こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

「風と木の詩」について。

2021年06月23日 | 日記

(※「風と木の詩」について、ラスト等のネタばれ☆ありますので、一応ご注意くださいm(_ _)m)

 

 あまり気が進まないとはいえ、一応一度書いておくだけ書いておかなくてはいけない気がするので、軽くまとめておこうと思いました(^^;)

 

 とりあえず、わたしがBLジャンル全般に関して思うのは、「人は誰にも感じ方を強制することは出来ない」ということかもしれません。

 

 たとえば、「風と木の詩」に関して、「流石は日本におけるBLの金字塔!」といったように賞賛する方もいれば、わたしみたいにそこまで思うことが出来ないどころか、評価が低い人間もいるっていうことなんですよね(^^;)

 

 ただ、基本的に「風と木の詩」という作品については、すでに評価のほうがある程度定まっていて、おそらく賞賛派が8~9割といったところで、わたしのような意見を持つ人は、たぶん残りの1割くらいではないかという意味で――わたしがこれから書くことは、馬車に轢き殺されたゴキブリ程度のつぶやきの如き何ものかとでも思っていただければ十分です(笑)

 

 まずわたし、「風と木の詩」は10歳くらいの子が読むには危険な漫画だと思うし、そうした意味で今の時代では14禁くらいに相当するんでなかろーか……みたいに、やっぱりそう思わずにはいられないんですよね(^^;)

 

 今の時代は小学生でも、いくらでもエロいサイトにアクセスしてその手のものを読んでる子のいることを思えば――「風と木の詩」がどれほど問題だろう……という考え方もあるかもしれません。

 

 でも、18禁とか、そうはっきり表示のあるものって、最初からそう思って見たり読んだりする覚悟があるのと違って、「風と木の詩」は少し特殊な作品でないかという気がしています。何故かというと、まず絵が綺麗で少女漫画してるし、それと「風と木の詩」というタイトルも、その名のとおり詩情を誘うような、素敵なタイトルですから。

 

 なので、わたしが10歳くらいの年齢で、もし母が「風と木の詩」を持っていたら、間違いなく絶対読んだと思います。また、それでそれほど害を受けない可能性もあるとはいえ――もし10歳くらいの男の子が読んだ場合には、自分のセクシュアリティとか、そうしたことについて色々考えてしまうと思うんですよね。それで、女の子が読んだとしたら、「男の子同士がそんなことするなんて……!!」とか、「でもドキドキする」とか、色々あるにしても、結構この本、感受性の強い子が読んだ場合、トラウマになるんじゃないかという気がします(^^;)

 

 わたし自身かなりのとこいい歳した大人なのに、10~12歳くらいの年齢でわたしがこの作品を読んでたらどう思ったかって、想像つきません。何故かいうと、結構いい歳した今のわたしが読んでさえ、「とにかく主人公のジルベールの幸せを願う」という、ひたすらその一念で最後まで読み切ったようなものなのに、最後に待っているのはジルベールの、ある意味不毛とも言える死なわけです。

 

 この点については、「扉はひらく いくたびも」の中にも、アシスタントの方から「そんな死に方をするなら、この物語はなんのためにあったのですか?」という声があったと書いてありますが、「主人公の死にて終わる」ということが不満なのではなく――わたし、一番恐ろしかったのが次の点です。

 

 ジルベールがとにかくひたすら性的に搾取されてゆく、ある部分、彼もそのことを楽しんでいる場合もあるので、ジルベール本人がそのことを望んでいる場合に関しては構わないものの……まず、原作者様がそのことを目的としているので、原作者様側からもジルベールは性的に搾取され、作品中でも登場人物から性的に搾取され、また読者様方からも性的に搾取されていくという図式が成り立っているということ……ジルベール自身がそうした運命を背負った主人公だということが、読んでいてわたしが一番恐ろしかった点です。そして最後、性的に搾取し尽くされ、死ぬしかないというところで最終的にジルベールは馬車に轢かれて命を落とすわけですから

 

 自分的に、ジルベールの運命の相手役のような、セルジュにはあまり共感できなかったので、登場人物の中で一番好きなのはとにかくジルベールだという、その視点によってのみ、物語を読んでいくことになるんですよね。正直わたし的に、少年同士やジルベールとその他大人とのエロいシーンといったものには、ほとんど興味がありませんでした。ただ、ジルベールとオーギュストの近親相姦関係や、何故そうなったかの人間関係ドロドロと(個人的な感想としては、エロいシーンについては「やれやれ。ひどいな」としか思えなかったというか^^;)、生徒総監のロスマリネとジュール・ド・フェリィの関係性等は面白く読んだように思うものの――それ以外では絵が綺麗なのと、ジルベールの運命が気にかかるのでつい続きを読んでしまう……という以外では、特に感じるところが何もありませんでした。

 

 たぶん、「風と木の詩」の正しい読み方(?)としては、原作者様が提供する少年愛(同性愛)エロスに共感し、原作者様と共犯者になるような形で本作を読み進めていくことでないかという気がします。でも、わたしはただの一度たりともジルベールをエロい目で見ることはなく、「たぶん無理だろうけど、どうにかジルベールが幸せになれないもんだろうか」といったような、そうした視点でしか物語を追えませんでした。

 

 こう書くとまあ、本人が自分でもそう言ってるとおり、「BLのわからない人なんだろうな。まあ、わかんない人にはしょうがないよ」と思われるかもしれません。でもわたし、「風と木の詩」に関しては何かちょっと違うなという気がしています。何故かというと、わたし自身は十代から二十代くらいの頃にかけて、性描写的なことでいうなら、もっとハードなものを同人誌で読んだりしているし、その比較でいくとしたら、「風と木の詩」は十分、BL作品として相当優れていると思います。最近のBL作品の動向等を知らないのにこんなことを言うのはなんですが、ある意味、「風と木の詩」に比べたら、近ごろのBL作品は生ぬるくなったんじゃないか?という部分さえあるのじゃないかという気さえします。

 

 でも、原作者様側からも、作品中の登場人物からも、あるいは読者様からも性的に搾取され、最終的にもう性的利用価値がなくなったので死亡した――そんなふうに読めてしまうという意味で、わたしは「風と木の詩」は、一度読んである程度内容がわかると、また再び読み返したいとはまるで思えませんでした

 

 これはあくまで個人的な感想ですが、特に後半部がひどいような気がします。これはわたしの憶測なので間違ってるかもしれませんが、おそらく連載中、人気が下がるか、あるいはストーリー展開的に行き詰まるかすると、「とりあえずジルベールのエロいシーンを入れておこう」といった回もあったのではないかと思われますし、特にアダムという名前の番長(?)が出てくるあたりですね。一番嫌悪感を覚えました。

 

 もちろん、ラコンブラード学院のような男子寄宿学校はこの時代にもその前後する時代にもない、架空の場所であることはわかっています。でも、物語の前半のほうでは、「そんなことをいちいち云々するんじゃねえ!」というくらいの、説得力のある授業描写などがあって、そうしたところは本当に純粋に感心するのです。

 

 でも、アダムといったあの種の西洋番長というのは――いえ、向こうにだってこの種の荒くれ生徒はいたと思うんですよ。ただ、これたぶん日本の漫画の昭和時代の番長文化が持ちこまれてるんじゃないかなっていう気がします。そして、日本の漫画に出てくる番長たちで、アダムのようにここまでひどいことをする連中って……とりあえず、わたしの知ってる少年漫画の中では、少なくとも一度たりとも見かけたことがありません(^^;)

 

 このあたりの、途中の質の低下ということもありますし、それでもセルジュとジルベールがパリへ逃げるところや、その後の没落生活(?)というのでしょうか。ああしたところはフランス映画っぽい悲哀を感じさせるところもあって、ふたりの仲がうまくいかないところ含め、物語として読者に共感性を抱かせるところもあるんじゃないかなあ……と思ったりもします。

 

 あと、自分的にジルベールのことで唯一ほっとするのは、彼が同性愛者で大して信仰深くもなかったから、今は地獄のような場所にいるに違いない――というのではなく、彼の魂は死後、天使としてそのまま天国へ昇っていった……と考えても、特に作品中に障害がないと思えるところでしょうか。つまり、一読者としての勝手な想像として、ジルベールは天使のような魂を持っていた、けれど、天使のような存在が地上にやって来ると、彼の周囲の人々は欲しいままに振るまい、彼を苦しめた……そうした色々な苦しみその他の連続をジルベールは経験したけれど、そのつらさや悲しみがそのまま彼の魂の贖いとなり、ジルベールは元いた天使でいっぱいの天国へ帰っていった――というのでしょうか。とりあえず、無理にそうとでも思わなければ、ジルベールがあまりに可哀想すぎていたたまれません。。。

 

 以上、色々書いてきましたが、自分的に作品中どこか一箇所でも、ジルベールのことをエロい目で見たり、原作者様と共犯関係になって彼のことを犯すというか、そうしたことが一度でもあれば、「風と木の詩」という作品について批判することは出来ないだろう……と思ったので、わたしのような読者のほうがむしろ珍しいんじゃないかなと思い、「わたしはこう思った」的感想を述べさせていただきましたm(_ _)m

 

 でもわたし、「少年の名はジルベール」の中で――「あの作品は作者の自慰行為みたいなもんだよ」と、別の編集部からそうした声が聞こえたこともある……といった箇所を読んだ時、竹宮先生にはとにかく脱帽しました。そこまでの決意があって、そのくらいのことは言われるだろうくらいの覚悟をもって原作者様が描ききった作品であるのなら、わたしなぞはほんと、馬車の車輪の下のゴキブリみたいなもんだなと思います(笑)

 

 また、そうはっきり言い切っている竹宮先生のことを、BL女子であれば諸手を挙げて賞賛すると思うんですよね。「竹宮先生は紛うことなき、我々の先達であり、大切な仲間だ!!」といったように。

 

 とりあえず、わたしの知る限りにおいて……自ら「腐女子」と名乗る人々というのは、そうした誇りを持っていると思います。よく、「BLとは何か」といった議論において、「女性が自分の性といったものを投影させずに済むから」とか、「普通に結婚して子供を生むという、ありきたりの恋愛に少女たちが飽きたから」とか、色々な分析がされたりするものですけど――まあ、こうした一見わかりやすいような分析というのは、真性BL好きさんからすれば鼻でせせら笑ってしまう程度のことではないでしょうか(笑)

 

 何故なら、真性BL好きさんの会話っていうのは、「今日もジャ○ーズのカップリングでつい妄想に耽ってしまったわ」、「ふふふ。わたしなんか素人よ。信号待ちしてたら、向こうから可愛い男の子がふたりやって来たから、このふたりがベッドで絡みあったらどんなかしらと思ってたの」、「いやいや、そんなこと言ったらわたしなぞ、いつでも男同士のアレコレを考えてるもんねー。ぐふふ☆」……といったように、お互い自分がいかにBLにおいて末期かについて末期自慢しだすくらいの人々というのが、なんと言っても真性BL好きさんでないかと思うんですよね(ようするに、「『風と木の詩』を無条件に賞賛する人々というのは、彼女たちのような人だろうな~」ということです^^;)

 

 わたしはこうした方が薦める本(主に同人誌)などを借りて、後天的に「BLとはこういうもの」と習い覚えたといったところがあるので、そんなふうに最初から「とにかく男の子同士のものが好き!!」、「そこには理由なんかないのよっ!!」という、先天的に情熱のある方とでは、才能として天地の開きがあるわけです。

 

 で、何を言いたいかというと――竹宮先生や増山法恵さんは、間違いなくこちらの先天的なBL好きさんなんだろうなっていうことなんですよね。わたし、「残酷な神が支配する」を初めて職場の方から借りて読んだ時……それが初めて読む萩尾望都作品だったので、「ああ、萩尾先生もこの、先天的BL特性を持ってる方だな」って直感していました。

 

 でも、「一度きりの大泉の話」を読んで、そうではなく、そもそも先天的BL好きである増山法恵さんの影響があった……しかも、彼女からは「それは少年愛じゃないわ」などとダメ出しを食らっていたと書いてあるのを読み、結構驚きました(というか、自分の勘が外れたとわかり、何故か笑ってしまったというか^^;)。

 

 なんにしても、萩尾先生の「一度きりの大泉の話」によって、竹宮先生はもしかしたら人物評に若干傷がついてしまったかもしれません。でも、むしろこのことをきっかけに竹宮先生の作品を読み、「こんなにすごい作品があったなんて!!」と、驚いて購入される方もいらっしゃるに違いないことを思えば……どこかで何かのバランスがうまく取れてるといいな~と思ったりします。。。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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