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近江・音羽城と中野城 後世の改変が城郭遺構のようで、紛らわしいので要注意

2019-03-27 | 歴史
音羽城、中野城(日野城)ともに滋賀県蒲生郡日野町にあります。
 3月の東海古城研究会の日帰り見学会で訪れました。当日頂いた資料を参考にさせていただきました。

音羽城は中世後期、日野町南部一帯を支配した蒲生氏の拠点として、度々合戦の舞台になりました。近江六角氏が蒲生氏を頼り籠城したことでも知られます。その後、蒲生家を2分する内紛に六角氏が介入し大永三年(1523)に破城となったなったとされます。
 蒲生氏は拠点を中野城(日野城)と鎌掛城に移し存続しました。


音羽城 出曲輪の虎口堀切と土塁 左手が土塁
音羽城の城郭遺構は後世の改変が激しく特に本丸付近の遺構の残りが良くないです。その中でも本丸から離れた出曲輪付近の遺構はよく残っていました。写真は本丸北西部の出曲輪の虎口の土塁と堀切です。


音羽城 南側の伝出曲輪への土橋と堀切
本丸南側の伝出曲輪へ渡る土橋と両サイドの堀切は、かなり旧状をとどめているように思いました。伝出曲輪は「伝」がつくように後世の改変があるようです。


音羽城 本丸の東側と南側のトロッコ道 堀城地形は城郭遺構にあらず
明治以降、付近の農業用溜池の造成工事で、音羽城から大量の土砂が採取され、運搬用のトロッコ道が掘られました。今見ると程よく風化されてまるで城郭遺構の「堀」のように見えます。知らずに見れば間違いなく「堀」にみえるので誠に紛らわしいです。

音羽城には、本丸に井戸跡、伝出曲輪には伝櫓台跡などもありますので、アレコレ自分なりに評価しながら見学が楽しめました。


中野城(日野城) 幅の広い内堀 東端から
中野城は歴史的には日野城というが、同じ日野町には音羽城もあることから、地名をとって中野城と呼ぶようになっているようです。
 天文二年(1533)から2年ほどかけて蒲生定秀が築城したとされます。現存する堀遺構だけを見ても大土木工事が想像できます。有名な蒲生氏郷は貞秀の孫に当たります。東側に隣接して流れる日野川を要害とし、西側と北側、南側に幅広の堀を穿って守りを固めていたようですが東側と南側は日野川のダム建設により大きく削り取られ、往時のすがたは想像が難しくなっています。幸い北側と西側には埋まりながらも堀跡が残されていました。


中野城 本丸北側に残る土塁 土塁間の通路北側には石垣が見えるが後世のもの
中野城も消滅部分以外にも後世の改変があります。本丸北側の分厚く高い土塁は往時の遺構ですが土塁の間の通路は、古い絵図などで比較すると後世の切通道の可能性がありそうに思いました。ひょっとすると写真に書き加えたように両方の土塁は一体だったかもしれません。
 土塁面の石垣は後世の護岸用のもので、知らずに見て往時のものと間違えないようにしたいものです。紛らわしいですが、コンクリートの擁壁でなくてよかったという感想です。

        
仁正寺藩陣屋 從是東仁正寺領 の石柱 移設されている
 蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に移封し、慶長五年(1600)関ケ原の戦い後に廃城となっていたが、元和六年(1620)市橋長政が中野城跡の北側の一部に陣屋を構え明治まで続きました。仁正寺藩庁の建設では中野城跡の堀、土塁、本丸などにはほとんど手を付けなかったようです。


日野の城下町に残る武家屋敷と門
日野の城下町は蒲生氏郷がその基礎を築いたとされていて、町並みには今も武家屋敷と豪商の屋敷跡が残されています、古くは鉄砲の街として栄えたようですが、太平の世となり薬の行商などの商人が栄えたとされます。
 中野城、仁正寺陣屋の見学だけでなく日野の城下町歩きも時間をかけて楽しみたいものと思いました。

中世の城郭遺構は後世の改変を受けて、完存するものは数少ないです。音羽城、中野城も後世の改変をかなり受けてはいますが消滅してしまったわけではないので、見学会の資料での予備知識と現地案内看板などを参考にかなり楽しめました。