後で自分が見返した時に、「飯山鉄道について書いた記事はどこだー!何で分かりやすくしてないんだ!!俺はバカかー!!!」ってなりそうなので、カテゴリー自体を「飯山線」から分離して「飯山鉄道関連」にしました。
飯山鉄道(飯山線)と千曲川・信濃川の電源開発の関係性を知りたいから始まったのがそもそもの発端でありますが、飯山鉄道の敷設に関するあれこれについても、こちらのカテゴリーでまとめます。
本日は、西大滝駅が西大滝ダム建設の資材運搬に大活躍したと同時に、発電所本体工事で資材運搬に大活躍した越後鹿渡駅について、少し書いていきたいと思います。
そのためにも、色々な経緯をすっ飛ばすことは出来ないと考えているので、経緯もまとめていきます。
なので、結果としての越後鹿渡駅についての記述は少ないです。結果なんてそんなものです。
現在、津南町鹿渡で操業中の東京電力信濃川発電所の建設は、もとをたどれば信越電力創立時からの課題であった。
信越電力は、設立の当初から信濃川発電所工事の準備に取り組み、大正8年9月には水路の実測を開始した。
また大正9年11月、技師長らをアメリカに派遣し、大規模発電事業の研究視察を行っている。
なにしろ、この発電所は、当時かつての日本が経験したことがない大容量の発電計画だったからである。
この同時期、大正8年に工事用資材の運搬に鉄道利用を考え飯山鉄道に対して飯山からの西大滝への延長を条件に信越電力との交渉がなされ、大正9年臨時株主総会で資本金を300万円に増資することを決定し、その内200万円を信越電力が出資したことはこれまでの紹介の通りである。
飯山鉄道は設立後も建設費の捻出で苦慮し、鉄道敷設工事の着工が遅れていたのだが、発電所工事用の資材輸送ルート確保を目指す信越電力の出資協力によって、ようやく鉄道建設を軌道に乗せることがかなったのである。
大正9年12月、東京電燈および信越電力の社長である神戸挙一を飯山鉄道の社長、そして専務取締役に先の資材ルートとして有用と主張した信越電力の青地雄太郎が選出され、以後、飯山鉄道は信越電力系の役員が経営の主導権を握ることになり、電源開発工事の資材運搬路線としての性格が強くなる。
飯山鉄道という会社の設立や計画は飯山までを目的としていたことは先にも紹介しているが、そもそも豊野ー飯山間の着工すら電力会社の資金協力なくして成しえなかったかもしれない状況であったわけで、飯山鉄道が電源開発のために通じた路線であったと言えてしまうのはこのことからだ。
大正10年2月には、水利使用計画の許可が下り、取水口は藤沢(西大滝のちょっと上流の集落)、放水口を鹿渡新田として工事の設計と工事費の概算書の作成に取り掛かった。
この頃、飯山鉄道用地と信濃川発電所用地買収も進められていた。
地元としては中津川水系の発電所用地の買収とも重なり、用地買収価格、土地使用料の協定のための委員会を設置し、折衝していた。
昭和元年には、飯山鉄道と並行して進めていた発電所用地買取価格について協定を成立させている。
昭和2年2月、信越電力は申請していた水利使用と工事実施の許可が下り、同年4月に一旦は発電所工事に着手した。
しかし、時代はちょうど世界恐慌真っ只中とういう経済状況であり、首都圏の電力需要の落ち込みから信濃川発電所の建設はその時点で必要ないとされ、また向こう10年は現在の発電能力で十分と判断され、工事は中止となった。
一方で、飯山鉄道の建設は着実に進められていた。
昭和4年9月、飯山鉄道は長野県の豊野から、新潟県の十日町まで全通する。
これを機に、地元では用地買収に協力し発電所工事による経済活動への期待もあってか、信濃川発電所工事の本格的な実施を目指して「信濃川発電所工事促進助成会」を結成する。
それこそ大正時代から、谷あいの少ない田畑や山林を飯山鉄道と発電所用地に提供し、地域振興をこの事業完成に結び付けていた地元の機運も推測される。
しかし、中には電力会社の提示する用地買収に対して関係地主がそんな安値では応じられないとし、一方で東電副社長が「そんなわけなら予定地は視察の必要がない」と言って帰ったという報道もある。
そして、昭和10年ころ、日本は満州事変を経て軍需工業、重化学工業の進展目覚ましく、景気が上向き、それに伴って電力需要も日ごとに増加していた。
これに応えるべく、昭和10年4月18日、信濃川発電所工事竣工期限変更の許可を受け(前の申請の期限が同年4月19日まで残っていた)、その実現に取り組むことになった。
同年4月20日の地元新聞報道では、飯山鐵道の株価が高騰し、そもそも飯山鉄道は一般運輸よりむしろ発電所工事を目論んで敷設されたものだから、発電所工事開始で業績が良くなることを見込んでのものだと報道する程である。
なお、工事申請からかなりの年月を要していることからか、この時の申請時には新潟県知事から「昭和16年10月31日までに工事竣功すべし」との但し書きがあり、これ以上の延期は認めないという県の姿勢が示された。
そして、信越電力から東京発電(信越電力が主体で信濃川水系・阿賀野川水系・只見川水系の電力会社が合併したもの)、そして東京電燈となって、昭和10年以降は、工事に関係する村との用地買収、漁業補償、農地・用水路の補償、工事関係者の受け入れ問題等々について本格的な折衝に入り、地元もこれに対して村ぐるみで対応する態勢をとったのである。
そして、昭和11年9月、本着工の運びとなったのだ。
ここまでは電力会社側の経緯となる。
一方の、鉄道側の経緯を見てみよう。
大正8年4月に飯山までの工事施工認可を受け、同年10月には工事着手届を提出。
この時点で、会社設立時の資本金50万円から資本金60万円に増額されていたとはいえ、建設費135万円には到底届かず、鉄道院からは疑義が出されるに至っている。
そこで現れた電力会社、発電所開発のために西大滝までの延長を条件に、資本金60万円を一気に300万円まで増資し、その内200万円もを信越電力が出資したのだ。
この資本投下の結果、豊野ー飯山の着工、飯山ー西大滝までの延伸も決定した。
西大滝までの延伸を決定しつつも、電力会社は信濃川発電所工事に備えて、新潟県内へ、鉄道院線十日町への接続までを目論んでいた。
飯山鉄道は大正12年4月、従来の資本金300万円を一挙に1000万円に増額することを臨時株主総会で承認、新潟県内の工事を進めることにした。
増資分の700万円の内、信越電力は572万2500円を出資、旧株を合わせて76%強を一社で保有する状態であるから、飯山鉄道に対する信越電力の独占的支配態勢は揺るがない。
ここで、増資分の700万円から572万2500円を引いた分の残りの増資分について、これに先駆け大正12年1月から飯山鉄道は地元の中魚沼郡へ出資の勧誘に出たのだ。
この勧誘については、津南郷の各村では住民の数株単位の出資を含めてかなり地元の協力的な動きがみられ、割当株を超過してまでの申し込みが盛況だったと当時の新聞が伝えているほどだ。
ようやく中魚沼郡を通る鉄道敷設に現実味が帯びてきた地元であったが(上越線のルート選定で外れたのも、鉄道を呼び込みたい機運に拍車をかけたのだろう)、9月1日に関東大震災が発生。
新株募集に応じた直後でもあったし、関東大震災の被害が与える影響で、計画されている西大滝ー十日町までの延伸工事が中止されてしまってはたまらないということで、10月30日の株主総会では中魚沼郡・東頚城郡の町村長が連名で工事推進の陳情書まで出している。
逆に、この工事中止の噂に乗じたのか、外丸本村付近から河東地区に渡り、下船渡地区に経由させようという運動も起こったほどだ(集落間の路線誘致は熾烈だ)。
特にこの運動に熱が入ったのは、当時、中津川の発電所群の建設などで賑わいを見せていた大割野の有力者たちである。
大割野は、現在の津南町の中心、役場があり、国道が通っている方の集落だ。
当時から、この辺りの中心は大割野であったから、鉄道を誘致したいという主張も大いに理解できる。
歴史のifだが、そっちに飯山線が行っていれば、河東地区の発展も違ったのだろうと思う。
なので、現代に続くまで津南駅のある外丸の辺りが鉄道が通っているにも関わらず(鉄道ってのは周辺の中心的な集落を通るものが多い)、国道沿いより寂れている感じがあるのは、当時から中心は大割野にあったからなのだ。
現代のイメージとすると、この辺りから、信濃川の東岸へ渡る感じだ
しかし、どう転んでも7割以上の株を保有する信越電力の、その信濃川発電所工事への資材運搬という大義名分があるから、飯山鉄道側は大割野を通る、つまり河東経由について一顧だにしていない。
こうして飯山鉄道は信濃川の西岸、放水口・発電所建設の予定地である辰ノ口・鹿渡を目指して進んでいくのだった。
この時点で、津南には三駅、田中(停留所)・外丸(停車場)・辰ノ口(停車場)がそれぞれ計画されている。
駅名の決定や場所では「越後田中」はすんなり行き、外丸については「戸狩」と紛らわしいとかいう諸々の物言いがあり、現在の津南駅の近くにある久昌寺で催された寄り合いで「越後外丸」(現在の津南)にと決まって行った。
しかし、辰ノ口近辺については、集落間の飯山鉄道への地元寄附金問題があり、「信越」「三箇」「東外丸」「辰ノ口」「鹿渡」ともめたようだが、結局は「鹿渡」とされ、秋田の「鹿渡(かど)」に配慮して「越後鹿渡」となったのである。
この、飯山鉄道への地元寄附金問題についてだ。
飯山鉄道が信越電力の出資により着工に至ったのは再三述べているが、一方での地域の温度差も広がっていった。
長野県側の工事には、県や郡から補助金が支給され、地元から駅用地の寄附もあり、少なくとも、豊野ー飯山間では地元の鉄道としての意識が強かった。
ところが、信越電力の資本参加後、工事が電源開発に向かって進むにつれ、地元住民の考え方も変わってきていたのである。
先の株式募集に応じ、用地買収に協力するなどの経済活動は見られるものの、用地の寄附や、新潟県も中魚沼郡も補助金は支給していないのである。
そこで、飯山鉄道は、今日の新幹線駅などの設置において取り沙汰されるような、受益者負担を推し進めたのだ。
駅用地などを寄附した地元とそうでないところとの間に公平に期するという理由で、停車場(駅)を設定する地域の地元からの寄附金を徴収することにした。
例えば、飯山鉄道は当初、平滝に停車場を作る予定で計画したが、平滝の地元が寄附に前向きでないと見るや、停車場を横倉とし、平滝は停留所としたという記録もある。
つまり、津南の場合においても、会社の寄附要求への対応いかんで停車場とされるか停留所とされるかがかかっていたと考えられるのだ。
その中でも辰ノ口については、発電所本工事の資材運搬で重要な役割を果たす停車場であるから、その位置について集落間での攻防がなかり熾烈であったことは容易に想像できる。
寄附問題で例として停車場か停留所かという問題もあったが、当時の辰ノ口周辺の東外丸地区は、停車場は確定しているものの駅の位置について揉めていたのだ。
この辺りについて、詳しい資料が地元に存在しないと津南町史は伝えている。
しかし、停車場の位置について、特に辰ノ口と鹿渡で激しい誘致合戦が展開されたのは事実なようである。
もっとも、停車場の位置についても、これまでの経緯を見てると電力会社が発電所工事の資材運搬に最も都合の良い位置で決定されそうだし、実際に辰ノ口より発電所寄りの鹿渡に停車場が設けられている。
東京電燈信濃川発電所は昭和11年春に着工が決定し、9月に工事着手している。
それに呼応し、昭和11年6月、越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設を申請、10月に認可される。
越後鹿渡駅の構外貨物専用側線工事は飯山鉄道で実施し、費用は東京電燈で負担したとある。
これも、アメリカ軍が戦後に撮影した航空写真である。
写真からは断定できないが、「越後鹿渡駅から発電所用地構内まで構外貨物専用側線の敷設」というヒントから、軌道が通ってそうな怪しい平場くらいは推測できそうだ。
昭和4年7月20日の十日町新聞報道では 東京発電会社の信濃発電工事に備える鹿渡駅拡張その他二ヶ所のの仮設駅工事は新線の出来上がり次第係員をそちらに廻し とある。
それなりの規模の工事で駅から発電所工事現場への側線が建設されたことが読み取れる。
しかし、またしても肝心の、実際にどのような線路や設備があり、輸送形態がどうだったかまでは記述や報道を見つけることが出来なかった。
越後鹿渡の駅である。
構内の敷地は広く取られ、停車場だった痕跡は十分だ。
発電所方面は停車場の線路分岐関係のための敷地だと思っていたけど、そうとは言い切れない。側線が伸びていた?
なんにせよ、この発電所と飯山線は切っても切れない関係なのは間違いのない風景だ。
だまだま調査が足りないと痛感する日々である。