今年も「敬老の日」を迎えました。
昨年までは、敬老の日には全く関心が無く、今日は「旗日だな!」と思うくらいでしたが、今年は少し違います。
というのは、白爺とEmii二人が、市役所から「喜寿のお祝い」を頂戴したからです。
少ない予算の中からお祝いを頂いたので、恐縮するとともに「77年間もの長い間生きてきたんだなー」と、あらためて今日まで歩いてきた人生を思い起こしてしまいました。
今までにも、お知らせしたことがある内容かもしれませんが、喜寿の区切りに、もう一度手元にある昔の写真を眺めながら、当時を思い出すことにしました。
昭和8年東京で
白爺が3歳のときの写真ですが、馬に跨っているようです。
白爺が生まれるときは、安産を願って「おふくろさん」は日本橋の水天宮に日参したそうです。
そして、「お産婆さん(オサンバサン)」が女の子だろうと言ったとかで、女の子が生まれる準備ばかりしていたので、白爺は「長い間女児の産着を着せられていた」と話していたことを思い出します。
余談です。
当時の出産は、病院ではなく「お産婆さん」のお世話になって出産するのが当たり前でした。
白爺の娘二人も、若狭の小浜で「お産婆さん」のお世話になり生まれました。
白爺は、竃の前で産湯を沸かすだけが担当でした。
独り言
今産婦人科の病院がないと騒いでいますが、人間は、哺乳動物の類だから、子供が成長すれば、自然に出産してくるのではないのかなー。
それなら、今でも「お産婆さん」がいればOKなのでは?
部屋が小さかったり、竃が無いからダメかなー。
それとも(責任?責任?&権利?権利?)でダメかなー?
いずれにしても、こんなこと言ったら、Emiiに「男の人にはあの辛さは分からない!」と一喝されてしまいます。
Emiiが、ブログを開くことが無いのを知っているから言いました。
当時の風景などは、殆ど頭の中に残っていません。
ただ、両親に連れられて行ったのでしょう「たわらまち」の言葉と地下鉄の独特な臭い(今は臭いがしませんが、白爺には独特の香りが思い出せるのです。)それに金魚の水槽が近くに見られたような気配だけは残っています。
おそらく、仁丹塔近くにある菩提寺に、お参りに行ったときの気配でしょう。
母親が言っていました。
白爺が「疱瘡」の種痘に行ったときに写した写真だそうです。
4歳は数え年ですねー。
(先日坊さんの説法で、「人間は10ヶ月母のお腹の中に生きているので、0歳はありえない。数え年で言うのが正しいのだ」と聞きました。尤も!尤も!。
テニアン島に渡るときに、大塚に住んでいた「おばさん」と写したものだそうです。この時は5才でした。
終戦後引き揚げてきたら、大塚の大銀杏付近は空襲で焼かれてしまい「おばさん」の消息は全く分からなくなっていました。
白爺が、当時NHKの「尋ね人放送」に依頼したところ、偶々「おばさん」が放送を聴いていて、練馬桜台の田舎に引っ越しているという消息が分かりました。
現在の練馬は都心ですが、白爺が「おばさん」に会いに来た当時(昭和26年頃)は、池袋の西武付近は、線路の古い枕木が道端に杭として並べられているローカル駅で、練馬は本当の田舎でした。
テニアン島に渡り、テニアン幼稚園(今のフレミングホテルの場所)に入園したときの写真です。
白爺は、幼稚園を卒園してテニアン小学校に入学しました。
正装しての記念写真ですが、きっと暑かったことでしょうねー。
ランドセルは、大塚の「おばさん」がプレゼントしてくれました。
テニアン小学校は国民学校に変り、白爺たちは5年生になると、飛行場やトーチカ造りに動員されて、勉強は陣地構築の合間にする状況になりました。
そして、6年生の3学期には、航空機乗員養成所の試験を受検することになりました。
写真は、校舎前で写した受検用の写真です。
気張っているなー!
サイパンまでは、海軍の上陸用舟艇で送ってもらいました。
受検の時には、絶対合格したいと願っていたのですが、1次試験は合格。
2次試験は、幸いにも不合格になりました。
不合格が幸い?というのは、合格した人(一人だけが合格)が、内地の養成所に入学するためサイパン築港を出港後、アメリカの潜水艦に魚雷攻撃をされて、乗員全員が太平洋に沈んでしまったからです。
運命とは不思議なものですねー。
受検も終わり、6年生の3学期がいよいよ終わろうとしていました。
学校の授業は全く無くなり、毎日が飛行場構築の動員です。
そして、小学校卒業の直前、昭和19年(1944)2月23日早朝、テニアン島にはアメリカのグラマン機が始めて来襲してきました。
警防団の人意外は、前日発令された「全員避難せよ」の命令に従い、隣組単位でマルポやカロリナスの山に避難していました。
白爺の家族は、今のマルポハイツ近くに住んでいた知人の好意により、そのお宅に避難することになりました。
空襲の当日白爺たちは、見られない飛行機のマークをみて、「ドイツ軍が応援に来た」と大はしゃぎをしていましたが、機銃掃射を浴びて超驚き。
すっ飛んで、砂糖キビ畑の中に隠れました。
焼夷弾を落とされたら焼けていたのでしょうが、戦闘機だったので助かった思い出があります。
この空襲が終わってすぐに、白爺たちには「強制引揚」の命令を受け取りました。
父はパラオにいて家には母しかいないので、白爺は母を助けて引越しの準備をしました。
身体だけしか引揚船には乗れませんので、木箱に学校の成績など大事なものを入れて、隣組になっている小学校の先生に「船便があったら送ってください」と依頼して、引き揚げてきました。
頼んだ荷物は、諦めていたのですが1年ぐらい後に福井県に届きました。
僥倖極まりありません。
お蔭で、貴重な学校の通信簿や写真なども、こうして見ることが出来るのです。
「南洋群島が空襲にあったということは絶対に秘密にせよ」
との命令を受けて、白爺たちは宿泊していた横浜の旅館を出発し、東神奈川駅から母の実家がある福井県の若狭に向いました。
4月29日の「天長節」に、白爺たちは小浜線の駅に降り立ちましたが、桜の花が満開でした。
南洋桜より奥ゆかしい色だなー!と感じて眺めたのが、今に残る印象です。
母の実家は、三方郡十村岩屋のお寺ですが、実母は亡くなっており、「南洋で食いつぶして帰ってきた厄介者」と継母に母は大変苛められていました。
白爺は、十村国民学校の高等科に編入されました。
南洋庁東京事務所から支給された、国民服を着て学校に行った白爺は、講堂の舞台に立たされて「天皇陛下から頂いた服を着て転校してきた人だから仲良くするように」と皆に紹介されました。
お蔭で皆さんに助けられました。
特に農業実習時には、白爺が身震いした「肥桶洗い」を、代わって行ってくれました。
テニアン校では、トイレの中のものを手でいじるなんて考えられませんからねー。
あの同級生の顔は今でも忘れません。
引揚後の風邪をこじらせて、母は結核に侵されてしまいました。
白爺は、母の看護とオサンドンをする他、各家一人ずつ割り当てられる陣地構築の動員にも、大人がいないので参加していたため、高等科の2年間は殆ど不登校で過ごしました。
学校は欠席しても、期末試験だけは合格点をとっていたので、「授業単位不足で留年」という教頭先生を担任先生が説得して卒業することが出来ました。
その時の卒業生が還暦を祝い、小浜線で仕立てた「お座敷列車」に乗り「伊勢参り同窓会」をしたときの列車内写真です。
白爺も新幹線で京都まで行き、京都から参加しました。
マイクを持っている方が、卒業を進言してくれた先生です。
勿論もうお亡くなりになりました。
生前に、美浜原電近くの海浜ホテルへご招待し、Emiiと3人で宿泊した思い出がありますが、あらためてご冥福を祈ります。
卒業した直後、父がパラオから帰国してきました。
そして母は、亡くなりました。
白爺は、小坊主の真似事をしていましたが、一念発起してお金をかけずに勉強の出来る「逓信講習所」を受検しました。
11倍の競争率を運80%で突破して、金沢で勉強をすることになりました。
金沢大学(当時は第4高等学校)の先生が教える英語には、敵国語と教えられていた白爺は泣けました。(半分カンニングで卒業はできました・・が。)
又、それ以上に苦労したのが、モールス符号の暗記です。
街のカタカナ看板を見ると、トンツー・トンツーと頭の中で読んでいました。
白爺たちが勉強している途中で行政整理が行われ、逓信省と電気通信省になりました。
生徒の三分の一は退学(所謂クビ)になりましたが、白爺は電気通信省に移り無事卒業ができて職場への配属が決まりました。
配属は、若狭湾にある小浜です。
若狭高浜に家を借りて、汽車の通勤が始りました。
職場にもなれて、少し余裕が出来た頃、テニアン小学校の同級生だったEmiiから無事に帰国したとの連絡がありました。
丁度休みがもらえることになったので、白爺はEmiiが引き揚げている福島県の会津に出かけることになりました。
話せば長い時間と経緯があるのですが、それは省略して、再会の時に写した記念写真を紹介しましょう。
77年は、やっぱり長い期間ですねー。
一回で終わらないようなので、Emiiとの再会以後は、次回に回します。
昨年までは、敬老の日には全く関心が無く、今日は「旗日だな!」と思うくらいでしたが、今年は少し違います。
というのは、白爺とEmii二人が、市役所から「喜寿のお祝い」を頂戴したからです。
少ない予算の中からお祝いを頂いたので、恐縮するとともに「77年間もの長い間生きてきたんだなー」と、あらためて今日まで歩いてきた人生を思い起こしてしまいました。
今までにも、お知らせしたことがある内容かもしれませんが、喜寿の区切りに、もう一度手元にある昔の写真を眺めながら、当時を思い出すことにしました。
昭和8年東京で
白爺が3歳のときの写真ですが、馬に跨っているようです。
白爺が生まれるときは、安産を願って「おふくろさん」は日本橋の水天宮に日参したそうです。
そして、「お産婆さん(オサンバサン)」が女の子だろうと言ったとかで、女の子が生まれる準備ばかりしていたので、白爺は「長い間女児の産着を着せられていた」と話していたことを思い出します。
余談です。
当時の出産は、病院ではなく「お産婆さん」のお世話になって出産するのが当たり前でした。
白爺の娘二人も、若狭の小浜で「お産婆さん」のお世話になり生まれました。
白爺は、竃の前で産湯を沸かすだけが担当でした。
独り言
今産婦人科の病院がないと騒いでいますが、人間は、哺乳動物の類だから、子供が成長すれば、自然に出産してくるのではないのかなー。
それなら、今でも「お産婆さん」がいればOKなのでは?
部屋が小さかったり、竃が無いからダメかなー。
それとも(責任?責任?&権利?権利?)でダメかなー?
いずれにしても、こんなこと言ったら、Emiiに「男の人にはあの辛さは分からない!」と一喝されてしまいます。
Emiiが、ブログを開くことが無いのを知っているから言いました。
当時の風景などは、殆ど頭の中に残っていません。
ただ、両親に連れられて行ったのでしょう「たわらまち」の言葉と地下鉄の独特な臭い(今は臭いがしませんが、白爺には独特の香りが思い出せるのです。)それに金魚の水槽が近くに見られたような気配だけは残っています。
おそらく、仁丹塔近くにある菩提寺に、お参りに行ったときの気配でしょう。
母親が言っていました。
白爺が「疱瘡」の種痘に行ったときに写した写真だそうです。
4歳は数え年ですねー。
(先日坊さんの説法で、「人間は10ヶ月母のお腹の中に生きているので、0歳はありえない。数え年で言うのが正しいのだ」と聞きました。尤も!尤も!。
テニアン島に渡るときに、大塚に住んでいた「おばさん」と写したものだそうです。この時は5才でした。
終戦後引き揚げてきたら、大塚の大銀杏付近は空襲で焼かれてしまい「おばさん」の消息は全く分からなくなっていました。
白爺が、当時NHKの「尋ね人放送」に依頼したところ、偶々「おばさん」が放送を聴いていて、練馬桜台の田舎に引っ越しているという消息が分かりました。
現在の練馬は都心ですが、白爺が「おばさん」に会いに来た当時(昭和26年頃)は、池袋の西武付近は、線路の古い枕木が道端に杭として並べられているローカル駅で、練馬は本当の田舎でした。
テニアン島に渡り、テニアン幼稚園(今のフレミングホテルの場所)に入園したときの写真です。
白爺は、幼稚園を卒園してテニアン小学校に入学しました。
正装しての記念写真ですが、きっと暑かったことでしょうねー。
ランドセルは、大塚の「おばさん」がプレゼントしてくれました。
テニアン小学校は国民学校に変り、白爺たちは5年生になると、飛行場やトーチカ造りに動員されて、勉強は陣地構築の合間にする状況になりました。
そして、6年生の3学期には、航空機乗員養成所の試験を受検することになりました。
写真は、校舎前で写した受検用の写真です。
気張っているなー!
サイパンまでは、海軍の上陸用舟艇で送ってもらいました。
受検の時には、絶対合格したいと願っていたのですが、1次試験は合格。
2次試験は、幸いにも不合格になりました。
不合格が幸い?というのは、合格した人(一人だけが合格)が、内地の養成所に入学するためサイパン築港を出港後、アメリカの潜水艦に魚雷攻撃をされて、乗員全員が太平洋に沈んでしまったからです。
運命とは不思議なものですねー。
受検も終わり、6年生の3学期がいよいよ終わろうとしていました。
学校の授業は全く無くなり、毎日が飛行場構築の動員です。
そして、小学校卒業の直前、昭和19年(1944)2月23日早朝、テニアン島にはアメリカのグラマン機が始めて来襲してきました。
警防団の人意外は、前日発令された「全員避難せよ」の命令に従い、隣組単位でマルポやカロリナスの山に避難していました。
白爺の家族は、今のマルポハイツ近くに住んでいた知人の好意により、そのお宅に避難することになりました。
空襲の当日白爺たちは、見られない飛行機のマークをみて、「ドイツ軍が応援に来た」と大はしゃぎをしていましたが、機銃掃射を浴びて超驚き。
すっ飛んで、砂糖キビ畑の中に隠れました。
焼夷弾を落とされたら焼けていたのでしょうが、戦闘機だったので助かった思い出があります。
この空襲が終わってすぐに、白爺たちには「強制引揚」の命令を受け取りました。
父はパラオにいて家には母しかいないので、白爺は母を助けて引越しの準備をしました。
身体だけしか引揚船には乗れませんので、木箱に学校の成績など大事なものを入れて、隣組になっている小学校の先生に「船便があったら送ってください」と依頼して、引き揚げてきました。
頼んだ荷物は、諦めていたのですが1年ぐらい後に福井県に届きました。
僥倖極まりありません。
お蔭で、貴重な学校の通信簿や写真なども、こうして見ることが出来るのです。
「南洋群島が空襲にあったということは絶対に秘密にせよ」
との命令を受けて、白爺たちは宿泊していた横浜の旅館を出発し、東神奈川駅から母の実家がある福井県の若狭に向いました。
4月29日の「天長節」に、白爺たちは小浜線の駅に降り立ちましたが、桜の花が満開でした。
南洋桜より奥ゆかしい色だなー!と感じて眺めたのが、今に残る印象です。
母の実家は、三方郡十村岩屋のお寺ですが、実母は亡くなっており、「南洋で食いつぶして帰ってきた厄介者」と継母に母は大変苛められていました。
白爺は、十村国民学校の高等科に編入されました。
南洋庁東京事務所から支給された、国民服を着て学校に行った白爺は、講堂の舞台に立たされて「天皇陛下から頂いた服を着て転校してきた人だから仲良くするように」と皆に紹介されました。
お蔭で皆さんに助けられました。
特に農業実習時には、白爺が身震いした「肥桶洗い」を、代わって行ってくれました。
テニアン校では、トイレの中のものを手でいじるなんて考えられませんからねー。
あの同級生の顔は今でも忘れません。
引揚後の風邪をこじらせて、母は結核に侵されてしまいました。
白爺は、母の看護とオサンドンをする他、各家一人ずつ割り当てられる陣地構築の動員にも、大人がいないので参加していたため、高等科の2年間は殆ど不登校で過ごしました。
学校は欠席しても、期末試験だけは合格点をとっていたので、「授業単位不足で留年」という教頭先生を担任先生が説得して卒業することが出来ました。
その時の卒業生が還暦を祝い、小浜線で仕立てた「お座敷列車」に乗り「伊勢参り同窓会」をしたときの列車内写真です。
白爺も新幹線で京都まで行き、京都から参加しました。
マイクを持っている方が、卒業を進言してくれた先生です。
勿論もうお亡くなりになりました。
生前に、美浜原電近くの海浜ホテルへご招待し、Emiiと3人で宿泊した思い出がありますが、あらためてご冥福を祈ります。
卒業した直後、父がパラオから帰国してきました。
そして母は、亡くなりました。
白爺は、小坊主の真似事をしていましたが、一念発起してお金をかけずに勉強の出来る「逓信講習所」を受検しました。
11倍の競争率を運80%で突破して、金沢で勉強をすることになりました。
金沢大学(当時は第4高等学校)の先生が教える英語には、敵国語と教えられていた白爺は泣けました。(半分カンニングで卒業はできました・・が。)
又、それ以上に苦労したのが、モールス符号の暗記です。
街のカタカナ看板を見ると、トンツー・トンツーと頭の中で読んでいました。
白爺たちが勉強している途中で行政整理が行われ、逓信省と電気通信省になりました。
生徒の三分の一は退学(所謂クビ)になりましたが、白爺は電気通信省に移り無事卒業ができて職場への配属が決まりました。
配属は、若狭湾にある小浜です。
若狭高浜に家を借りて、汽車の通勤が始りました。
職場にもなれて、少し余裕が出来た頃、テニアン小学校の同級生だったEmiiから無事に帰国したとの連絡がありました。
丁度休みがもらえることになったので、白爺はEmiiが引き揚げている福島県の会津に出かけることになりました。
話せば長い時間と経緯があるのですが、それは省略して、再会の時に写した記念写真を紹介しましょう。
77年は、やっぱり長い期間ですねー。
一回で終わらないようなので、Emiiとの再会以後は、次回に回します。
穴が無いので助かっています。
ドミンゴさんは、写真を見て分かるかなー!。
石楠花さん
白爺にも、Emiiの母上を迎えて99歳9ヶ月で亡くなるまで一緒に生活をした経験があります。
昨年13回忌も済ませました。
高齢者の面倒をみるのは大変ですが、頑張って親孝行をしてあげてください。
白爺さんは同居している姑と1歳違いです。
その元気さ羨ましいです。
ブログの更新も早いですね!!
私も背筋伸ばして頑張らないと!
イケメンと、エミちゃんの愛らしいお顔!ホントお世辞じゃないっすよ。
ドミンゴにコピーして届けます。驚く顔が見たい。(笑)
コメントに従い、早速写真をチェンジしました。
ご笑覧ください。
ドミンゴさんにも、宜しく伝えてください。
北海道新聞にデボラさんの写真とB29の滑走路が載っていました。
今度コピーして持って行きましょう。
会津に逢いに行った時の写真、顔かくしてないやつね、メールで送ってくださいね!
日本で木枯らしの季節になったら、訪テニアンも間近ですね。ドミンゴが首を長ーくして待ってますよ。
でも、ホントに本にして出版したいくらいの人生ですね。今の時代の生ぬるさをひしひしと感じます。
続きがまた楽しみです。
お写真や資料が残っているというのがすばらしいですよね。
来年も常夏の島に。。。
いいですねぇ。。。!!
こちらは、来年は北海道、もう3~4度目になりましょうか
知床の方にドライブしようと思ってます。
車も1年で2万5千キロも走ってますよ!!(笑)
オイル交換も、4回目を過ぎてます。
ただ、ガソリン代との根くらべ状態ですよ。(苦笑)
早速のコメント有難うございます。
間違っていないので、2回目のコメントを消しました。
我が家の、駐車場の彼岸花も花が咲いてきました。
流石に季節はボケ(差別語?)ないですねー。
白爺は、彼岸を過ぎるとすぐ冬支度です。
そして常夏の島に逃げ出す準備に掛かります。
私しなんか足元にも及ばないような
経験をなさっているんですね。。。
そして、いろんな事があったんですね。。。
なかなか、こういう話は聞いたりできないので
ブログってすごいなぁと思います。
Emiiとの再会は次回以降楽しみにしています