【1980年】(浪人)
フラゴナール展 上野動物園
上野の美術館にフラゴナール展を見に行つた。
その時に買つたポスターを、學生アパートの部屋に貼つた記憶がある。
序でに上野動物園に行つたらしいが、まるで記憶にない。
行つたとすれば、たぶん10數年ぶりだらう。
ああ、何となくパンダを見たやうな氣が・・・
【1981年】(1囘生)
停滯 (三斗小屋温泉→隠居倉)
「停滯」といふのは山屋の言葉で、天氣が惡くて行動すると危險な場合にそのままテントや山小屋にゐること。
「沈澱」などといふこともあるらしい。
この時は朝の時點で吹雪だつたので、豫定を變更して行動を控へてテントにゐた。
しばらくすると吹雪も少しをさまつて來たので、翌日の偵察も兼ねて、隱居倉まで登ることにした。
隱居倉といふのは、目的の朝日岳から西に伸びる尾根の途中にあるピークで標高1819m。
隱居倉から朝日岳までは熊見曾根といふ痩せた尾根で、右手(西側)が切れ落ちてゐる。
なので、いくら吹雪が少しをさまつたとはいへ、この天候で熊見曾根を登るのは滑落するリスクが高い。
云ひ出したのは誰だか思ひ出せない。
たぶん私ではないだらう。
現役諸君が登りたいと云ひ出したのかな?
とにかく、夏道を無視して隱居倉から西北西に伸びる尾根づたひに登つた。
ラッセルはたいしたことはなかつたやうに思ふ。
稜線上に出ると雪はさほどではなかつたが風はかなり強かつた。
ちやうどいい機會なので、現役諸君に耐風姿勢の基本を教へた。
左右の足を肩幅の倍程度に開いて、どちらかの足を前に出し、兩脚と正三角形を作るあたりにピッケルを突く。
風に負けないやうに低い姿勢をとつて、兩脚とピッケルに體重をかけて踏ん張る。
そんな姿勢を取りつつ、風の呼吸の間に前進、隱居倉のピークを踏んだ。
現役諸君にはいい經驗になつたと思ふ。
【1982年】(2囘生)
戸倉→鳩待峠
無雪期には鳩待峠までバスが入るが、3月はさういふわけにはいかない。
バスは戸倉までで、そこから津奈木橋まで延々と雪の林道を歩くことになる。
いま地形圖で確認したら、平面距離で7kmほど。
雪の状態にもよるが、おそらく3時間ほどかかつたのではないだらうか。
津奈木橋で林道から離れて、津奈木澤の左岸を登る。
夏道はないが、積雪期のメインルートだけにトレース(踏み跡)がついてゐる。
最後は右岸から左岸に渡つて來た林道に合流し、鳩待峠に至る。
鳩待峠には、おそらく無雪期には駐車場なのだと思はれる白い雪原が擴がつてゐた。
峠から至佛山へ向ふゆるやかな尾根を標高差にして30mほど登り、緩斜面にテントを張つた。
ここをベースに至佛山をピストン(往復)する計畫である。
【1983年】(3囘生)
歸省豫定 (ミヤシタの車)
ミヤシタはC高の同級生。
「浪人のC高」と云はれるほど浪人する比率の高いC高にしては珍しいことに、彼は現役で入學した。
そればかりか留年することもなく4年間で卒業するといふ快擧を成し遂げたので、この年に彼は卒業した筈だ。
卒業式が何日だつたか知らないが、26日より遲い筈はないだらうから、彼はすでに卒業してゐたものと思はれる。
就職先は流通大手のS百貨店で、その後も時々土産を持つて遊びに來てくれた。
沼津の干物、美味かつたなあ。
何はともあれ、私はミヤシタといふ歸省の足を失ふこととなつた。
惜しい足を無くした・・・
フラゴナール展 上野動物園
上野の美術館にフラゴナール展を見に行つた。
その時に買つたポスターを、學生アパートの部屋に貼つた記憶がある。
序でに上野動物園に行つたらしいが、まるで記憶にない。
行つたとすれば、たぶん10數年ぶりだらう。
ああ、何となくパンダを見たやうな氣が・・・
【1981年】(1囘生)
停滯 (三斗小屋温泉→隠居倉)
「停滯」といふのは山屋の言葉で、天氣が惡くて行動すると危險な場合にそのままテントや山小屋にゐること。
「沈澱」などといふこともあるらしい。
この時は朝の時點で吹雪だつたので、豫定を變更して行動を控へてテントにゐた。
しばらくすると吹雪も少しをさまつて來たので、翌日の偵察も兼ねて、隱居倉まで登ることにした。
隱居倉といふのは、目的の朝日岳から西に伸びる尾根の途中にあるピークで標高1819m。
隱居倉から朝日岳までは熊見曾根といふ痩せた尾根で、右手(西側)が切れ落ちてゐる。
なので、いくら吹雪が少しをさまつたとはいへ、この天候で熊見曾根を登るのは滑落するリスクが高い。
云ひ出したのは誰だか思ひ出せない。
たぶん私ではないだらう。
現役諸君が登りたいと云ひ出したのかな?
とにかく、夏道を無視して隱居倉から西北西に伸びる尾根づたひに登つた。
ラッセルはたいしたことはなかつたやうに思ふ。
稜線上に出ると雪はさほどではなかつたが風はかなり強かつた。
ちやうどいい機會なので、現役諸君に耐風姿勢の基本を教へた。
左右の足を肩幅の倍程度に開いて、どちらかの足を前に出し、兩脚と正三角形を作るあたりにピッケルを突く。
風に負けないやうに低い姿勢をとつて、兩脚とピッケルに體重をかけて踏ん張る。
そんな姿勢を取りつつ、風の呼吸の間に前進、隱居倉のピークを踏んだ。
現役諸君にはいい經驗になつたと思ふ。
【1982年】(2囘生)
戸倉→鳩待峠
無雪期には鳩待峠までバスが入るが、3月はさういふわけにはいかない。
バスは戸倉までで、そこから津奈木橋まで延々と雪の林道を歩くことになる。
いま地形圖で確認したら、平面距離で7kmほど。
雪の状態にもよるが、おそらく3時間ほどかかつたのではないだらうか。
津奈木橋で林道から離れて、津奈木澤の左岸を登る。
夏道はないが、積雪期のメインルートだけにトレース(踏み跡)がついてゐる。
最後は右岸から左岸に渡つて來た林道に合流し、鳩待峠に至る。
鳩待峠には、おそらく無雪期には駐車場なのだと思はれる白い雪原が擴がつてゐた。
峠から至佛山へ向ふゆるやかな尾根を標高差にして30mほど登り、緩斜面にテントを張つた。
ここをベースに至佛山をピストン(往復)する計畫である。
【1983年】(3囘生)
歸省豫定 (ミヤシタの車)
ミヤシタはC高の同級生。
「浪人のC高」と云はれるほど浪人する比率の高いC高にしては珍しいことに、彼は現役で入學した。
そればかりか留年することもなく4年間で卒業するといふ快擧を成し遂げたので、この年に彼は卒業した筈だ。
卒業式が何日だつたか知らないが、26日より遲い筈はないだらうから、彼はすでに卒業してゐたものと思はれる。
就職先は流通大手のS百貨店で、その後も時々土産を持つて遊びに來てくれた。
沼津の干物、美味かつたなあ。
何はともあれ、私はミヤシタといふ歸省の足を失ふこととなつた。
惜しい足を無くした・・・
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