この寒波も過ぎ去り、来週から暖冬も続き、気温が上がるらしい。
11時
昨日の記事の明日香村行は所要があり余裕は一時間だった。
目指すは明日香村平田の北側丘陵斜面にある後期古墳と終末期古墳の
『欽明天皇陵』その陪塚二つ「平田岩屋古墳」と「鬼の俎・雪隠」、
最後に野口王墓(天武・持統合葬陵)、四つの古墳が東西に並んでいる。
その丘陵脇に沿い、遊歩道が整備され、長谷への旧道を上がり鬼の俎・
鬼の雪隠まで来たが、天武持統天皇陵まで行く時間がない。仕方なく
後戻り、池を過ぎると平田岩屋古墳(金塚古墳)がぽつんと・・・
現在約20mの円墳に見えるが、一辺35m、高さ6~8mの方墳、7世紀の築造
最大3mほどの石材からの横穴式石室で、玄室5.5m、幅3.6m、高さ2.7m
1890年頃に破壊されている。
欽明天皇陵へと遊歩道にベンチが置かれた小公園がある。
詠み人知らずの万葉歌碑がある。揮毫は犬養孝さん巻七-1109
『佐檜の隈 檜の隈川の 瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも』
・川の瀬の流れが速いからと、
あなたの手を取って渡ったならば、人々が噂を立てるでしょうね。
裏面
この公園から欽明天皇陵が望め、南側には段差があり濠堤を行くことになる。
二重の濠があったかのように思えるが、その南には平田川が流れる。
参道は西側の旧道から丘を上がり下ると鳥居のある正面がみえる。
頭を垂れて・・・
案内板には檜隈坂合陵と、なお別名は平田梅山古墳で石山古墳、猿山古墳とも
被葬者は吉備姫王説が有力、前方後円墳で西に面し南斜面を利用して造営
周濠を有し、全長138m、前方部幅108m、後円部径73m、比は1対1.5、
古墳時代後期の古墳と考えられる。
日本書紀によれば、欽明天皇の妃で、推古天皇の母・片塩媛を推古20年に合葬し、
推古28年(620年)に
「砂礫を以て檜隈陵の上に葺き、域外に土を積みて山を作り、氏毎に課して大柱を土の上に
に建てしむ、時に坂上直が樹つる所の柱、勝れて高し、時に直を呼びて大柱直と曰う」と
ここことより、見瀬丸山古墳が欽明天皇陵との説が有力になっている。
また1861~1864年(文久年間)の修陵に際して、周濠を造られたことより、南側は二重濠
となり、以前は双円墳だったとの説もある。
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