障害を持った人に対して、いたわりの心を持ってもらいたいと想い、短い物語を書いてみました。
私が子供の頃聞いて、今でも覚えている話をします。曾(ヒイ)バーちゃんと隣りのバーちゃんが縁側でお茶を飲みながら、「久しぶりに一本松山にでも行ってんべぇ」と云うことになり、2キロ先の山へいくことになりました。 山といっても雑木林に小道があり頂上に一本の松があるだけの小さな丘で、地元の人が一本松山と呼んでいる所です。 こんな所へ出かけることも当時の子供には飛び上がるほど楽しい事なのです。 むすびを持って3人が連れ立って1キロほど歩くと三国街道に出ます。 ちょうど高崎から渋川へ向かう中ほどになります、そこにはレールの上をチンチン電車が走っています。 一度でいいから乗ってみたいと思っている電車ですから、見るだけでも楽しかったのです。 電車を眺めてから街道を横切り、ゆっくりゆっくり頂上へ登り、手拭いを敷いて座ります。 私の住む清里村は平地なので、そこからよーく見わたせました。 そこで村を見下ろしながらバーちゃん達が話してくれたのでした。
戦争が終わった翌年の事、ギラギラと太陽が地上を焦がす8月8日、二人の少年が新潟県を目指しておりました。 二人の少年のうち、一人は盲目の少年で兄に手を引かれて歩いていました。 二人の父親は戦争で亡くなりました。 母は空襲で亡くなりました。弟は空襲の時の火傷がもとで目が見えなくなったのです。 二人は叔父さんの家に引き取られましたが食べ物がない時代でしたから働けない子供を面倒みるには余りにも負担だったのです。 これ以上二人を家に置いておくことが出来なくなりました。そこで叔父は二人に言いました。 「新潟で母方の親が大きな造り酒屋をしているので、そこならば食べ物にも困らない、学校にもいける、苦労もしないですむだろう」と、兄は叔父の家の状況もわかるし弟の将来を考えると、新潟へ行くのが一番良いことだと思いました。 しかし弟は、2、3日前の夜に叔父さん達が「母方の家は貧しい農家だし、引き取ってくれと言っても無理だろう」この際、ウソを言ってでも追い出すほかないだろう、と言っていることを聞いていたのです。 兄と違って、目も見えず家の手伝いも出来ない弟は、兄に相談することもせず独り涙を流すばかりでした。 しかし本当のことを知らない兄は、いままで知らなかった親戚での生活に胸膨らますことになり、新潟へ向かうことになりました。 叔父は兄に当面の費用にと僅かばかりのお金を渡したのです。 ところが厄介者扱いしていた叔母は体面をつくろい、弟にだけ到着までの食事や交通費のほかに余りある大金を渡したよ!とウソをついたのです。 この事が二人の運命を変えることになるのでした。
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