「人あり曰く、信州の地従来天然の恩恵に浴すること少なく、千曲川の如きは時に洪水氾濫するを以って、むしろこれを恐れたりと。然るに今や禍福その地を変え、千曲川はその巨大な水勢を以って、わが信越電力会社の経営によりて、東洋一の電力を起こさんとし、また河川改良のため岩石を破壊し、今や百そうの運送船はちく艫相衡みて、信越電力の材料運漕に供し、昔は徳川時代において、千曲川の舟運の便を図らんと当時の水利土木の学者がたびたび計画して、ついに失敗したる事跡を完成するに至れり。しかして我が飯山鉄道はその流域を走り、水陸相待って時勢はついによく天与の恩恵を獲得せしめたる也」
大正六年二月五日 発起人山本幸吉ら12人が豊野ー飯山間の軽便鉄道敷設の免許申請
同年五月五日 豊野ー飯山間の敷設免許。軌間1067ミリ。動力は蒸気
同年八月三十日 飯山鉄道株式会社創立総会開催。資本金50万円。山本幸吉(水内銀行取締役)社長、牧野長蔵(鴻商銀行頭取)副社長、高橋幸作(水内銀行頭取)副社長。
同年九月十一日 飯山鐡道株式會社成立登記完了
大正七年九月四日 豊野ー飯山間工事施工の認可申請
大正八年五月一日 中津川第三発電所着工
同年十月十八日 豊野ー飯山間の工事着工(着工となっているが工事費用高騰と資金不足でほとんど工事は行われなかった模様)
大正九年三月二十日 飯山ー西大滝間鉄道敷設免許交付
同年四月十八日 飯山ー豊野間工事延滞のため請負制とし指名入札するも、工事費高騰による予算不足で不調
同年四月二十九日飯山ー西大滝間線路延長実測及び設計を東京工務所と契約締結
同年五月二日 臨時株主総会で信越電力の資本参加により資本金を三00万円に増資。同時に西大滝までの延伸を決定
同年六月十二日 豊野ー飯山間起工式挙行
同年十二月十五日臨時株主総会で信越電力より社長神戸挙一、専務取締役青地雄太郎、取締役牧野長蔵、取締役高橋幸作
大正十年五月 中津川第三発電所竣功(下流の第三発電所から建設して行ったため、第三→第二→第一の順に建設された)
同年八月 中津川第二発電所着工
同年十月二十日 豊野ー飯山間営業開始
大正十一年五月 信越電力信濃川本線発電所工事認可申請
同年八月 中津川第一発電所着工
同年十一月 中津川第二発電所竣功
大正十二年七月五日 飯山ー桑名川間営業開始
同年九月一日 関東大震災
同年十二月一日 桑名川ー西大滝間営業開始
大正十三年九月 中津川第一発電所竣工
大正十四年十一月十九日 西大滝ー森宮野原間営業開始
昭和二年八月一日 森宮野原ー越後外丸間営業開始
同年十一月六日 越後外丸ー越後田沢間営業開始
昭和三年十月 株主総会において東京電燈・信越電力・飯山鐡道の社長を兼任していた若尾璋八が「発電所工事が終われば買収してもらう」旨の発言
昭和四年九月一日 越後田沢ー十日町営業開始。省線十日町線と接続し、飯山鉄道全線開通
昭和六年四月一日 信越電力が東京電燈と合併。 鉄道省信濃川発電所(千手発電所)着工
同年九月 柳条湖事件(満州事変) 飯山鉄道はガソリンカー運転開始
昭和七年四月十二日 越後田沢駅ー宮内取水ダム間専用工事材料運搬線運転開始
同年五月四日 飯山鉄道株式会社、飯山鉄道の政府買い上げを請願(元社長の若尾璋八は鉄道政務次官となっており国有化のために動いた模様)
昭和十一年九月 長野県下水内郡岡山村西大滝にて西大滝ダム着工
同年十月 越後鹿渡ー発電所用地構内までの構外貨物専用側線認可
昭和十二年七月 盧溝橋事件(支那事変)
昭和十三年五月 新潟県外丸村鹿渡新田にて信濃川発電所着工
昭和十四年十一月 西大滝ダム・信濃川発電所第一期工事完成
昭和十五年十一月 西大滝ダム・信濃川発電所第二期工事完成
昭和十六年四月十九日東京電燈信濃川発電所関連工事竣功届出
同年十二月 太平洋戦争勃発
昭和十七年六月 ミッドウェー海戦
昭和十九年二月十五日飯山鉄道の政府買収決定
同年六月一日 政府移管し飯山線(豊野ー越後川口間)となる
同年十月 レイテ沖海戦
十日町新聞
昭和四年九月一日付
宿願愈達して今日の喜び 想起される多難の経過
飯山鐵道會社専務 高橋幸作
一
飯山鉄道開鑿の動機は、大正の初年長野縣で各郡に鐵道網を敷き補助金を交附して鐵道敷設を慫慂した結果各所に私設鐵道會社起り鐵路は蔓布されたがひとり下水内郡のみになかったので郡は挙げて鐵道欲に駆られていた時、偶々北信軽便鐵道の計画なり川を挟んで飯山の対岸まで鐵路を布くからと株式の応募を申し込んで来た。
しかし、町まで来るでなければと我々が主謀となり大正六年の春、省線豊野駅を起点に飯山までの開鑿を計画し飯山町の有志の熱烈なる賛仰をうけ取り敢えず發企者の一人で鐵道の知識を有する島津喜之助氏が書類を作成し同年二月鐵道院へ出願
牧野長蔵氏と島津氏が出京安宿に泊り込み居催促で許可を急ぎ県の方は当時県議だった私が取りなり遂に五月初旬には許可をとった。
この間僅か三ヶ月、おそらく三ヶ月の短時日で許可になった鐵道はこれまでにあるまい。
一方、北信軽便鉄道は我々に機先を制されて有耶無耶になってしまった。今の河東鐵道はその後設計を変更して出来たものである。
二
豊野から飯山まで十二哩、当初の見積工費は四十萬圓でまづ會社設立のことに決し飯山の有力者総出で株式の募集にかかり六十三萬圓出来た。
そこで三万圓は切り捨て六十万圓の資本金で十一月いよいよ会社は孤々の聲を挙げ、そして社長には町の素封家山本幸吉氏を挙げ副社長には牧野氏と私がなり翌年は測量にかかった。
處が測量も済んで工事を起こそうとしたその頃はもう戦後の影響をうけて物価は向ふ見ずに高騰し四十万圓の工事は六十万圓ー八十萬圓遂には三倍強の百三十萬圓にせり上ってしまった。
こうなってはとても工事は始むべくもない。
しかし第一回の払込(一株五圓)を了し工事に取り掛らないのであるから牧野氏と私が銀行に関係している處から誑かして銀行の資金を作ったなどなどあらゆる悪罵を浴びせられ、牧野氏などすんでに焼打に逢ふとしたこともあった。
三
外部はすでに斯くの如し。
私共は全く進退谷まっている頃信越會社が出来発電計画が始まった。
偶々同社の専務の青地勇太郎氏が関係町村の諒解を受くべく来県していることを知り青地氏を尋ね工事材料運搬の為の利便を説き出費を懇願した。
しかし却々聞き入れないので河東鐵道に合併してやらうと正に握手する處へ突如青地氏からの飛電で漸く信越と手を握ることにした。
その際の私共の心事は到底云ひ表し得ない
四
我々は青地氏の紹介で信越の社長神戸挙一氏に逢った。
氏の希望としては出費の条件として発電工事の取入口西大瀧までの延長を提唱し資本金は一躍三百萬圓とし會社が絶対権を得るために三分の二即ち二百萬圓を持ち組織を変更して社長に神戸氏を専務に青地氏を推し、私が常務となって直に豊野、飯山間の工事にとりかかり年内に第一工区の開通を見た。大正九年のことである。
五
さていよいよ信濃川発電計画はすすんだ。そして西大瀧から外丸までの工事材料の運搬は一体如何にすべきやが重大な問題となった。
川はあれど早瀬で舟楫もきかないため、結局土工レールの假設といひ鐵延長が重点となった。
我々は土工レールは工事完了後の処置に不利益があるからと飯鐵の延長を主張した。
折しも上越線の中魚沼郡経由の運動が旺盛の時であったからこれと連絡せしむることの有意義を東京重役も説き結局鐵道延長に決し会社の資本金も一千万圓に増し今日の成果を見た。
六
工事着手して茲に十年、計画成ってから実に十有三ヶ年、顧みれば種々の回想に万感犇々と胸に迫る。
しかし経験に乏しい私共に地方の方も東京の事業家も委せ切りで仕事をさせてくれたと云ふことは深謝せずには居られない。
只現在は會社の経営不得手のため株主殊に地方の株主には迷惑をかけて相済まないがしかしこの會社の八割迄の出資を中央から持って来て我地方の開発に当てている事を思い、そして株主各位はその出資が鐵道開通を助成し、一面地方への貢献であると覚って呉れるならせめての諦めとならうと思ふ。
七
さて會社の今後の方針は東京発電の信濃川開発に働きこの間出願中の豊野ー長野間十日町ー長岡間の乗り入れを実現させ東京発電工事の終了と共に国有に移したいと思うのである。
国有になった場合は東京行きの上越線、名古屋行きの中央線、長岡行きの北陸線等と併せて本線は国家有数の幹線の一部をなし我が交通界に重要性をやがうへにも備ひることであらう。(談)
飯山鉄道が全通したその日の十日町新聞である
そこのトップには、飯山鉄道株式会社創設時から自身が亡くなるまで尽力してきた高橋氏の挨拶が載せられていた
多少、新聞に載せるに当たって脚色があるかもしれないが、それにしても飯山鉄道全通までの苦難の道のりが滲み出ている挨拶だと感動した
会社創設から全通までの十数年、高橋氏はそれこそ奔走した
飯山鐡道の計画を推し進めていく中心人物だったであろう高橋氏も、国有化に向けて動き出していたのだろうと思う
とにかく、当時の当事者の貴重な挨拶である
飯山、高田間鉄道敷設ノ件(長野県下水内郡飯山町高橋幸作呈出)
国立公文書館のデジタルアーカイブから、高橋氏は飯山鐡道に限らず飯山から直江津方面に抜ける鐵道も請願している
飯山市史より
(飯山鉄道)会社の収支とすれば、創業当初は多少の益金が出て、わずかながら配当金を出したが、もともと日本でも有数の豪雪地帯を走る鉄道であったため、冬季になると何十日も運休したり多額の除雪費がかかり、東京電燈会社の支援を受けながらも経営は容易でなかった。
なお、政府の補助金も年を追うごとに減少し、また借入金の返済もあるので会計はいつも窮迫していた。
飯山鉄道は昭和七年五月四日鉄道の政府買い上げの請願を行った。
さらに同年五月十三日、沿線町村民二九七二人の署名を集めて「飯山鉄道国営に関する陳情書」を提出した。
次いで同年九月二十二日には飯山鉄道の河西取締役社長をはじめ地元沿線町村長、株主総代の連名で再度政府買い上げの陳情を行ったが、政府からは何の返答もなかった。
九年九月二十六日にも会社が陳情し、十一月には新潟県知事と新潟県側沿線町村長が、同十一年にも会社が買い上げを国に請願した。
しかし、政府は買い上げの検討さえしなかった。
その後戦争が拡大して日本軍は東南アジアまで進出し、軍隊や物資の輸送は船舶によったので、船舶は非常に貴重なものとなった。
そこで国内の運搬には船はなるべく使用しないで、陸上輸送に切り替えようとした。
昭和十九年一月十日の第二六回鉄道会議に、飯山鉄道は上越線と信越本線をつなぐ重要な鉄道であるとして、買収問題がようやく取り上げられた。
その後第八四回帝国議会で、「昭和十九年度一般会計歳出の財源に充つる為の公債発行に関する法律」案が可決され、二月十五日法律第八号として公布され、飯山鉄道の買収が決定した。
津南町史より
飯山鉄道は昭和十九年六月、主として国防上の問題から信越本線の迂回路としての使命を有するとして政府に買収、国有化された。
当時の地方鉄道は赤字経営に陥った場合、株主救済や経営者保身のため国に買収を求めるのが一般的で、それをめぐって多くの疑獄事件もおきている。
特に大正末期から昭和初期にかけては国有化運動が最も激しく、鉄道収賄では政友会も民政党もすねに傷をもつような状態であった。
新潟県内でも久須美東馬が猛運動の末、昭和二年に越後鉄道の国有化に成功している。
このほか長岡鉄道、栃尾鉄道にも国有化の声はあったが実現していない。
新潟県内ではその後、新潟臨港鉄道が昭和十六年に国有化されている。
これも長期の運動が実を結んだ結果だが、この時代になると港湾輸送の一元化ということで十分大義名分が通っていた。
昭和三年十月、株主総会出席のため十日町を訪れた東京電燈社長若尾璋八は、記者団の質問に答え、「まだまだ政府買収は考えていない、全線が開通し、かつ信濃川本線の発電所工事が終われば、附加価値もつき、また東電としても意味のない資産になる。そうなったら買収をしてもらう」という意味の応答をしている。
しかし全線開通後、昭和七年には早くも公有化運動が表面化した。本線工事の資材輸送は国有鉄道になってもできるということだろうか。
昭和七年五月十日付「十日町新聞」に「飯鉄国営運動愈々具体化 本部も調印を纏め鉄道省へ陳情」という見出しで報道されているのがそれである。
これによると昭和七年四月末に開かれた株主総会で株主側から国有化を主張する声が出、飯山鉄道側もこれと同調することとなった。
昭和五年に東京電燈・信越電力・飯山鉄道の各社長を兼任した若尾璋八が、当時鉄道政務次官であったのを幸い、一挙に政府買収を実現させようと、五月十二日には長野県、新潟県の陳情委員が上京している。
その後昭和九年十月に鉄道大臣内田信也に出された陳情書は「本鉄道の御買上を得ば、運賃の低減、施設の完備、運転系統の円滑、経済的の影響並に交通上の便益実に絶大なるものと存せられ地方民は挙て之が買収を熱望するものに有之候。」と述べ、昭和恐慌に追い打ちをかけた同年の大冷害を反映した「せめて飯山鉄道でも国有化されれば」との地元民の願望をにじませている。
昭和六年に鉄道省信濃川発電所第一期工事が本格化し、また昭和十一年から東京電燈信濃川発電所工事が開始されて資材輸送がかなりの量に上ったときは、会社側主導の国有化運動はそれほぼ顕著ではなかった。
しかしこれらが一段落した昭和十五年ころから会社の運動は次第に具体化していった。
「国有化請願について飯山鉄道の礼状」は、取締役の牧野長蔵と支配人の吉田次雄から、昭和十六年三月一日に沿線各町村長に送られたもので、電源開発工事が終了し、無用の長物と化した飯山鉄道を一日も早く処分してしまおうとする親会社東京電燈の動きと重なっている。
一方、地元の国有化運動も、外丸村の高橋藤一郎などが中心になり、長野県下水内郡の小野塚英吉と手を結び、あらゆる手を尽くして続けられた。
これらの運動が功を奏し、昭和十九年一月十日の第二十六回鉄道会議で上越線と信越本線の短絡線になるという理由で飯山鉄道の買収諮詢は可決された。
最後に、題目は長岡鉄道とあるが飯山鉄道の国有化請願の文書も含んでいるので紹介する
国立公文書館デジタルアーカイブ 長岡鉄道買収ノ請願ノ件外三件 [年月日]昭和19年02月01日[マイクロフィルム]
再三の話であるが、飯山鉄道は当初豊野ー飯山間の計画であった。
しかし、実際には豊野ー飯山間の着工こそすれど、物価高騰と資金不足の影響で工事がままならなかったのである。
飯山から先の戸狩前の延長も目論み、補助金も出ているがそれでもこの状況を打開できるものではなかった。
その頃、信濃川水系での水力発電工事を計画していた信越電力が資材輸送に有用と認め、その資本が投入され、一気に工事計画が前進した。
それは飯山より先、戸狩を経て、西大滝、津南、そして十日町まで繋げるものとなり、水力発電所建設のための資材物資輸送貨物線としての色合いが濃いものとして建設がすすめられた。
飯山鉄道の当初の目的はさておき、飯山鉄道会社の経営権は電力会社が掌握し続けたわけで、資材輸送のため一辺倒で線路の位置も決まって行った。
いよいよ、信濃川発電所が完成し、電力会社から見れば貨物輸送線としての飯山鉄道をそのまま持っている意味が無くなるのも当然のことだった。
そうして、水力発電所完成後は飯山鉄道の話題も国有化が主となる。
陸運統制令も出ていた戦時体制真っただ中の昭和十九年、ついに飯山鉄道は十日町線と共に戦時買収され、飯山線となった。
飯山鉄道会社・電力会社・沿線町村による飯山鉄道国有化運動がこの買収にどれほど影響したのか分からないが、とにかく飯山鉄道は飯山線として国有化されたのである。
大正六年に飯山鉄道株式会社が誕生してから百年以上たった平成三十年の現在も、飯山線の歴史は続いている。
今では、「いいかわ、いいそら、いいやません」のキャッチコピーを背負った観光列車も走り、沿線の田舎ののどかさを売りにしている路線でもある。
私もつい数か月前まで、そんなのどかな非電化ローカル線としての飯山線というイメージしか持っていなかった。
しかし、その路線の背景にはこういう歴史もあったということを知り、私はとてつもなく感動したのだった。
西大滝を通る時、鹿渡で信濃川の鉄橋を渡る時、この路線が作られる目的となったその施設の紹介がどこかであるだろうか。
ただのどかなだけじゃない、そんな飯山線とその沿線の歴史の一面が広がっている。
私は自分の興味が赴くままに着地点も不明なままここまで書いてきただけ。
まぁ、マニアですから。