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三河・長江城 切通し道は大堀切だったのか? 二の丸・三の丸は自然地形か?

2020-05-04 | 歴史

長江城は愛知県北設楽郡設楽町長江にあります。長江の地は東三河の山間部に有り、古くは三河から信濃への道が通る重要な場所に位置していたと考えられます。
 長江城は鎌倉時代の初めごろに長江の地に地頭職として来住し館を構えた永江氏に始まり室町期に廃城になったと伝わり、鎌倉期の様式を残す山城とされます。
 今回は「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993 と愛知県中世城館跡調査報告書2を資料として出掛けました。

 
長江城 大堀切Aは切通道? 二の丸、三の丸は自然地形?
 資料「史跡散策 愛知の城」によれば尾根を断ち切るAの堀切状地形を大堀切としていますが、切通し道としている情報もあります。
 二の丸、三の丸は自然地形かもしれないと思わせる地形でしたが果たして・・・。
※愛知県中世城館跡調査報告書2では二の丸はⅡ、三の丸はⅢとなっています。


長江城 5万分の1 国土地図の旧図 道の状況が随分変わったのがわかる
 上図で昔の道は長江城の東側を通っていたことがわかります。だとすると堀切状地形Aは「切通し道」と言えますね。※旧図 5万分の1地形図はこちら
 信濃へは図中の柴石峠を通って北上するルートが主要な道だった時代があったようですが、現在は主要道から外れ、車の道は残されていません。 ※参考:柴石峠と損者砦の記事はこちら


長江城 寺所跡 地元の方が立てた寺所跡の表示板が有りましたが、文字が薄くなっていました
 長江城への道の途中にお寺の跡地が有りました。集落内には神社(長江神社)は有りましたが、お寺はなくなったようです、山間部で人口減少が進んだためでしょうか。


長江城 堀切状地形A 峠にはお地蔵さんが祀られている
 廃城となって500年以上経過していますから、往時の道がここを通っていたかどうかも定かではありませんので、堀切としての役割だったのが後に切通し道として利用された可能性もあるかもしれないと思って見学しました。お地蔵さんは後の時代に切通し道の峠に祀られたと思われます。


長江城 主郭Ⅰ 山の神の石の祠が祀られている。 城郭遺構らしきものは見当たらず
 鎌倉から室町期に存在した山城ということで、山頂部分には戦国期の山城のような城郭遺構は見当たりませんでした。山頂部は削平されたと思われる平坦地が広がっていました。山の神の石祠は後の時代のものだと思います。


長江城 主郭Ⅰ(本丸)に立つ城址標柱
 地元の方が立てた表示版も有りましたが、残念ながら文字は読み取れませんでした。城址標柱では主郭Ⅰは本丸となっていました。


長江城 二の丸 ほぼ平坦地だが、全体にゆるい傾斜がある
 ここにも地元の方が立てた表示版があり、かろうじて二の丸と読めました。たしかに平坦地ではありますが、500年以上前にここに館が立っていたかどうかは表面観察だけでは判然としませんでした。人手が加わった平坦地だったとしても、長い年月での風化を考えれば、自然地形に見えるかもしれないと思いながらの見学でした。


長江城 三の丸 平坦地が広がっているが今は山林となり、城郭遺構は確認できない
 三の丸にも文字がなんとか読める表示版が立っていました。二の丸、三の丸とも人手が加わった削平地で往時は館が立っていたとしても、現時点では確認することが出来ず、それらしい自然地形と見ることもできる場所でした。また後世の耕作地として使われていた場合も多いと思いますが、ここではその点も不明でした。

来住して以来、十代に亘って地頭を努めた長江氏ですのでそれなりの居館があったと思われますが、二の丸・三の丸の場所だったのか、現在集落のある付近であったのかも明確ではありませんでしたが、古い時代の山城や道の変遷などを見学できてよかったです。


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