【1980年】(1囘生)
バイク豫約 (Kawasaki Z400Ltd)
スギモト、ヨシオカさん來訪
火曜日。
念願の單車を豫約した。
免許の交付が1週間後の14日、單車の能車がその翌日の15日。
かういふことの段取の良さには自信がある。
單車選びには、あまり時間がかからなかつた。
好きなバイクがすぐに見つかつたのだ。
私はべつに單車で峠を攻めまくりたいといふ氣はなかつた。
むしろ、千葉まで歸省するのに樂な、どちらかといへば長距離ツーリング志向が強かつた。
さういふ觀點から選ぶと、ちんちんをタンクに擦りつけるやうな前傾姿勢のレーサータイプではなく、ゆつたりとしたポジションのアメリカンタイプが私の希望に合つてゐる。
アメリカンタイプと云つても、當時はホンダのウイングカスタム(GL400)かヤマハのXS400、そしてカワサキのZ400LTDしかなかつた。
このうち、ヤマハのXS400はアパートの隣の部屋のオオノさんが乘つてゐるし、アメリカンにしてはかなり中途半端なデザインなのでパス。
ホンダのウイングカスタム(GL400)は水冷Vツインとシャフトドライブがウリだつたが、いかんせん重たいし値段が高い。
といふわけで、アメリカンが欲しいと思つたらカワサキのZ400LTDしかなかつたのである。
色は黒と赤があつたが、赤を選んだ。
タンクのペイントデザインが赤のはうが好きだつたのと、地味めなバイクだつたのでせめて色はハデにしたいと思つたから。
ヘルメットはフルフェイスではなくジェットヘルにし、色は赤。
赤いバイクに赤いヘルメットで、しかも後ろから見るとヘルメットの下からウェイヴがかかつた長髮が靡いてゐる。
後ろから走つて來た單車が私の隣に乘り付けて來て、さりげなく、しかし熱い視線で、私の顏を覗き込む。
スマンな、男で。
【1982年】(3囘生)
ホサカに¥2,000貸 濟
木曜日。
ホサカには2日にも¥3,000貸してゐる。
小刻みにきちんと返してくれてゐるのだが、この頃は彼も苦しかつたのだらう。
【1983年】(4囘生)
16:15 文 前
國文コンパ(タムラ引越Party)
フクシマ氏、フカザワ氏、ハマダさん、タムラ、スダ、アサノさん、サワムラさん
金曜日。
「文」は○で圍んである。
文學部の前といふ意味だと思はれる。
タムラが引つ越したことを祝ふ?名目のコンパらしい。
フクシマ氏、フカザワ氏は院生で、ハマダさんは4囘生、タムラ、スダ、アサノさん、サワムラさんは3囘生。
で、私はといふと哲學科から文學科に轉學科したため、4囘生ながら國文では3囘生。
ハマダさんは、私にとつて教養部の同期ながら國文の先輩であつた。
タムラとスダは私の立上げた近現代文學研究會のメンバー。
タムラとはいまだに年賀状のやりとりをしてゐる。
彼は源氏が專門で、いまは某國立大學で教へてゐる。
スダは近代が專門で、當時は泉鏡花を研究してゐた。
いま調べてみたら、母校の大學院の教授をしてゐた。
朧げな記憶だが、彼は紙でコヨリを作るのが上手で、確か彼とはクラシックレコードの貸し借りをしてゐたやうに思ふ。
それにしても久しぶりのコンパだ。
いま手帳を調べてみたら、6月24日に遲い新歡コンパがあつたが、その後は國文コンパの記載がない。
その間まつたくなかつたとは思へないが、あつたとしても1度だらう。
タムラの引越のやうな大事件でもないとコンパは開催されないのか?
もしかするとコンパ情報が私のもとに屆いてゐなかつただけかもしれないが・・・
バイク豫約 (Kawasaki Z400Ltd)
スギモト、ヨシオカさん來訪
火曜日。
念願の單車を豫約した。
免許の交付が1週間後の14日、單車の能車がその翌日の15日。
かういふことの段取の良さには自信がある。
單車選びには、あまり時間がかからなかつた。
好きなバイクがすぐに見つかつたのだ。
私はべつに單車で峠を攻めまくりたいといふ氣はなかつた。
むしろ、千葉まで歸省するのに樂な、どちらかといへば長距離ツーリング志向が強かつた。
さういふ觀點から選ぶと、ちんちんをタンクに擦りつけるやうな前傾姿勢のレーサータイプではなく、ゆつたりとしたポジションのアメリカンタイプが私の希望に合つてゐる。
アメリカンタイプと云つても、當時はホンダのウイングカスタム(GL400)かヤマハのXS400、そしてカワサキのZ400LTDしかなかつた。
このうち、ヤマハのXS400はアパートの隣の部屋のオオノさんが乘つてゐるし、アメリカンにしてはかなり中途半端なデザインなのでパス。
ホンダのウイングカスタム(GL400)は水冷Vツインとシャフトドライブがウリだつたが、いかんせん重たいし値段が高い。
といふわけで、アメリカンが欲しいと思つたらカワサキのZ400LTDしかなかつたのである。
色は黒と赤があつたが、赤を選んだ。
タンクのペイントデザインが赤のはうが好きだつたのと、地味めなバイクだつたのでせめて色はハデにしたいと思つたから。
ヘルメットはフルフェイスではなくジェットヘルにし、色は赤。
赤いバイクに赤いヘルメットで、しかも後ろから見るとヘルメットの下からウェイヴがかかつた長髮が靡いてゐる。
後ろから走つて來た單車が私の隣に乘り付けて來て、さりげなく、しかし熱い視線で、私の顏を覗き込む。
スマンな、男で。
【1982年】(3囘生)
木曜日。
ホサカには2日にも¥3,000貸してゐる。
小刻みにきちんと返してくれてゐるのだが、この頃は彼も苦しかつたのだらう。
【1983年】(4囘生)
16:15 文 前
國文コンパ(タムラ引越Party)
フクシマ氏、フカザワ氏、ハマダさん、タムラ、スダ、アサノさん、サワムラさん
金曜日。
「文」は○で圍んである。
文學部の前といふ意味だと思はれる。
タムラが引つ越したことを祝ふ?名目のコンパらしい。
フクシマ氏、フカザワ氏は院生で、ハマダさんは4囘生、タムラ、スダ、アサノさん、サワムラさんは3囘生。
で、私はといふと哲學科から文學科に轉學科したため、4囘生ながら國文では3囘生。
ハマダさんは、私にとつて教養部の同期ながら國文の先輩であつた。
タムラとスダは私の立上げた近現代文學研究會のメンバー。
タムラとはいまだに年賀状のやりとりをしてゐる。
彼は源氏が專門で、いまは某國立大學で教へてゐる。
スダは近代が專門で、當時は泉鏡花を研究してゐた。
いま調べてみたら、母校の大學院の教授をしてゐた。
朧げな記憶だが、彼は紙でコヨリを作るのが上手で、確か彼とはクラシックレコードの貸し借りをしてゐたやうに思ふ。
それにしても久しぶりのコンパだ。
いま手帳を調べてみたら、6月24日に遲い新歡コンパがあつたが、その後は國文コンパの記載がない。
その間まつたくなかつたとは思へないが、あつたとしても1度だらう。
タムラの引越のやうな大事件でもないとコンパは開催されないのか?
もしかするとコンパ情報が私のもとに屆いてゐなかつただけかもしれないが・・・
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