「カバラと『生命の木』」の第22回。今回も第6セフィラであるティファレトについての続き。
前々から述べているように、ティファレトは「生命の木」において「中央の柱」に属する。そして、その「中央の柱」をマクロコスモス的にではなくミクロコスモス的、つまり宇宙論的にではなく心理学的に見ると、まずその上端に位置するケテルは個体化された存在がその周囲に成立する場所であり、そこは意識そのものというより「意識の核」と見なされる。次に来る不可視のセフィラ、ダートは「中央の柱」の上にあるものの、厳密には「木」とは別の次元に属している。つまり「木」はティファレトに到達して初めて、個体化された明確な意識に至るのである(ただし、それは我々が通常、意識として捉えている脳意識や心霊意識とは異なる、というのは「21」で述べたとおり)。
更に「21」の内容を補足すると、ティファレトを含む第2の三角形(機能的三角形)が形成する「高次の自己」とは、この世ならぬ存在の姿を見たり声を聞いたりする霊視や霊聴ではなく(それらはティファレトより一段下位のイエソドの力)、純粋意識=強度の覚醒である。この純粋意識と下位の霊視、霊聴との違いは、後者が心霊的なのに対して前者は直感的で何の感覚イメージも含まれないことにある(つまり、高次の意識の段階に達したことを示すのが、感覚イメージがないことである)。
ここからはティファレトに割り当てられた象徴群について。まずは動画を御覧いただこう。
さて、ティファレトというヘブライ語の意味は「美」である。この「美」が具体的に何を象徴しているかは諸説あるが、1つの有力な説は「物質的にも精神的にも、美は然るべき正しい比率を持つ」というものである。実際、ティファレトは「木」全体の均衡の中心に位置している。
通常、各セフィラには1つずつ魔法イメージが割り当てられているが、ティファレトは例外的に3つの魔法イメージを持ち、しかもそれが「威厳に満ちた王」、「子供」、「犠牲になった神」と相矛盾している。それはティファレトが中央に位置し、二路スイッチと見なされているからだ。例えばティファレトは5つのより精妙な上位セフィロトの外的な顕現であると同時に、4つのより濃密な下位セフィロトの霊的原理でもある。力の側から見ればそれは形であり、形の側から見ればそれは力になる。つまり、ティファレトとは調和のセフィラであるといわれるが、逆に見ればそれは矛盾のセフィラなのである。
ミクロコスモスの解剖学である超越心理学においては、胸がティファレトに割り当てられている。胸の中には肺と心臓があり、そのすぐ下にはそれらと密接に結びつき統括している太陽神経叢が存在している。太陽神経叢は西洋解剖学でも、自律神経叢神経節中で最大の神経節であるとされ、太陽神経節とも呼ばれている。そして肺は息の絶え間ない出し入れによってミクロコスモスとマクロコスモスとの間の特別な関係を維持し、心臓はパラケルススの言う「特製の液体」である血液の循環を司っている。
ティファレトに割り当てられた美徳は「大いなる献身」。献身とは我々自身よりも高次なる何かへの愛であり、我々はそれと等しくなれないとわかっていても、それと等しくなりたいという思いはなお消えていない。その力強い感情が内に吹き込まれると、我々は触れられるものと触れられぬものとの間にある深淵を飛び越えていけるのだ。逆にティファレトの悪徳は「高慢」。ティファレトの完全なる無我の中で魂はその限界を越えて溢れ出し、無限の共感と愛の中で万物と一体化するが、高慢の中では魂は万物を所有するまでその限界を拡張しようとする。ある事物と一体になることと、それを所有することとは、全く別物である。後者は受け取るだけで与えることをしない。神秘的合一に至るには、余すことなく自らを与えなければならない──それが「キリスト中枢」たるティファレトの示すものである。
胸飾り、薔薇十字、カルヴァリー十字はティファレトと結びつけられるが、その理由は上記からわかるだろう。
第6セフィラであるティファレトには、数字の6が配当されている。立方体はティファレトに割り当てられるが、それは立方体が正6面体だからである。同じような理由で、頂点の欠けたピラミッドもティファレトに割り当てられる。もちろんタロットも4つの「6」が配当される。
植物はアカシアとブドウがティファレトに割り当てられるが、これらはフリーメイソンにおいて「復活」の象徴とされる。香料はフランキンセンス(乳香)。色は太陽を表す黄色、そして同じくその色から、宝石はトパーズとイエローダイヤモンドが配当されている。
というわけで、これにてティファレトは終了。次回からは第7セフィラであるネツァクに入る。
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