あくまで、調査当時の解釈であることをご容赦頂きたく思いながら、西大滝について纏めていきたい
発端が、西大滝ダム建設の資材輸送に飯山鉄道(後の国鉄飯山線であり、現在のJR東日本飯山線)が大活躍したという本を読んでから始まった素人の夏休みの自由研究である
「西大滝ダムの建設には飯山鉄道が大いに活躍した」
非常に曖昧な表現であるものの、それを見た瞬間に「こんなに大きなダムや発電所の建造のための資材輸送をしていたのだから、現在はあんな辺鄙な西大滝駅がかつては大ターミナルだったんじゃないか。それこそ、荷物を取り卸す設備も完備、現場までの専用側線もあっただろう。」という予想が先行して行った。
しかし、どこまでも文言は「飯山鉄道が大いに活躍した」に留まる
それは、沿線各地の郷土史における飯山鉄道なり水力発電開発の頁で一貫しているのだ
まず、飯山市史の飯山鉄道と西大滝に関する記述を引用する
信越電力が設立されて間もない大正八年、この地方を視察した同社の青地雄太郎は、飯山鉄道の完成が自社の発電所開発ににとってきわめて好都合であることを、同社社長神戸挙一に報告した。
飯山鉄道株式会社は大正六年に設立されていたが、同八年になっても、鉄道建設工事は着手されていなかった。
翌九年になって信越電力では、飯山鉄道に対し豊野ー飯山間の鉄道敷設を西大滝まで延長することを条件に、増資分の三分の二を同社で引き受けることにした。
同時に資本金も三00万円にし、飯山鉄道社長に同社社長の神戸挙一が就任して、豊野ー飯山間の工事を開始した。
(中略)
信越電力では、信濃川発電所に着手する以前、中津川第一・第二発電所建設に当たっても、当時西大滝まで開通していた飯山鉄道を効率よく利用した。
西大滝ダムの工事は、戦時体制がいよいよ強化されだした昭和十一年九月着工された。
このダム工事は当時東洋第一の大水力発電所である信濃川発電所の堰堤および取水口工事であって、このほかに直径7.5メートル、長さ二十二キロメートルの二本の水路と発電所本体工事をもって完成するものであった。
総工費七八00万円、長野県の西大滝駅から新潟県の越後鹿渡駅の区間に渡る大工事であったが、昭和十四年十一月二十九日には完成して東京へ送電が開始されている。
極めて順調に工事が進行したのは、飯山鉄道が、この長大な工事区間に並走しており、建設資材・労働力の大量迅速な輸送が出来たからである。
このことについて東電社史で「当社が巨費を投じたこの運輸施設によること実に多大なるものである」と認めている。
飯山鉄道の建設に大きく貢献した信越電力株式会社は昭和初期に東京電燈会社に吸収合併された。東京電燈会社は、昭和十一年、信濃川発電所工事に着手することになった。
飯山鉄道ではその工事用機材を輸送するため、越後鹿渡駅に構外貨物車用の線路を設置することを申請し、十月認可を得た。
この工事は飯山鉄道で施工し、建設費は東京電燈会社が負担した。
翌十二年この発電所工事の資材運搬のために鉄道省から貨物一0両を譲り受け、翌十三年には機関車一両を借り入れることになった。
こうして、信濃川発電所工事の材料一切の運搬は飯山鉄道が引き受け、昭和十六年五月三十日の発電所工事の完了まで、莫大な工事材料を運搬して、発電所建設に大きな役割を果たした。
同時にこの事業は飯山鉄道の経営にも大きく貢献した。
飯山鉄道の総株数二0万株のうち十五万株を東京電燈会社の子会社東電証券会社が所有していた経緯もあり、飯山鉄道は東京電燈会社の経済力によって支えられていた。
つづいて、津南町史である。飯山市史と被る部分は省略する
飯山鉄道が延伸するに従って終点である飯山駅、桑名川駅と西大滝駅が、津南の中津川水系の発電所群の建設資材運搬にも活躍したということも踏まえて読んで欲しい
また、津南町史は飯山鉄道の工事に関する工事用側線の記述に鉄道省文書を参照している節があるので、この点を強く留意したい
信濃川発電所については、鉄道省(現JR東日本)のものと東京電燈(現東京電力)のものとそれぞれがあるので、その点も混同しないで欲しい
鉄道省のものは千手発電所、宮内取水口という記述にもなる
信越電力の発電工事は、東京の本社とは別に支部事務所を下船戸村大割野に置き、大正十二年には、長野県下水内郡岡山村西大滝と新潟県中魚沼郡秋成村前倉に出張所を置いて各工事区事務所の指揮・監督にあたった。
西大滝は当時すでに信濃川本流を利用した信濃川発電所工事の測量調査を進めていたし、また、鉄道と千曲川を利用して運ばれてきた資材の中継地点でもあった。
(中略)
飯山鉄道は豊野ー飯山間を大正十年十月二十日に開通させ、続いて飯山ー桑名川間を大正十二年七月五日、桑名川ー西大滝間を同年十二月一日に開通させている。
中津川第一・第二発電所は大正十三年八月五日に竣功祝賀会を挙行しているので、まさに鉄道建設と発電所建設は並行状態にあった。
水管、水車、発電機などの特大貨物は西大滝(開通以前は飯山や桑名川)の鉄道終点から舟運で森地内や芦ヶ崎まで運び、そこから専用軌道で奥地に運んでいた。
(中略)
大正十年に着手された鉄道省の信濃川発電所工事は、小千谷から貝野村宮内の取水口まで軽便鉄道の工事を完了したところで関東大震災のため中止、七年もの間放置されていた。
大震災前に設置された当初の軽便線は魚沼線の平沢駅を起点とするもので、塩殿、真人、橘、上野、千手、吉田を経由して取入口の宮内に達するまで距離も長く、一部の荒廃化もあり、十日町を起点とする軽便線と、すでに全通していた飯山鉄道とを資材輸送線として利用することになった。
とくに越後田沢駅から宮内の取水口までは二キロメートル足らずの距離であるから、取水口工事のため、信濃川電軌事務所はここにも全額鉄道省負担で資材輸送線を建設することになった。
昭和六年十一月十日、越後田沢駅から一・四キロメートルの専用工事材料運搬線の敷設認可を申請、七年二月十二日認可、直ちに工事に着手し、四月十二日から運転を開始した。
この線は昭和十六年五月三十日、千手発電所関係の工事終了により撤去されている。(「鉄道省文書」飯山鉄道)
(中略)
昭和十一年六月十六日、越後鹿渡駅から発電所用地構内までの構外貨物専用側線の敷設を申請、十月十九日に許可を得た。
工事は飯山鉄道で実施し費用は東京電燈で負担している。また、飯山鉄道は鉄道省から昭和十二年二月には貨車一0両の払い下げを受け、十三年六月には機関車一両を借り入れている(「鉄道省文書」飯山鉄道)
(中略)
また足滝駅は信濃川発電所水路工事の第三工区と第四工区の間に大正十一年十二月に設置された。北外丸駅も大正十二年五月に開業した。いずれも仮停車場であるが、認可申請の理由には「信濃川発電所工事材料運搬及び旅客の便宜のため」とあり、当然工事優先の駅設置であった。
これは特に飯山鉄道と電力開発に関する記述の引用であるが、その他の記述においても津南町史の該当記事の執筆者はがかなり入念に鉄道省文書に当たった上でこれらの記述をまとめたというのが見て取れる。
鉄道省文書とは、乱暴な言い方かもしれないが、当時、私鉄が各種工事や車両の購入に至るまで鉄道省に申請したり、鉄道省が許可した文書をまとめたものである。
これは現在においても鉄道史研究において一次資料として参照されるものである。
詳しく知りたい方は、鉄道省文書で検索すると、その意義について書いてあるものがすぐに出てくる。
更に、手元にある長野県内の各駅を案内した本を敢えて引用したい。
資料名を記録してないという素人っぷりであるが、こういう記述がある。
桑名川駅
飯山まで通じた飯山鉄道が桑名川まで伸びたのは、西大滝に建設されていた発電所工事用資材輸送のためだった。
当初は飯山まで輸送された資材を舟で西大滝まで運んでいたが、輸送上の必要から第二期工事として桑名川までの建設が急がれた。
大正十二年完成、下手川原へ工事用引込線で資材運搬、舟で西大滝まで送ったことで、発電所工事は推進された。
発電所工事用資材輸送という目的で建設されたこの駅は、上下数本の線路、それに引込線、機関車庫線をもった大駅だった。
西大滝駅
飯山まで通じた飯山鉄道が戸狩まで伸び、発電所の建設計画に合わせて桑名川まで、さらに大正十二年十二月西大滝まで延長された。西大滝に建設の東京電力ダム工事関係資材輸送で、西大滝駅は大きな役割を果たした。
(中略)
駅所在地は旧西大滝村、現在は飯山市でその北端に当る。
港として栄えていたこの村がダム建設で活況を呈していたものの、完成後は水が引いたようになった。
西大滝駅も、ダム建設でその使命を終わったようなものだった。
戦争中、戦後の混乱期を過ぎ、昭和三十九年には業務委託駅、四十五年貨物扱いは廃止され業務委託も解かれた。
今は希望により地元の人が留守番のように駅に詰め、一部区間の切符だけ売っている。
雪の深いところ、駅は雪囲いですっぽり囲まれ、ひっそりとしている。
桑名川の西大滝に建設されていたの記述は、おそらく、中津川水系のことだと思われる。
大正十二年頃に建設中の発電所は中津川の発電所であって、信濃川本線ではないからだ。
大正十二年頃に西大滝でダム建設工事が行われていた事実があるなら、教えて欲しい。
その事実があるなら、私も調査結果を覆さないとならない。
それでも、桑名川駅まで工事用引込線があった可能性はある。
桑名川は余談だけど、一応、現地に行って来たので紹介したい。
またしても戦後の米軍撮影の航空写真を持ち出そう。
桑名川周辺である
確かに、駅から本線に並行して下流側に少しだけ線路が伸びていそうな雰囲気を感じる
緑色が本線、茶色が側線の推定、ピンク色の線は対岸の七ヶ巻との渡舟である。
実際に現地に行ってみる
桑名川駅前のJA倉庫裏から下流方を見る
なんか、単線にしては確かに広い平場と、石垣が残ってるぞ
下流側に移動して、桑名川駅方面、上流方を見る
こっちに向かって石垣が下りてきてる?
まぁ、堤防工事の終端になってて、痕跡も何も無いのだけど
以上、余談。
ともかく、西大滝に関して、飯山鉄道が資材輸送に大活躍したという記述は多いが、それが貨物側線なりというような記述は一切見られない。
これだけ鉄道省文書を引用している津南町史も、西大滝に関するものは無い。
更に追い打ちをかけるように、先日の記事で鹿渡の集落の古老の発言だ。
「西大滝に関してはここみたいに飯山線が駅から現場まで繋がっていたというのは聞いたことがない。当時は今みたいにトラック輸送もなかったから、軌道みたいなのはあったかもしれない」
それでも、私にはまだ希望があった。
あの組織がダムや発電所工事の時に記録していた写真である。
建設当時の写真に、何かしら写っているのではないかと。
建設当時の写真を見せてもらい、入念に軌道の痕跡を探す。
唯一、現在の西大滝ダムさくら広場の辺りに工事軌道というには立派にバラストが詰められた線路が二本並んでいる写真があった。
それは、西大滝ダム建設当初の写真である。背景にはまだダムの姿はなく、辺りは更地が広がっていた。
その線路の周りには、まるで森林鉄道の貯木場のごとく丸太が積みあがっていた。
この丸太が貯木場のごとく集められていたのは、当時の工事現場で工事用の足場なりを組むのに相当な本数の丸太を使うので、その準備段階ということなのだろう。
ダム工事から約10年後、昭和23年の西大滝、米軍撮影の航空写真におおよそのその地点を示したい。
背景の山の位置などから写真に黒丸で示したあたりがその辺りで、川(谷に沿って)に並行して二本の線路が確認出来た。
しかし、一向に飯山鉄道の西大滝駅から伸びる貨物用側線の記述や写真は見つからなかったのが結論だ。
鉄道省文書にも無いとすれば、それは西大滝駅から飯山鉄道の側線として認められている線路の存在自体に疑いを持ち始める。
鉄道省文書に無いとしても、例えば鉄道と並行するように建設が進んでいた中津川水系への資材輸送を睨んで、西大滝駅設置の時点で側線も盛り込んであったそういうこともあるのかもしれない。
それでも構外貨物専用側線の様相であるならば、何かしらの記述があってしかるべきなんじゃないかと素人は考えを巡らせるしか無いのである。
もしくは、いわゆる工事軌道しかなかったということが浮かび上がる。
電力会社が自前の土地で、駅の近くまで工事軌道を引っ張ってきて、川原まで軌道を敷いて輸送していたようなイメージだ。
それなら、鉄道省に免許を申請するものではないと推測されるので、鉄道省文書にも載らない。
なにしろ中津川発電所工事から信濃川本線の発電所工事まで膨大な資材を輸送する起点となった西大滝駅は川からは近くはなく、やはり輸送上、川原まで軌道があったとする推測は捨てきれないと考えている。
ふたたび、ダム工事から約10年後、昭和23年の西大滝、米軍撮影の航空写真である
西大滝駅から現場まで通じる怪しいカーブを描くラインがある
西大滝の工事の資材運搬がどうだったのかを推測していきたい
まず、駅の様子はどうだったのか、岡山村史の写真である
航空写真にも写る、駅舎の桑名川方にある建物
現在の線路を本線とすると手前に側線、本線の奥にも貨物ホームに沿って線路が見える
そして、とある方から教えていただいた長野鉄道管理局の資料から
既に線路は剥がされている頃の写真だが、貨物ホームがはっきりと分かる
そして、年代ごとの西大滝ダム工事現場
工事初期と現在の同アングル
古い写真は更地の右奥の方に見える杉林が、大瀧神社の辺りであろう
河原から見る大瀧神社=駅方向であるが、ダム工事開始当初は、このように更地だった
現在の桜広場の辺りには土砂のようなものが積み上げられているのが見て取れるが、その土砂の手前から櫓と天幕が張られたような小屋の間辺りが、線路が写されていた辺りだ
大瀧神社の杉林から向こうは更地の様子で、西大滝駅周辺はダム工事が始まるまで耕作地だったりして、集落の中心ではなかったのだろう
駅が出来るまでは大瀧神社が集落の端っこくらいの感じだったのかもしれない
それから工事が進むにつれて、集落の際まで長屋や工事関係の建物が埋め尽くす様相となる
簡単なクレーンのようなものが長屋の前に見えたり、索道の滑車から降りるワイヤと被っているこっちに開口している建物は索道の施設だろう
長屋と工事に関する建物の間に少しばかりスペースがあるように見える
その辺りが、先ほどの、丸太が積み上げられていた場所と一致する
いっそ、航空写真のそれっぽい白線を伸ばすと、駅からの軌道はこれくらいの感じだったんじゃないかって
赤いのが索道の基点
桜広場付近から伸ばした部分については、取水堰堤と、索道基点の裏を通りつつ、沈砂池に向かわせた
(取水堰堤完成後は堰堤上にも軌道が通り、ダム本体に至るまで軌道が来ているのは確認済み。沈砂池方向も、沈砂池に沿ってずっと軌道があるのも確認済み。いずれも写真はピンポイントでその部分が撮影されており、桜広場方面がどうなっていたのかは分からないものだった)
ある組織の工事当時の写真を見ていて、工事用軌道だったと言いたくなる理由も述べておきたい
ここに引用した写真は、当時にしては贅沢過ぎるくらいに膨大で贅沢な写真による記録を残していた信濃川本線の発電所開発の一部に過ぎない
また、ここで引用した写真は、いずれも図書館等で閲覧できるものに限られていることを断っておく
確かに、工事当初は林鉄の貯木場の様相であったり、更地の西大滝であった
それが、実際に水路や堰堤の工事になると、とにかく軌道が張り巡らされるようになる
例えば、現代の写真で言うと
この部分を掘削時に軌道がどのように張り巡らされていたかと落書きすると
このようになる。
空中の部分は、丸太で組んだ櫓の上を軌道が通っていた
掘削してできた斜面もお構いなしに軌道は斜面に張り付く
それこそ、工事に伴う地形の変化に合わせて軌道は張り巡らされ、高度差を越えるにはロープや人力でトロッコを押し上げるような様子が写真に広がっていたのである
堰堤工事などが本格化する頃は、それこそ天空の城ラピュタの光景そのままに、丸太で組まれた木橋が縦横無尽に軌道を張り巡らしていた
これらを見た私は、工事用の軌道は強いなと感じた
斜面だろうが何だろうが、どうにかして軌道は張り巡らせている光景
西大滝の駅から川原までの間の多少の高度差も、全てにおいて20‰を越えないで建設されている飯山鉄道に対して、工事用軌道の類なら高度差も克服できるんじゃないのかなと
西大滝~越後鹿渡に至るまでの発電所水路工事のために掘られた斜坑の写真である
あいにく、その坑口の写真しか引用できない
斜坑付近全体を写した写真では、このように複線で丸太の支保工が支える坑口が開いており、土砂搬出は鉱山のようにトロッコとバッテリーロコが担っていた
バッテリーロコは請負工事業者の大林組の名前が記されている写真が残る
まんま、光景としては鉱山だ
どこかの鉱山の写真と言われても普通に信じるくらいに
鉱山軌道よろしくといったような軌道でもって駅からの輸送を行っていたということもありうるという気になってくるのだ
更に、信濃川本線の発電所工事の前から、西大滝は中津川水系の発電所工事物資輸送の拠点だったという記述である
飯山鉄道で西大滝までやってきた資材は、西大滝からは舟運で川を下り、下流の船着き場で中津川発電所工事の現場へ通じる専用軌道へと資材を積み替えていた
その時、飯山鉄道で運んできたものを西大滝で一旦はプールするような資材置き場なり倉庫があったはずだ
冬だろうがなんだろうが関係なく工事は突貫されたことも考慮すれば、雪深い西大滝駅の桑名川方の二棟の大きな建屋がそれを担っていたとしても、おかしくない話のはずだ、推測だけど
現在の西大滝駅である
駅周辺は、山側に側線があった敷地も残している
桑名川方にも、貨物ホームそれを含めたような敷地が残り
貨物ホームの石垣も残る
そして、工事軌道の始端と思われる辺りにある、西大滝駅の桑名川方に写る建屋付近
西大滝駅の桑名川方に大きな建屋の屋根が二棟見える
建屋があったろう付近
石垣が残っているのだ
コンクリートなどの基礎はないが、ほぼその位置に石垣は残る
米軍航空写真のそれと合せると、緑色が飯山鉄道の推定、茶色が軌道の推定、灰色が石垣、赤色の四角は建屋である
ちなみに、西大滝の停車場の境界はクワ方は野々海川の鉄橋の向こう、モミ方は築堤のS字の中ほどであったようである
更に、軌道が川に向かってカーブしていくと推定した場所付近を、川に向かって見た光景
更地というか荒れ地で地形も何も分からない!
西大滝でも、現地住民の聞き取り調査を行った
しかし、当時を知っているほどの古老は既に存命ではなかった
当時を知る記憶は既に失われたも同然である
それでも、ずっとここに住んでいるとおっしゃるお婆ちゃんが、その方の両親から聞いたという話がある
「当時はこの集落も人があふれてて、駅前から商店が並んでて病院や映画館、パチンコ屋みたいな娯楽施設、当時でいうカフェー、喫茶店じゃなくてそういう女の子と遊べるお店もあって。とにかく人がいっぱいいたらしいですよ」
西大滝の集落にわずか数年ながらも空前の好景気をもたらした西大滝ダム建設工事に思いを馳せる
それは、当時としては奥信濃の寒村に過ぎない西大滝が連綿と繋いできた文化を一変させるほどのインパクトがあったと聞いている
しかし、結局は、西大滝ダム建設で大活躍した飯山鉄道なり西大滝駅の具体的な結論は見いだせなかった
推測に推測を重ねる形になってしまった
それでも、ここまで調べてそれが見出せなくても諦められると思った自分もいる
西大滝ダムや信濃川発電所の工事軌道の写真を見て、これは相当なものだぞ、ここまでやるなら駅から現場まで軌道を張っててもおかしくないとは感じられたし
もし、真実を知ってる人は、教えてください。すぐにでもお話を伺わせて欲しいです。
ここまでの内容を見て、私と異なる解釈が見えた方もお話をお聞かせください。
何にせよ、かつて飯山鉄道がそういう使命を帯びて建設された事実を知ることが出来て楽しかった
飯山鉄道の歴史を調べるのは充実した日々でした
飯山市史より
西大滝ダムの建設 信濃川発電所が建設されるまで
信濃川発電所の水利権は、幾多の曲折を経て大正7年10月、長野・新潟両県から許可され「信越電力株式会社」が設立された。同社は中津川第一・第二発電所を建設しながら信濃川本流の電力開発について準備を進めていたが、時あたかも昭和大恐慌のさなかであって、電力需要は不振を極め、信越電力は経営上の理由から「東京電燈株式会社」(現東京電力)に吸収合併となった。
昭和6年、満州事変が起こり、翌7年満州国が建国されると日中関係は一気に緊迫し、軍需産業を中心に産業界は活況を呈するようになった。
将来の電力需要の増大を見越して、東京電燈株式会社では信濃川発電所の第一期工事に着手することにした。
石炭・石油等の資源が不足するわが国では、東洋第一の規模をめざす水力発電所の建設は国家の要請にこたえるものとして、熱い期待をもって迎えられたのである。
これより先、信越電力が設立されて間もない大正8年、この地方を視察した同社の青地雄太郎は、飯山鉄道の完成が自社の発電所建設にとってきわめて好都合であることを、同社社長神戸挙一に報告した。
飯山鉄道株式会社は大正6年に設立されていたが、同8年になっても、鉄道建設工事は着手されていなかった。
翌9年になって信越電力では、飯山鉄道に対し豊野ー飯山間の鉄道敷設を西大滝まで延長することを条件に、増資分の3分の2を同社で引き受けることにした。
同時に資本金も300万円にし、飯山鉄道社長に同社社長の神戸挙一が就任して、飯山ー豊野間の工事を開始した。
こうして、飯山鉄道は飯山町と信越本線とを結ぶ地方私鉄として設立されたが、信越電力が大株主となることにより信濃川水系の発電所建設の目的も帯びることになった。
飯山以北の鉄道建設に消極的だった一部株主の反対を押し切って次々と路線延長が強行され、昭和4年には越後田沢ー十日町が開通し、豊野ー越後川口間全通となった。
西大滝ダム工事完成
信越電力では、信濃川発電所建設に着手する以前、中津川第一・第二発電所建設に当たっても、当時西大滝まで開通していた飯山鉄道を効率よく利用した。
西大滝ダムの工事は、戦時体制がいよいよ強化され出した昭和十一年九月着工された。
このダム工事は当時東洋第一の大水力発電所である信濃川発電所の堰堤および取水口工事であって、このほかに直径七・五㍍、長さ二二㌖の二本の水路と発電所本体工事をもって完成するものであった。
総工費七八〇〇万円、長野県の西大滝駅から新潟県の越後鹿渡駅の区間にわたる大工事であったが、昭和十四年十一月二十九日には完成して東京へ送電が開始されている。
きわめて順調に工事が進行したのは、飯山鉄道が、この長大な工事区間に並走しており、建設資材・労働力等の大量迅速な輸送ができたからである。
このことについて東電社史で「当社が巨費を投じたこの運輸施設によること実に多大なるものである」と認めている。
信濃川発電所は、日中戦争の最中、諸物価騰貴して、資材も入手困難な時期にもかかわらず、戦争勃発前の全国水力発電所建設費平均単価よりも安く、しかも短期間に建設されたことは電力開発史上特記されるべきことであった。
こうした好条件の元に第一期工事が完成し、続いて一年後の昭和十五年十一月には第四・第五発電機も完成し、全工事が完了した。
信濃川発電所工事と飯山鉄道
飯山鉄道の建設に大きく貢献した信越電力株式会社は昭和初期に東京電燈株式会社に吸収合併された。
東京電燈株式会社は昭和十一年、信濃川発電所工事に着手することになった。
飯山鉄道ではその工事用機材を輸送するため、越後鹿渡駅に構外貨物車用の線路を設置することを申請し、十月認可を受けた。
この工事は飯山鉄道で施工し、建設費は東京電燈株式会社が負担した。
翌十二年この発電所工事の資材運搬のために鉄道省から貨物一〇両を譲り受け、翌一三年には機関車一両を借り入れることになった。
こうして、信濃川発電所工事の材料一切の運搬は飯山鉄道が引き受け、昭和十六年五月三十日の発電所工事の完了まで、莫大な工事材料を運搬して、発電所建設に大きな役割を果たした。
同時に、この事業は飯山鉄道の経営にも大きく貢献した。
飯山鉄道の総株数二〇万株のうち十五万株を東京電燈会社の子会社東電証券会社所有していた経緯もあり、飯山鉄道は東京電燈会社の経済力によって支えられていた。
(飯山鉄道)会社の収支とすれば、創業当初は多少の益金が出て、わずかながら配当金を出したが、もともと日本でも有数の豪雪地帯を走る鉄道であったため、冬季になると何十日も運休したり多額の除雪費がかかり、東京電燈会社の支援を受けながらも経営は容易でなかった。
なお、政府の補助金も年を追うごとに減少し、また借入金の返済もあるので会計はいつも窮迫していた。