カメラを片手に

月ヶ瀬梅林に

朝のTVでは真冬並みの寒気が南下して彦根あたりは雪の映像が流れており、
奈良も上空は晴れているのに、東の春日奥山は、稜線に黒雲が・・・。
8時

今朝9時過ぎに春日奥山の奥、月ヶ瀬公民館「月ヶ瀬梅渓、新発見・再発見」の
講座に参加するため、手袋とダウンジャケットを手に車で向いました。
やはり忍辱山・円成寺あたりで、雨がそして雪に変わりました。
どうなるかと思いきや、この付近だけで、時おり時雨を伴う曇り空に。

やはり月ヶ瀬に着くと、空気が冴えて寒ーい、でも平年並みだそうです。
定刻に始まりましたが、参加者26名なのに、半分ほど。
実はJR奈良駅9:11発、奈良交通の月ヶ瀬行一番のバスが到着するのは10時36分、
一日3便で、ここ数年で軒並み奈良市内東部への交通網は削減が進んでいます。
過疎が進む一つの要因です。でも月ヶ瀬は梅見のシーズン、満員で3台もバスが
出たそう、運賃は1400円だけど70歳以上の奈良市民は100円払うだけで、
ここまで来れるのですよ。


月ヶ瀬・尾山にある国指定一番「名勝月瀬梅林」の石碑には大正9年3月と


上り道を少し行くともう梅の花の香りが・・・苔むした石灯籠と梅の花


そして9つの梅林の一つ「帆浦梅林」に着くと、絶景が・・・
直角に川が曲り、行き交う船の帆の裏が見えることから帆浦に変化したと。
目先に紅白の梅の花、そして眼下の五月川(名張川)の川沿いにも
上流



下流側

そしてこんな石碑「山と水 清き天下の 梅の里」と記され、
二月堂のお水取りが終わると春が訪れるという意味だそうで、
東大寺館長を務められた地元出身の「狭川明俊」氏の句に。


さて月ヶ瀬の梅はどのようなことから植えられたかご存知ですか?。
1331年後醍醐天皇が笠置山に逃げられた折り、難を避けるべく逃げられた
「姫若」様がこの地の園生の森で倒れられたところを村人に助けられた。
姫は感謝して真福寺の境内に初めて梅の木(姫若の梅)を植え、


その実から烏梅(ウバイ、ベニバナ染めの発色剤)の製法を教えたのが
梅林の始まりと。

急峻なこの地域の貴重な収入源になり、更に林間の空き地を利用して梅を植え、
江戸時代後期には約10万本以上にもなり「梅の名所」として認知され、


はじめて世に紹介されたのは神沢基蜩「翁草」1773年、
天下の名勝として知らしめたのは伊勢津藩の儒学者「斎藤拙堂」が1830年に
「梅渓遊記」、1852年に「月瀬記勝」が特に広まった紀行文とされている。
続き日本外史を著された頼山陽 も1831年に訪れ 扁額『萬玉亭』頼山陽
天神社横に頼山陽詩碑、書は息子と
 

明治に入り、1870年に田能村直人「墨梅図」画幅や
福沢諭吉や伊藤 博文、そして明治大正の儒学者・文人画家の「富岡鉄斎」の名も
1836年~1924年、天保から大正まで10の元号を生き抜き、
この月ヶ瀬には27歳で初めて足を運ばれ、月ヶ瀬梅渓に魅せられた一人。
45歳、56歳、62歳と三回も絵を描くため来られており、 代表作として
月瀬図巻(50歳代、清澄寺蔵)や月瀬図巻や、名士観梅図(81歳1916年、
奈良市資料保存館蔵)、現在大和文華館「富岡鉄斎」展にて展示中です。

しかし、烏梅は明治に入り化学染料に押され、現在は一軒のみ
それが、帆浦梅林の一角で売店を出されている「中西喜久・邦子」ご夫婦
この烏梅のお話は次回に、
月ヶ瀬の梅の木は、烏梅が使われなくなると炭等にされるため切られ、
現在は一万数千本に減っており、紅梅をはじめ、種々の梅の木も植えられて
いるが、代替わりなど高齢化・過疎化で管理も問題に。

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