雪雲が流れ込んできたようで、小雪が舞い散り始め、奈良も初雪が・・・。
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今夏の終わり、奈良・多聞山城の下であった元NHKアナウンサー野島正興さんの
講演「百済観音微笑みの秘密」を受講し、法隆寺へ伺ってからと思って・・・
そのまま、時が過ぎもう年越間近・・・。(写真はBSの番組より)
『百済観音』は現在法隆寺大宝蔵殿に安置され、像高210.9㎝、クスノキの一本造り、
水瓶と蓮華座はヒノキで、ともに日本産木材で日本で彫られたと思われる。
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八等身で扁平で細く、直立で左右均整である。上半身には肉づけを補うために
「こくそ漆」で盛り上げている。光背は木造で、その文様は飛鳥時代に似るが、
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支える支柱は竹竿を模して造られ、7世紀半ば飛鳥時代の作のようだが作者は不明。
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法隆寺資材帳など古い文献にその記載はなく、高田良信の中宮寺からの移納説が
有力視されている。名称としては江戸時代に虚空蔵菩薩、明治半ばに朝鮮風観音や
韓式観音とも呼ばれたが、明治30年の日本の国宝第一号の仏像で、明治末期に
宝冠が見つかり観音とされた。戦後の昭和26年の国宝指定名は
「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」で「百済観音」は俗称になります。
この名が登場するのは、大正6年(1917年)の『法隆寺大鏡』の解説が初出とされ、
大正8年哲学者「和辻哲郎」が『古寺巡礼』の中でも
「百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは・・・あの微かに微笑みを帯びた
なつかしくて優しい・・・気味悪さをともなった顔の表情は慈悲という・・・」
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この微笑みは「ミロのビーナス」か「モナリザの微笑み」にも勝るとも劣らずで、
大英博物館の要請で昭和5年から7年にかけ摸刻像が造られ、東京国立博物館と
大英博物館の二体を「新納忠之助」が造られた。このいきさつから新たに試に彫られた百済観音半身像の存在が
明らかになり、『鷲塚与三松』が深く関わっておられる話であり、ご自分の任地
徳島⇒奈良⇒名古屋⇒京都と転勤される地で、半身像との出会いから、修理前の
百済観音に興味を持ち、写真を発見されたことへと・・・
*出典「鷲塚与三郎と百済観音」野島正興p15~p18「青海波」平成12年4月号
新納(にいろ)忠之助は、岡倉天心の弟子で国宝修理に第一人者であり、美術院初代
院長でもあった。なお明治30年は師の命で初めて仏像修理に平泉中尊寺に出向いた
年でもあり、鷲塚与三郎の生誕の年でもあり、昭和29年に亡くなったのは、この
講演地と直ぐ近く、不思議な因縁を感じさせますねと・・・。
新納と出会う鷲塚は富山県高岡出身で家業の漆器工芸のため東京美術学校へと進み、
大正13年に先輩の細谷而樂(乾漆作家)を頼り奈良へ来たおり、出会ったようで、
摸刻を造る原木は鹿児島産の赤楠で2.5体分ほど有ったようで、新納は多分・・・
鷲塚に試に半身像の摸刻を頼み、その完成度の高さから大英博物館宛の摸刻を依頼し
最後の仕上げはご自身でされたが、予算が足りなくなり、東京国立博物館に買って
もらうもう一体も摸刻後、仕上げをした現在の二体になるのではないだろうかと。
なお鷲塚は昭和13年2月、従軍地の中国山西省で戦死されています。
ところが終戦後半身像は行方不明(美術院の職員の給料に売りに出されたようだと)
偶然にも野島さんの転勤地の名古屋で通勤道の龍興寺で半身像を発見されたことより、
修理前の百済観音への関心を持たれ、探されることになる。
修理に関しては岡倉天心らの願いから明治30年古社寺保存法成立し、明治31年に
日本美術院第二部が修理担当して開始された。
百済観音も明治38年に一年がかりで修理されたが、修理前の写真は不明であったが、
奈良県立図書館と徳島文化の森図書館から修理前の百済観音写真が工藤利三郎写真集
11巻の中から見つかり、その後淡路島の河野米一宅から奈良運ばれた工藤利三郎の
ガラス乾板を奈良市写真美術館で見つけることになります。
百済観音の微笑みにとりつかれたかのような出会いの数々に驚きとともに、
この仏像の数奇な運命に思いを馳せ、飛鳥時代、完成時の「百済観音」は極彩色されて
あの微笑みはいかなるものであったのでしょう・・・