物見山は愛知県瀬戸市海上町にあります。海上(かいしょ)町は住む人のほとんど居ない広大な森林で、2005年愛知万博の会場として開発される計画が中止されて今も豊かな森林が残され、人気のハイキングコースが何本も通っています。
今回の資料は(1)「物見山と信玄伝説」 織田 博著 城・第147号 東海古城研究会1993 と (2)「瀬戸市内中世城館調査報告」石川浩治著 愛城研報告 第5号 愛知中世城郭研究会2006 です。
資料(1)によると、地元に伝わる武田信玄の伝説は、三河地方に進出した信玄が物見山から尾張、美濃の物見をしたというもので、山下の海上町の陶龍寺には信玄を葬った墓が伝わっていました。
物見山 別名「七城が峰」と呼ばれ犬山城・小牧城・岐阜城・墨俣城・清州城・岩崎城・挙母城が一望出来たと伝わる
物見山は土塁、堀切等の城郭遺構は見当たりませんでしたが、四つの削平地が残り、濃尾平野の隅々まで見渡せる立地で眺望は見事で、晴れて空気が澄んだ日なら「七城が峰」の名の通り七つの城が見えたのではないかと思いました。
物見山 一般車の乗り入れは禁止! 片道3Km程の軽登山を楽しみながらの見学になる
海上集落に住人は殆どいませんが、一般車は乗り入れが禁じられていますので、手前の「海上の森駐車スペース」に駐車して約3kmのハイキングコースを歩きました。ハイク道は何本もありますが随所に道標が出ていましたのでAのコースでのぼりました。
物見山 海上の森駐車スペースに駐車
この先に駐車場はなく、行き止まりである旨の案内がありました。実際に歩いてみると、ここに駐車しておいてよかったという状況でした。
物見山 四段の削平地が在るが、往時と後世の地形の判断は難しい
資料(2)によるとⅠ郭には、宗教施設が有ったらしく、方形の石積のお堂跡が 残されていました。この地が物見として稼働していた時から有ったかどうかは判然としませんが、資料(1)では後世のものとしています。
物見山 Ⅰ郭 西から。削平は往時の姿か?
Ⅰ郭にはお堂があり、麓の住人がお祀りしていたと思われますので、後世の改変が有ったと考えらます。往時は物見のための簡易な小屋ぐらいは建てたかもしれないと想像しましたが、どうでしょう。
物見山 お堂の方形石積 案外新しそうに見える
お堂が何時まであったのか確認できませんでしたが、石積部分は古くはなさそうに見えました。
物見山 Ⅰ郭北東隅 ③の石垣 石壇の土留めの石垣か
お堂の方形石積の築造のために土留の石垣を築いたように見えました。城郭遺構ではなさそうですね。
往時の物見山は、臨時的な目的で使われた場所で、構築物は最小限だったのではないでしょうか。
資料(1)(2)とも石積や石垣は後世のものと見ていました。
物見山 図2の平場①の削平は甘い。南西端には古墳の一部とみられれる大岩がいくつも見える
今回確認していませんが、付近には古墳群があるようで、平場①にも古墳の案内板がありました。大きな岩がいくつも見られましたが、古墳のどの部分にあたるのかは分かりませんでした。①の平場が城郭関連かもハッキリしませんでした。資料(2)にも記されていますが平場②と④についても城郭関連かは疑問でした。
物見山 信玄の隠された墓があるとされる陶龍寺の案内板
武田信玄が側室、家臣などとともに葬られたとされる墓がある陶龍寺の案内板が帰路のBルートの途中の、海上の集落にありました。荒唐無稽の伝説のようですが、武田軍が一時期この付近まで来たということはありそうですので、武田軍の物見の兵が織田軍に発見されて討ち取られたということは有ったかもしれませんね。
そのような事柄がどこかで信玄と結び付いて伝説が生まれたのではないでしょうか。
物見山にはハッキリ城郭遺構と確認できるものはありませんでしたが、Ⅰ郭からの素晴らしい眺望で、信玄伝説との関連の一端を感じとることが出来ました。