記録的な大雪をもたらしている最強寒波ですが、奈良では今朝の最低気温は
0.8℃と思ったより冷え込みは弱い。
日中も気温は4.1℃迄しか上がらない酷寒の一日となり、雪雲が時折通り過ぎ
春の日差しが差し込めば、居間は明るくなり気分的には助かるが・・・。
12時、2.9℃、46%
さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花は「ネコヤナギ・猫柳」
ヤナギ科の落葉低木でヤナギの一種、渓流から町中までの川辺に広く自生し、
春に銀白色の毛に覆われた愛らしい花穂が猫のしっぽのような花を咲かせ、
このことが和名の由来で、春を告げる花のひとつです。
別名は「カワヤナギ」「エノコロヤナギ」や、地方では「ネコジャラシ」
「ネコネコ」「ネコノマクラ」「ニャンコノキ」など。
花穂は太めの円筒状で絹のように美しい毛で覆われ、花は雄花と雌花があり、
その花穂は雌花より雄花の方が大きい。
雄花は葯が紅色で花粉は黄色、雌花は白い毛が密生し、果実は熟すと種子を
包む綿毛になる「柳絮・りゅうじょ」と呼び、春に飛び漂ことで仲春の季語。
『とつぷりと暮たる空を柳絮飛ぶ』長谷川櫂「蓬莱」
生け花に使われ、近年では護岸の緑化・環境保全技術として注目されている。
花言葉は「自由」「思いのまま」
なら・きたまち巡り、最後は東笹鉾町の「浄國院」と川久保町の「念聲寺」
転害門をでて一筋南下して、西に向かえば浄土宗『無衰山浄國院安養寺』。
南北朝初期に、傾西上人が南都に遊学して律や法相を究め、興福寺の塔中を復
興され開山された。1567年に松永と三好の東大寺の兵火のとばっちりで焼失、
1597年に暁誉が復興し浄土宗の寺院となる。
さらに1704年の奈良北焼きの大火で伽藍は焼失し、本堂は10年後1714年再建
本瓦葺、寄棟で典型的な浄土宗寺院です。
内陣正面には祐天寺祐海上人筆になる「無衰山」の扁額がある。
ご本尊は来迎印の「阿弥陀如来像」で、本体だけは持ち出され無事。
(写真はブログ等掲載はダメとのことです。)
地蔵堂にあった阿弥陀・地蔵合体の石仏も当寺に移され、延命地蔵と呼ばれる
この復興に際し、住職から依頼を受けた画僧「古磵」が『無量寿経』の考え方
"法蔵比丘が四十八の誓願をたて、無量寿仏となったこと"
"善行を積めば極楽往生できるが、悪行を犯せば地獄に墜ちる"
を描いた『紙本著色大経曼荼羅図』を作成し、1712年に浄国院の什器となる。
現在は奈良市指定文化財の指定を受けている。
8年前の大和文華館特別展「没後300年画僧古磵」で見たことを思い出した。
紙本著色大経曼荼羅図(レプリカ)と箱
そして川久保町の浄土宗「光照山念聲寺」 に
鎌倉末期、渡来系の石工(伊行経あるいは伊派の者)が石仏「船御光地蔵」
を建立。門を入って左側、墓の入り口にお出でです。
光背から浮かぶ優美なお姿が印象的、安産延命に御利益があると信仰を集める
1592~95年に武田信玄の子孫とされる英暉上人により開かれたと伝わるが、
1735年村井無名園古道の『奈良坊目拙解』によれば・・・
江戸中期の当寺開山までの約300年『当寺往古は艸庵で道心者が居住した。
そこで平僧徒が住侶となり、近世長老住寺の道場となった。』
草創期の事情は全く不明で、1704年の奈良北焼きの大火で寺の什物、初期の
過去帳などすべて焼失している。
後世の資料、過去帳・墓石などから、元禄年間に三世英暉上人が開基、寺号
《念聲寺》は一乗院の宮より給わったという。
本堂の写真を撮り忘れ、HPからご本尊と本堂の写真を借りました。
現在の中庭には、江戸中期の有名な狂歌師「鯛屋貞柳」の歌塚が16世法誉上人
が1797年に建立された。
由来は、1729年に奈良・古梅園の松井和泉が重さ約13㎏の大型油煙墨2丁を
宮中に献じたことを祝い、友人の貞柳が詠んだ狂歌が刻まれている。
『月ならで 雲のうへ(宮中)まで すみ(墨)のぼる
これは如何なる ゆゑん(油煙=由縁)なるらん』
拓本
これを契機に、奈良文化の一翼を担ったという。
さて当地は昔二つの川の三角州のため地勢は東南に高く西北は低く、凹を窪と
いい、いつしか川窪(”川久保”、現在地の町名)となった。
東大寺境内、手向山や水谷川からの吉城川の流れと、二月堂からの中御門川の流れが合流した三角州の頂点に地蔵尊があります。
👇この道は、東大寺二月堂~大仏池からの流れが暗渠に。
👇 春日奥山などから合流した吉城川からの暗渠部👇
次回はこの暗渠部を歩いてみましょう。