黒谷城は愛知県岡崎市明見町黒谷にあります。黒谷はクロヤと読みます。
明見集落には奥平氏関連の滝山城と屋敷跡がいくつかありますが、黒谷城は西側の淡渕方面から明見地区に通じる宮崎街道(図1の宮崎街道は近代の道)を見張る位置に築かれていました。男川が大きく蛇行する尾根に築かれていますが、往時は黒谷場を巻いて流れる男川沿いの県道はなく、古い宮崎街道が尾根の峠道を越していました。
今回は(1)「岡崎市東部地域遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010、(2)三河国二葉松、(3)「岡崎市東部地域遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010、2万分の1 国土地図 明治23年測図、5万分の1 国土地図 大正7年修正測図、「宮崎村誌」 昭和7年宮崎尋常高等小学校職員編 を参考資料として出掛けました。
黒谷城 黒谷城の名称は黒谷の地名から来ているとされ、南の山下に僅かな耕作地があった可能性がある
築城年等の詳細は不明ですが黒谷半九朗数馬(2)、または勝直(1)が城主だったと伝わります。黒屋(クロヤ)氏と奥平氏の関連も明確ではありません。明見の奥平氏一族と関係が有るとすれば、北西約3kmの夏山の奥平氏の配下となった黒屋(クロヤ)氏との関係や、明見の西側の備えとしての存在を考えてみましたがチョット想像を膨らませ過ぎでしょうか。 夏山奥平氏と夏山城はこちら
※城主は(2)により数馬とされるのが一般的ですが(1)では勝直とされています。
黒谷城 往時の宮崎街道はb~cを通っていた。黒谷経由の県道は現代のもの
黒谷城は明見集落から見ると妙慶を流れる川を挟んだ対岸なので奥平氏の一族ではない城主だった可能性を考えましたが、どうでしょう。
b~cの古い道は、長篠・設楽原の合戦のときに鳥居強右衛門が、長篠城から岡崎までを往復して信長に援軍を求めたという道の可能性が濃厚です(強衛門の道は諸説あり!)。
※宮崎街道については別途当ブログにアップしたいと思います。
黒谷城の山頂部の平坦地に送電鉄塔が立っていますが、遺構は見当たりませんでした。黒谷城のある尾根が岩山で井戸はなさそうなので、南側の山下に館があり山頂部は詰城だったのではないかと想像しましたが、どうでしょう。 ※今は南側 山下に県道が通り平坦地は林木育種地となっています。
黒谷城 山頂部には平坦地があり標高223.9mの三角点が有る
山頂部の平坦地は削平されたのか、自然地形なのか、判別しにくい状態でした。表面観察だけでは城郭遺構がわかりませんが、有ったとしても見張小屋程度の簡単なものではなかったかと思いました。
黒谷城 山頂の平坦部に立つ送電鉄塔
山頂の平坦部は面積が広いので、送電鉄塔を建てるために付近を大きく削ったという様子がありませんでした。
黒谷城 石積の小さな平場は城郭遺構か、果たして・・・?
頂上から少し下ったところに斜面を削った小さな平場がありました。土留の石積がありますが城郭遺構なのか、後世の山仕事などの関連なのかハッキリわかりませんでした。前のめりで見ると城郭遺構にも見えますが、どちらかというと新しいかな?。 散乱する石は黒谷城周辺は岩尾根なのでその一部と思われます。
黒谷城 尾根の凹み 井戸?、狼煙穴?、根こそぎ倒木の跡、それとも・・・
遺構が見当たらない黒谷城では僅かな地形の変化にも城郭遺構の可能性を考えてしまいます。岩山の尾根に表土が乗った黒谷城では井戸は考えにくいですが、明見との連絡用の狼煙穴は考えられそうです。山城ではよくある倒木跡も考えられます。子供の頃、山仕事の昼メシ時に大人が穴をほって火をたいて「煮味噌」をおかずにしたことも思い出しました。
黒谷城は城の歴史も遺構もはっきりしない城郭でしたが、古い宮崎街道とセットで見ると、興味深いものがありますので「宮崎街道」を別にアップの予定です。