白爺の独り言

故郷テニアン島へ帰る旅!
 古い友達と巡る秘湯の旅!
白爺一人で ブツブツブツ・・
お暇な人 寄っていって~。

南洋航路

2007-09-28 16:42:39 | テニアン
”暑さ寒さも彼岸まで”という、言い伝えがあります。
今年は記録にない暑さが続ずくと騒ぎましたが、さすがに秋の彼岸が終わると涼しい日が顔を覗かせるようになりました。

             


涼しくなると、白爺は南洋に想いを馳せてしまいます。
美しいブーゲンビリアの花・そして小さいときの懐かしい思い出「島民踊り」
  ウワトルヒー・イッヒィ・イッヒッヒィー 

             

”成田を飛び立てば四~五時間でテニアン島に渡れるのになー”と、
思いだけが飛び立つています。  

    

白爺は、暇を持て余していたので古い資料を整理していたら、この本を見つけました。
「戦没した船と会員の資料館」が2001年8月15日に発行した「戦没船写真集」です。

この資料によると、政府が発表した戦争による沈没船は、一般商船3575隻・機帆船2070隻・漁船1595隻で、犠牲となった船員は6万人を超えるとなっていました。
この数は船員だけの数ですから、乗船した人の数を加えたら、数百倍の人が海底に眠っていることになるのでしょう。



この中には、白爺がテニアンから強制引揚で帰国する時に乗船した、山陽丸の写真もありました。
この時の山陽丸は、海軍に徴用されていて、潜水艦母艦として就航していました。

白爺は1944年4月20日に、この船に乗りサイパン港を出港しました。
サイパン出港と同時にアメリカの潜水艦に魚雷攻撃を受け、その後東京湾に入っても雷撃がありましたが、運よく横浜港に入港することができました。

小笠原沖では、艦内放送で”右〇〇度魚雷の音がする。よく見張れー”
の全艦指令が発令され、白爺達も甲板上で右前方を見張りました。

しばらくすると右海上に、イルカのように波間を飛び上がりながら進んでくる魚雷が見えました。



今までの魚雷は、このような場合「とり舵イッパーイ・おも舵イッパーイ」の号令で船が旋回し、魚雷は船に平行して走るように操舵をしていたのですが、そのときはそれが間に合いませんでした。
白爺達は 「当たったー 」と言ってみんなで抱き合ったのですが、爆発の音は聞こえません。

周囲を見たら、魚雷は船の反対側を走っていました。

「波が高かったので、魚雷が船の下を通り抜けた」
「魚雷は船尾を掠めて通った」
と船上では論議をしましたが、結局結論が出ませんでした。
しかし、命が助かったのだけは事実です。

この船は白爺達を横浜に降ろし、1ヵ月後の航海途中にセレベス・メナド沖で雷撃にあい沈没したそうです。

             

Emiiの兄は、サイパンの海軍工廠に勤めていました。
1944年3月に婦女子家族の引揚命令が出て、写真のアメリカ丸に乗船し日本に向かいましたが、硫黄島南南東の海上で魚雷を受け、全員亡くなりました。

同時に出港したサントス丸(前の写真)は、雷撃を逃れて無事横浜に入港したそうです。
この船もこの年の11月には、ルソン島沖で雷撃沈没してしまったそうです。



チューロ・ビーチの沖を航行する船を、6月に写しました。
戦争前の平和な時には、日本の商船が同じようにこの海を航海していたのでしょう。
テニアン島には、大きな船が停泊できる桟橋がありません。
本船(大きな船をこう呼んでいた)は、ジョーンズ・ビーチの沖に停泊して、荷物や人はタンカーで支庁桟橋まで渡してもらっていました。



白爺がテニアン島で名前を聞いた「南洋航路」の船を、並べて載せましょう。

           



             




          



南洋航路の船でテニアン島へ行くには、約1週間かかるといわれていました。

           

現在は、5~6時間で到着してしまいます。
日が時に変わってしまったのかと思うと、時代の変化を感じますねー。












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