下呂森城は岐阜県下呂市小川にあります。下呂は温泉地として有名で、山下の河岸段丘には温泉旅館が立ち並んでいました。
下呂森城の城主、来歴は諸説あるようですが詳細は不明です。16世紀初め頃には当地を領した豪族により築城され、後に飛騨の国主 三木氏の配下となったと思われます。
城址は通称「城平(しろだいら)」と呼ばれ飛騨川に突き出した舌状尾根先端の平坦な自然地形を利用した面積の広い曲輪が特徴になっています。ここからの眺望は素晴らしく、城が稼働していた時には飛騨川に沿った益田街道や河岸段丘の広い範囲を見張る事ができたであろうと思いました。今回の資料は「飛騨中世城郭図面集」佐伯 哲也著2018 です。
下呂森城 ハイク道が整備され山下から登るコースと山上から尾根伝いに行くコースが有る
山下の下呂ふるさと歴史記念館から登るコースも有るようですが、今回は山上の駐車場から細尾根伝いに行くコースで訪れました。資料によると途中の細尾根も一騎駆の道で、防御施設の一部になっていた可能性が指摘されていました。
下呂森城 展望台、休憩所、遊歩道などが整備され、遺構の一部が改変を受けた
各種整備が行われたが、城址遺構は案外残されていました。図2の細尾根の②付近にも堀切があったようですが、遊歩道で拡幅され明確には確認できませんでした。
下呂森城 一騎駆の 細尾根は植林され、道は遊歩道として整備され、幅広道になった
往時の細尾根の実感は有りませんでしたが、植林前の尾根道は侵入者の姿がよく見えたのではないでしょうか。
下呂森城 細尾根の道は整備され車が通れるほどに拡幅された 城址北東から
遊歩道は車が通れる広さが有り、細尾根は拡幅されていました。写真左側の道が新たにⅠ郭まで新設された道で中央の尾根へ登る城道でⅢ郭に登りました。
下呂森城 Ⅲ郭からⅡ郭を見上げる 階段が整備されている
Ⅲ郭からⅡ郭へは階段が付けられていました。往時は虎口地形があったかも知れませんが、確認はできませんでした。
下呂森城 Ⅱ郭とⅠ郭間の堀切① 北から
資料によると、橋は往時もかかっていたようで、橋台地形が残るそうですが、今は橋の下になって確認が困難でした。戦時は橋を撤去して堀切を防御施設として細尾根方面への備えとしたのではと想定していました。
下呂森城 Ⅰ郭 舌状尾根の先端部の広い平坦な曲輪で土塁はない 奥に展望台
Ⅰ郭は75m×45mほどの広い平坦な自然地形を利用した曲輪で、まさに城平(しろだいら)の通称がぴったりですね。周囲に土塁は見当たりませんでしたが往時も土塁はなかったものと思われます。 曲輪の南側には写真のような展望台が有りました。休憩所もありハイキングを目的とした城平の整備が行われたようです。
下呂森城 Ⅰ郭 展望台からの眺望 飛騨川と下呂宿の広い範囲が一望できる
展望台は城郭遺構とは関係なさそうでしたが、そこからの眺望は素晴らしいものでした。山下の益田街道も丸見えで、見張台としてピッタリの場所だったことがわかりました。
下呂森城 Ⅰ郭 南側の切岸と帯曲輪
Ⅰ郭の南側は約3mの高さのやや甘い切岸が設けられていました。その外側には帯曲輪が有りましたが、帯曲輪は切岸を削り出すために出来た地形ではないかと思いました。
Ⅰ郭からは山下に向けて整備された幅広の遊歩道が下っていましたが、付近には旧道も見られました。資料によると旧道は平時には山下からの往来に使われた可能性を指摘していました。Ⅰ郭と旧道の接点には虎口があった可能性がありますが、遊歩道の整備などで改変があり、確認はできませんでした。
下呂森城は戦時の見張りに特化した城、戦時の詰城などが考えられますが、戦闘を想定した厳重な防御施設は備わっていなかった印象でした。
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