の開発が進み伝兵衛山、尾崎山と⑤は失われた。②③④は曲輪が改変されたものか不明
カーマホームセンター、FEEL のある場所は尾根状地形があったが今は削り取られました。伝兵衛山、尾崎山も今は失われましたが、明治期の旧地図や昭和23年の米軍空中写真ではまだ尾根上に平坦面が残されているのがわかり、ここが寺本城の一部だった可能性がありそうで、(1)では屋敷地の存在の伝承が記されていました。。
旧地図によれば⑤には尾根状の地形があったようですが、空中写真では確認できませんでした。
②③④は腰曲輪状の地形ですが今は耕作地となっていました。(1)の作図者の高田 徹さんは「曲輪が改変された地形かは不明」と慎重な見方をしておられます。
寺本城 ①は島津神社の参道 aは神社関連の建物跡(更地) Aが虎口
①の道を登り、Bに出ると虎口のように見えますが、(1)によると神社参道として設けられた、後世の道で道沿いの石垣も往時のものではなさそうです。城が稼働していた時の虎口はAとされ、北側から登る大手道を不鮮明ながら見ることが出来ました。こうしてみると寺本城は東に開いたC字型の尾根を利用した城郭・屋敷群だったのかもしれませんね。
寺本城 概略図のa 神社関連の建物跡あり 奥に小曲輪
aの平場には建物跡がありますが今は更地です。aとbの間に小平場がありますがAが大手虎口だとするとaは後世の神社関連の建築物に伴う平場ように思いました。
寺本城 津島神社 道①を登り切ると石段の奥に津島神社が見える。Bの部分を南から
主郭Ⅰには花井氏の創建による津島神社が祀られていました。寺本城は土の城だったようで、付近の石垣や石段は後世のものということです。社殿裏側にはbから下段への尾根に2段の小さな削平地がありました。
往時は北側の尾根が伝兵衛山に有った屋敷地まで伸びていたと思われます。
寺本城 Ⅰ郭と虎口A Aから下段に降りる道が不明瞭ながら見られる。西から
主郭Ⅰは東西に延びる尾根の地形をそのまま使って築かれていますので、不整形な形をしていました。(1)によるとAが虎口となっています。とても分かりにくく大手道も明瞭ではありませんでしたが下段の平場へ続く不明瞭な道跡を見ることが出来ました。
寺本城 主郭Ⅰ東端部 先端部にはV字型に土塁が残り手前に窪みがうっすら見える
主郭Ⅰの東先端はV字型に尖った地形になっていました。地形のV字に沿って土塁が築かれていたようで、手前には窪みがうっすらと見えました。ここ以外にはⅠ郭に土塁地形は見当たりませんでしたが、神社造営のために改変されたのかどうかは不明でした。
寺本城 神社裏の尾根の小平場 上からb1、b2。 Ⅱ郭へ降りることができる
概略図のbの尾根はⅡ郭に向けて下っています。尾根の途中には小さな平場が削平されていました。軍事的な意味はよく分かりませんがⅠ郭とⅡ郭を結ぶ通路の一部だったのかもしれないと想像してみました。
寺本城 Ⅱ郭 西から。 右手切岸の上にⅠ郭が見えている。奥に虎口への大手道がある
Ⅱ郭は主郭の北側に帯状に約60m伸びています。Ⅰ郭の切岸は、往時はもっと急だったと思われますが、今は地形の風化でかなり緩やかになっていました。Ⅱ郭の西北端は尾根⑤が削り取られたためか急崖になっていました。
寺本城 大きな平場④ 今は果樹農地などになっている
概略図の④の平場は段がありますが、寺本城では最も広い面積になっています。(1)では「曲輪かどうかは不明」とされていますが、曲輪とみてもよさそうな地形でした。
寺本城 Ⅲ郭 奥に樹木に覆われたⅠ郭 東から
今は耕作地として使われていますが、往時は尾崎山との間に有った曲輪でした。右手の奥下に④、左手奥下に③、②と平場が続きます。(1)によればⅠ郭と尾崎山はⅢ郭よりも高く、Ⅲ郭は鞍部だった可能性を指摘しています。
寺本城 Ⅲ郭 東辺の地形 南から。 右手に有った尾崎山が掘り下げられてⅢ郭側が残された
Ⅲ郭の東側には尾崎山と言われる尾根が続いていて尾根上の平坦地が屋敷地になっていたとされます。Ⅲ郭よりも高かったと見られていますが、今は掘り下げられて尾崎山はなくⅢ郭の東側は切岸状態になっていました。写真右側にはパチンコ店の建物が見えています。
寺本城周辺は開発によりか、地形が大きく変わってしまいましたが、資料(1)の詳しい解説文により往時を想像しながら楽しく見学出来ました。