「九州王朝の歴史学―多元的世界への出発」 古田武彦
お薦め度:☆☆☆+α /
2007年3月25日讀了
1991年6月18日發行(駸々堂)
古田武彦の「邪馬臺國論」は、「部分里程の總和は總里程」といふ認識から出發してゐる。
確かにそれは説得力のある論理ではあるが、惜しむらくは中國の史書にその先例がなかつた。
しかし、「三國志」の書かれた西晉時代に周墓から發見された『穆天子伝』(ぼくてんしでん)のなかに、「部分里程の總和は總里程」とみなされる記述があるといふ。
これにより、自説は補強されたことになると古田武彦は主張してゐる。
ほかに、第三篇「九州王朝と大和政權」では、「倭國は北九州にあつた」とする自説の根據を要約して述べてゐる。
そのなかで興味深かつたのは、萬葉集の用字に關する檢證だつた。
「ヤマト」をあらはすのに、「倭」といふ文字を使ふのは、天智歿後(671年)以降だといふのだ。
つまり、それ以前は「ヤマト」をあらはす表記に「倭」の文字は使つてゐない。
つまり、「倭」は「ヤマト」ではなかつた、といふことではないか。
國號が「倭」から「日本」に變はつた時が、すなはち「九州王朝」から「大和政權」への交替だつたのではないか。
これはとても説得力のある説だと思はれた。
ちなみに、本書の帶に記載されてゐる惹句は以下のとほり。
「穆天子伝」「新唐書日本伝」等の史料批判を通して発展する古田史学の最新成果を収録。
お薦め度:☆☆☆+α /
2007年3月25日讀了
1991年6月18日發行(駸々堂)
古田武彦の「邪馬臺國論」は、「部分里程の總和は總里程」といふ認識から出發してゐる。
確かにそれは説得力のある論理ではあるが、惜しむらくは中國の史書にその先例がなかつた。
しかし、「三國志」の書かれた西晉時代に周墓から發見された『穆天子伝』(ぼくてんしでん)のなかに、「部分里程の總和は總里程」とみなされる記述があるといふ。
これにより、自説は補強されたことになると古田武彦は主張してゐる。
ほかに、第三篇「九州王朝と大和政權」では、「倭國は北九州にあつた」とする自説の根據を要約して述べてゐる。
そのなかで興味深かつたのは、萬葉集の用字に關する檢證だつた。
「ヤマト」をあらはすのに、「倭」といふ文字を使ふのは、天智歿後(671年)以降だといふのだ。
つまり、それ以前は「ヤマト」をあらはす表記に「倭」の文字は使つてゐない。
つまり、「倭」は「ヤマト」ではなかつた、といふことではないか。
國號が「倭」から「日本」に變はつた時が、すなはち「九州王朝」から「大和政權」への交替だつたのではないか。
これはとても説得力のある説だと思はれた。
ちなみに、本書の帶に記載されてゐる惹句は以下のとほり。
「穆天子伝」「新唐書日本伝」等の史料批判を通して発展する古田史学の最新成果を収録。
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