【うさぎの聖母】ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
>>墓をこえ
あの人の顔を見守る興奮が
私を支えてくれる
帝王の美酒の一口が日々与えられるかのように――
(『エミリ・ディキンスン詩集~続・自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊より)
ええと、最終回の前文のところに、このお話はあとがきありませんって書いた気がするんですけど……そんなわけで、これは正確にはあとがきじゃないと思います(^^;)
作中でネイサンくんが、
>>一度、自分の家庭を評して『うちの家は俺にとっては墓場みたいなものなんだ』とネイサンが言っていたことのあるせいだった。『墓場なんか、いくらピカピカにしたって、やっぱり墓はただの墓さ。でも、弟のジミーはすごいんだ。生まれた時から墓場の家庭に住んでるものだから、もうそれが当たり前で、なんともなくなっちゃってるんだね。ジミーは墓に耐性があるんじゃないかなって、俺、たまに思うくらい』……「弟は墓に耐性がある」なんていう言葉を生まれて初めて聞いたと思い、イーサンはおかしくて堪らなかったものだった。
みたいに言ってるわけなんですけど、この「墓場の家庭」っていう思想(?)っていうんでしょうか。これはわたしの頭が思いついたものではなくて、実はディキンスンの詩からもらったものなんですよね(^^;)
エミリー・ディキンスンの生涯における大きな恋愛はたぶん二つあるのかなって思うんですけど……ひとり目は、すでに既婚者で父親くらい年の離れたチャールズ・ワズワース牧師で、こちらはエミリーのほとんど妄想というか、そういう理想化した対象に恋に恋するといった種類のもので――と、こう書くとなんか「アブねー女だな☆」と思われるかもなんですけど、エミリーの詩人としての人生を語る上で、ワズワース牧師は欠かすことの出来ない重要な存在だと思います。
というか、彼がエミリーを「本物の詩人にした」のではないかという向きもあると思うので、仮にエミリーが自分の頭の中で作り上げた偶像に恋をしていたのだとしても、彼女は本物の芸術家ですからね。「そんな変な恋の仕方してて可哀想☆」とかなんとか、そんな言葉はエミリーの場合当てはまらない気がします
それはさておき、とにかくディキンスンにとってワズワース牧師は結ばれてはならぬ相手でありつつ、恋しい人でもあったというのでしょうか。そのようなわけで、ちょっと長いですが、こうしたことを背景にして次のような詩が生まれています。
>>私はあなたと暮らせない
あなたと暮らすことが人の世なのに
そして「人生」はあちら側の
戸棚のうしろに――
寺番がまるで茶碗と同然に
「私たちの人生」を
自分の陶器のようにしまいこんで
鍵を持っているのです
主婦が奇妙な こわれたお茶碗を
捨てるのと同じこと
真新しいセーブル焼きはお気に入りでも
古いものにはひびが入ります
私はあなたと死んでゆけそうにない
なぜなら 人はもう一人の見つめる目を閉ざしてやる
そのために生きて待つのです
あなたはそれができそうにない
それにもし私があなたのそばにいても
あなたの凍えるのをどうして見てなどいられましょう
私の「霜の権利」
死の特権を手にしないでは――
私はあなたといっしょに立ち上がれない
なぜなら あなたの顔は
キリストの貌(かたち)を消してしまい
私の恋しく思う目には
あの新しい恩寵で
あかあかと異様に輝いて映るでしょうから
キリストよりもあなたの方が
もっと身近で輝かない限りは――
みんなは二人を裁くでしょう でもどんな風に
あなたは そう 天国に尽くされた方
あるいは それを求めて生きた方
でも私はそうじゃない
なぜなら あなたは私の視野をすっかり満たし
私はもう見たくもありませんでした
楽園のような
汚れた素晴らしいものなどを――
そしてあなたが失われるときは 私とて同じこと
たとえ私の名前が
天上の名声に
どれほど高く鳴りひびこうと――
もしあなたが救われるなら
そして私が
あなたのいない所にいるよう宣告されたなら
もうそんな自分は地獄と同じこと
だから私たちは離れているのです
あなたは向こう側に 私はこちら側に
おたがいが少し開いたドアをへだてて――
そこには海があり 祈りがあり
そしてあの白い食物
絶望があるのです
(『エミリ・ディキンスン詩集~続・自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社より)
ようするに、この世で結ばれなかった恋人同士は死後に墓場で結ばれるしかないっていうんでしょうか(そして、ワズワース牧師の場合は、死後に墓の中ですら結ばれることの叶わないという絶望^^;)
そうした思想性を含んだ詩がエミリーの詩の中にはありまして、そこから『墓場の家庭』という言葉を思いついたんですよね。もちろん、だからどーした☆っていう話ではあるんですけど……エミリーの有名な詩に「アラバスターの部屋で安らかに」という詩があるんですけど、この詩のイメージなども『墓場の家庭』を想起させるものではないかなという気がします。
つまり、アラバスターって雪化石膏のことですけど、そんな真っ白なお墓の下には、ピーター・ラビットに出てくるようなメルヘンチックな穴蔵のような場所があって、死後に幸福に自分の好きな人たちとあたたかい家庭で暮らす……っていうようなイメージが、言葉で直接言及がなくても連想されるんですよね。
>>ながい別離だったが――ついに
再会の時がやってきた
神の審きの座のまえで
最後で二度目のときが――
肉体のない恋人たちはめぐりあった
ただ一瞥の天国――
それはお互いの目の特権で
天国のなかの天国だ――
二人にはどんな生涯の期限もなく
まだ生まれてない新しきひととして装われている
ただすでに互いに見つめ合って
限りない存在となっているだけだ
婚礼とはいつもこのようなものだろうか
天国の主人と
ケルビムやセラフィムの天使たち
それにつつましいお客――
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん編・訳/思潮社より)
もうひとつ、ディキンスンにとって重要な恋愛が、晩年に近くなって両思いになったフィリップ・ロード弁護士との恋だと思うんですけど、両思いながら生きている間には結婚しなかったことから、彼との<結婚>のイメージというのも、死んだら墓場の家庭で彼と一緒になる……といったところがあったような気がします。
>>お墓なの わたしの小さな家――
あなたのために<家事をしながら>
居間をととのえ お茶を入れるの
大理石のテーブルに――
だって離ればなれの二人にとって
言うなればほんの一劫の間でしょ
やがて永遠の生に結ばれ
揺るぎなき交わりができるまでの――
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社)
まあ、墓場の家庭なんて言うと、なんかいかにも陰気なイメージですけど(笑)、そうした思想を思いつくエミリーって本当にユニークだと思いますし、それもまた彼女が優しい人だったからこそ生まれた考え方ではないかと思います。
つまり、エミリーが生きた19世紀って今以上に色々な病気などによって人が早死にする時代でしたし、神の刑罰というのでなしに、そうした善良な本当なら長生きすべき人が何人も亡くなるという経験を通して――これはあくまでわたしが思うに、ということですけど、そうしたすべての人がこの世の幸福な家庭と同じかそれ以上の環境である『墓場の家庭』で、死後も憩っていて欲しいという……エミリーの頭の中にあったのは、そうしたことだったのではないでしょうか。
まあ、あんまし本編に直接関係のないことなんですけど、イーサンも最後はこうした形の「墓場の家庭」でマリーのことを思いつつ生きたのかな……なんていう気がしています(^^;)
そして、作中に出てくる「不在の存在感」という言葉なんですけど、これはわたしがしょっちゅう詩の訳を引用させていただいてる新倉俊一さんの本に『エミリー・ディキンスン~不在の肖像~』という本がありまして、このイメージから連想して「不在の存在」という言葉が自分の中で一番ぴったり来るように感じたのでした。
今目の前にいないんだけど、いる……遠く離れているからこそ、相手を身近に感じる――とか、そういうことって実際ありますよね。相手が人間じゃなくて犬っていうのがなんですけど(笑)、わたしもこのお話書いてる時に昔飼ってた犬の夢を見ました
まあどうってことのない他愛のない夢だったんですけど、わたしが寝てる布団の中にぴったり寄りそってきて隣で寝てるっていう夢で、その時に感じた毛並みの手触りだけでなく、とくんとくんいう心音まではっきり感じられて、実際本当に生きているとしか思えないくらいリアルな夢でした。
もちろん、もう死んでかなりになるため、朝起きて泣いた……といったことまではなかったんですけど、なんというか軽く落ち込んでいる時期だったもので、夢の中に慰めに来てくれたのかなと思うと、なんか不甲斐ない飼い主でごめんよー☆とか思いました
イーサンはなんというか理論家さんですから(笑)、神は存在しないけど、天国とそこに住む魂はあるとか、そういう矛盾には目を瞑るということの出来ない人で、結局のところマリーのゆえに、マリーに天国にいて欲しいから、死後も家族として天国でみんなと暮らしたいから……そのようなことのゆえに、最終的に神さまのことを信じるに至ったのかなという気がします(^^;)
ではでは、あとがきとも呼べないあとがきですけれども、あらためて、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
それではまた~!!
>>墓をこえ
あの人の顔を見守る興奮が
私を支えてくれる
帝王の美酒の一口が日々与えられるかのように――
(『エミリ・ディキンスン詩集~続・自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊より)
ええと、最終回の前文のところに、このお話はあとがきありませんって書いた気がするんですけど……そんなわけで、これは正確にはあとがきじゃないと思います(^^;)
作中でネイサンくんが、
>>一度、自分の家庭を評して『うちの家は俺にとっては墓場みたいなものなんだ』とネイサンが言っていたことのあるせいだった。『墓場なんか、いくらピカピカにしたって、やっぱり墓はただの墓さ。でも、弟のジミーはすごいんだ。生まれた時から墓場の家庭に住んでるものだから、もうそれが当たり前で、なんともなくなっちゃってるんだね。ジミーは墓に耐性があるんじゃないかなって、俺、たまに思うくらい』……「弟は墓に耐性がある」なんていう言葉を生まれて初めて聞いたと思い、イーサンはおかしくて堪らなかったものだった。
みたいに言ってるわけなんですけど、この「墓場の家庭」っていう思想(?)っていうんでしょうか。これはわたしの頭が思いついたものではなくて、実はディキンスンの詩からもらったものなんですよね(^^;)
エミリー・ディキンスンの生涯における大きな恋愛はたぶん二つあるのかなって思うんですけど……ひとり目は、すでに既婚者で父親くらい年の離れたチャールズ・ワズワース牧師で、こちらはエミリーのほとんど妄想というか、そういう理想化した対象に恋に恋するといった種類のもので――と、こう書くとなんか「アブねー女だな☆」と思われるかもなんですけど、エミリーの詩人としての人生を語る上で、ワズワース牧師は欠かすことの出来ない重要な存在だと思います。
というか、彼がエミリーを「本物の詩人にした」のではないかという向きもあると思うので、仮にエミリーが自分の頭の中で作り上げた偶像に恋をしていたのだとしても、彼女は本物の芸術家ですからね。「そんな変な恋の仕方してて可哀想☆」とかなんとか、そんな言葉はエミリーの場合当てはまらない気がします
それはさておき、とにかくディキンスンにとってワズワース牧師は結ばれてはならぬ相手でありつつ、恋しい人でもあったというのでしょうか。そのようなわけで、ちょっと長いですが、こうしたことを背景にして次のような詩が生まれています。
>>私はあなたと暮らせない
あなたと暮らすことが人の世なのに
そして「人生」はあちら側の
戸棚のうしろに――
寺番がまるで茶碗と同然に
「私たちの人生」を
自分の陶器のようにしまいこんで
鍵を持っているのです
主婦が奇妙な こわれたお茶碗を
捨てるのと同じこと
真新しいセーブル焼きはお気に入りでも
古いものにはひびが入ります
私はあなたと死んでゆけそうにない
なぜなら 人はもう一人の見つめる目を閉ざしてやる
そのために生きて待つのです
あなたはそれができそうにない
それにもし私があなたのそばにいても
あなたの凍えるのをどうして見てなどいられましょう
私の「霜の権利」
死の特権を手にしないでは――
私はあなたといっしょに立ち上がれない
なぜなら あなたの顔は
キリストの貌(かたち)を消してしまい
私の恋しく思う目には
あの新しい恩寵で
あかあかと異様に輝いて映るでしょうから
キリストよりもあなたの方が
もっと身近で輝かない限りは――
みんなは二人を裁くでしょう でもどんな風に
あなたは そう 天国に尽くされた方
あるいは それを求めて生きた方
でも私はそうじゃない
なぜなら あなたは私の視野をすっかり満たし
私はもう見たくもありませんでした
楽園のような
汚れた素晴らしいものなどを――
そしてあなたが失われるときは 私とて同じこと
たとえ私の名前が
天上の名声に
どれほど高く鳴りひびこうと――
もしあなたが救われるなら
そして私が
あなたのいない所にいるよう宣告されたなら
もうそんな自分は地獄と同じこと
だから私たちは離れているのです
あなたは向こう側に 私はこちら側に
おたがいが少し開いたドアをへだてて――
そこには海があり 祈りがあり
そしてあの白い食物
絶望があるのです
(『エミリ・ディキンスン詩集~続・自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社より)
ようするに、この世で結ばれなかった恋人同士は死後に墓場で結ばれるしかないっていうんでしょうか(そして、ワズワース牧師の場合は、死後に墓の中ですら結ばれることの叶わないという絶望^^;)
そうした思想性を含んだ詩がエミリーの詩の中にはありまして、そこから『墓場の家庭』という言葉を思いついたんですよね。もちろん、だからどーした☆っていう話ではあるんですけど……エミリーの有名な詩に「アラバスターの部屋で安らかに」という詩があるんですけど、この詩のイメージなども『墓場の家庭』を想起させるものではないかなという気がします。
つまり、アラバスターって雪化石膏のことですけど、そんな真っ白なお墓の下には、ピーター・ラビットに出てくるようなメルヘンチックな穴蔵のような場所があって、死後に幸福に自分の好きな人たちとあたたかい家庭で暮らす……っていうようなイメージが、言葉で直接言及がなくても連想されるんですよね。
>>ながい別離だったが――ついに
再会の時がやってきた
神の審きの座のまえで
最後で二度目のときが――
肉体のない恋人たちはめぐりあった
ただ一瞥の天国――
それはお互いの目の特権で
天国のなかの天国だ――
二人にはどんな生涯の期限もなく
まだ生まれてない新しきひととして装われている
ただすでに互いに見つめ合って
限りない存在となっているだけだ
婚礼とはいつもこのようなものだろうか
天国の主人と
ケルビムやセラフィムの天使たち
それにつつましいお客――
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん編・訳/思潮社より)
もうひとつ、ディキンスンにとって重要な恋愛が、晩年に近くなって両思いになったフィリップ・ロード弁護士との恋だと思うんですけど、両思いながら生きている間には結婚しなかったことから、彼との<結婚>のイメージというのも、死んだら墓場の家庭で彼と一緒になる……といったところがあったような気がします。
>>お墓なの わたしの小さな家――
あなたのために<家事をしながら>
居間をととのえ お茶を入れるの
大理石のテーブルに――
だって離ればなれの二人にとって
言うなればほんの一劫の間でしょ
やがて永遠の生に結ばれ
揺るぎなき交わりができるまでの――
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社)
まあ、墓場の家庭なんて言うと、なんかいかにも陰気なイメージですけど(笑)、そうした思想を思いつくエミリーって本当にユニークだと思いますし、それもまた彼女が優しい人だったからこそ生まれた考え方ではないかと思います。
つまり、エミリーが生きた19世紀って今以上に色々な病気などによって人が早死にする時代でしたし、神の刑罰というのでなしに、そうした善良な本当なら長生きすべき人が何人も亡くなるという経験を通して――これはあくまでわたしが思うに、ということですけど、そうしたすべての人がこの世の幸福な家庭と同じかそれ以上の環境である『墓場の家庭』で、死後も憩っていて欲しいという……エミリーの頭の中にあったのは、そうしたことだったのではないでしょうか。
まあ、あんまし本編に直接関係のないことなんですけど、イーサンも最後はこうした形の「墓場の家庭」でマリーのことを思いつつ生きたのかな……なんていう気がしています(^^;)
そして、作中に出てくる「不在の存在感」という言葉なんですけど、これはわたしがしょっちゅう詩の訳を引用させていただいてる新倉俊一さんの本に『エミリー・ディキンスン~不在の肖像~』という本がありまして、このイメージから連想して「不在の存在」という言葉が自分の中で一番ぴったり来るように感じたのでした。
今目の前にいないんだけど、いる……遠く離れているからこそ、相手を身近に感じる――とか、そういうことって実際ありますよね。相手が人間じゃなくて犬っていうのがなんですけど(笑)、わたしもこのお話書いてる時に昔飼ってた犬の夢を見ました
まあどうってことのない他愛のない夢だったんですけど、わたしが寝てる布団の中にぴったり寄りそってきて隣で寝てるっていう夢で、その時に感じた毛並みの手触りだけでなく、とくんとくんいう心音まではっきり感じられて、実際本当に生きているとしか思えないくらいリアルな夢でした。
もちろん、もう死んでかなりになるため、朝起きて泣いた……といったことまではなかったんですけど、なんというか軽く落ち込んでいる時期だったもので、夢の中に慰めに来てくれたのかなと思うと、なんか不甲斐ない飼い主でごめんよー☆とか思いました
イーサンはなんというか理論家さんですから(笑)、神は存在しないけど、天国とそこに住む魂はあるとか、そういう矛盾には目を瞑るということの出来ない人で、結局のところマリーのゆえに、マリーに天国にいて欲しいから、死後も家族として天国でみんなと暮らしたいから……そのようなことのゆえに、最終的に神さまのことを信じるに至ったのかなという気がします(^^;)
ではでは、あとがきとも呼べないあとがきですけれども、あらためて、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
それではまた~!!