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こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ここではない★どこか。-【1】-

2021年12月01日 | 日記

 

 いえ、本当は増山法恵さん追悼……といったこともあり(わたしの場合、気づくの遅すぎたとはいえ)、『変奏曲』のまだ買ってない最後の巻(でも未完)を購入しようかなと思ってたんですよね(注文しましたが、まだ届いてません)。

 

 そして、その前にたまたま偶然、『ここではない★どこか』シリーズのコミックス版①~③巻を某サイトさまにて入手

 

 わたし、文庫版とコミックス版と両方あったら、解説(巻末エッセイ)を読みたいこともあって、文庫版を買うことにしてるんですけど……『ここではない★どこか』シリーズは、どこかに「重複にご注意ください」みたいに書いてあるのを見て、「!?」と思い、結局のところ文庫版にしか収録されてない『夜の河を渡る』がコミックス版にはなかったので、逆に損したことになりました(^^;)

 

 まあ、わたしの側のこんな細かい事情はどーでもいいとして……『ここではない★どこか』シリーズをわたしが「読みたい!(>_<)」と思ったのが実は『オイディプス』と『スフィンクス』の萩尾先生的解釈が気になったから――というのと、密林さんにおける評価が高かったから、というのが購入理由と言っていいと思います。

 

 いえ、舞ちゃんシリーズも面白かったですし(お気に入り)、生方夫妻が出てくるお話その他も好きです。でも、短編連作集ですので、感想とか書くとしたらたぶん、どれかひとつのシリーズ作品に絞ったほうがいいかなと思うので……とりあえず今回は、『オイディプス』と『スフィンクス』について感想を書いてみようかな~なんて(^^;)

 

 そのですね、前に感想書いた『恐るべき子どもたち』を読んだ時、最後の1ページで、今流行りのタイムリープものと同じく――萩尾先生の描き方って、再び最初の1ページ目に戻れば、もしかしたら違う運命をやり直せるかも……という可能性が示唆されてると気づき、すごく驚いたわけです(これは原作者であるジャン・コクトーの頭にもなかったことだと思うので)。

 

 それで、『オイディプス』と言えば、特にあらすじ書く必要すらないくらい有名なギリシャ悲劇ですよね。そして、彼の運命はデルフォイの巫女の神託によって最初から決まってるわけですけど……これをそのまま描いたのではたぶん、そんなに面白くないというか、面白いことには面白いかもしれないけれど、ストーリーのほうが超有名すぎて結末等については読者のほうではわかりきってるわけです。この部分を萩尾先生はどう料理したのだろう――というのと、この超有名なギリシャ悲劇を取り上げたことには、萩尾先生的に特に深い意味がおありになったのだろうか……ということが、自分的にすごく気になったというか。

 

 あと、この『オイディプス』や『スフィンクス』を含むメッセージシリーズに出てくる右手が鳥の鉤爪(?)みたいになってる男性が何者か――というのも、最終的に謎のほうは解かれてないかな……とは思うものの、特にその点については自分的にそれほど不満はありません(^^;)

 

 ええと、とりあえず自分的には萩尾先生版『オイディプス』の表現については物凄く満足しました。なんでかっていうと、わたし自身、ギュスターヴ・モローやフェルナン・クノップフといった画家の描く『オイディプスとスフィンクス』の姿を見ていて……ずっと昔から「このふたりがくっついたらいいんじゃね?」と思ってきたからなのです(笑)。

 

【オイディプスとスフィンクス】ギュスターヴ・モロー

 

【スフィンクスの愛撫】フェルナン・クノップフ

 

 そこのところ、実はオイディプスの実の母親だったイオカステ王妃=スフィンクスという表現が、自分的にすごく納得できるというか、「そっか。この手があったか!」みたいに思わされるところがありました。あと、自分的にその前まで結構好きだったのは、スフィンクスって下半身はライオンでも、上半身が美女なので――その美しさにおびき寄せられてきた男たちが、スフィンクスの接吻だけでセックス以上の快楽を味わわされるものの、そんなふうに頭が朦朧としたところへスフィンクスの獣の爪が襲いかかり、男の臓腑を喰らい尽くすというものです(不適切な絵文字・笑)。

 

【スフィンクス】フランツ・フォン・シュトゥック

 

 それはさておき、メッセージⅢの『オイディプス』では、「あなたは何も知らなかったのだから、実の父を殺したことも、実の母を娶ったこともあなたの罪ではない」という弁護者である、右手が鳥の鉤爪みたいな男が出てくるという以外では、神話の悲劇そのままです。

 

 それで、この『ここではない★どこか』シリーズは、萩尾先生の長いキャリアの後半に属する漫画で、わたし的には竹宮先生との問題に関連して読もう……と思った作品ではまったくなかったものの、「知らなかったでは済まされない罪が自分にはある」として、オイディプスは結局自分の両方の目を潰してしまいます。

 

 いえ、ふと考えてみると、『君は美しい瞳』でも、メールデールは際限のない自責の念から自分の目を潰していて――自分の罪に対する罰=目を潰す……ということには、萩尾先生的にテーマとして惹かれるところがあるということなのかどうか、と思ったりしたわけです(^^;)

 

 今回はわたしの考えすぎ病を発現させるつもりはないのですが(笑)、『残酷な神が支配する』においても、この「罪と罰」というのは、とても重要なテーマですよね。ドストエフスキーの『罪と罰』は、最終的にキリスト教の神の救いや愛といったことが絡んでくるわけですけど、「そんな救いも愛も神はもたらさない(そんな神などいない)」とした場合、人間にはどういった救われうる道があるか……という意味でも、『残酷な神が支配する』はすごいお話だなあと思うわけです。

 

 オイディプスは結局のところ、自分で自分の目を潰すことで、自分自身を罰しました。確かに、相手が自分の実の父親かどうか以前の問題として、殺人は殺人ですし、イオカステ王妃はイオカステ王妃で、自分の罪の精算のためかどうか、首を吊って自殺しています。

 

 まあ、救いはないのかもしれませんが、ギリシャ悲劇の『オイディプス』に関していえば、物語として「そこがいいところ」でもあるので……すでに誰もが知ってるアンハッピーエンドな物語を陳腐なハッピーエンドで終わらせたところで仕方ないですしね(^^;)

 

 ただ、自分的にここで考えさせられたのが――萩尾先生の『銀の三角』をこの間読んだのですが、あのお話は今流行り風の言い方でいえば、ラグトーリンやマーリーがタイムリープを繰り返して、ひとつの『起きて欲しくない未来』の一点を変える物語と思うわけです(そして、物語の最後で様々な手を尽くし、ようやくのことでラグトーリンは未来を変えることが出来た)。

 

 でも、『オイディプス』に関していえば、とにかくデルフォイの巫女の未来の予言さえなければ良かったのでは?と思いつつ、いや、でもこの神託があろうとなかろうと、結局起きることは同じなのか……とも思いますし、結局、どの道を通っても最後はあの悲劇的場面で終わるという、どうもそうとしか思えないというか(^^;)。

 

 わたしも、今までに何度か(も?)竹宮先生と萩尾先生と増山法恵さんが「再び昔のように仲良くなれる可能性はなかったのか」と考えたりしました。また、このことについては他でもない萩尾先生が『一度きりの大泉の話』の中で、>>「ただ、私と竹宮惠子先生たちとの面と面との出会いでは、このようになってしまいました。それを良いとか悪いとか残念とかああしていればとか考えるのは放棄いたしました。とてもとても一言では言えないからです」と書いておられます。ですから、ご本人がそのくらい色々考えてこられたのに、一読者でしかないわたしがいくら考えたところで無意味ではあるわけです(まあ、「当たり前やろがい!」といった話ではあります)。

 

 それで、自分的に増山さんが実はすでに亡くなられていて、4か月にもなる(竹宮先生の『増山さんが亡くなったこと』というブログの発表は10/3付)と知って、何がショックだったか、自分でもなんとなくわかったような気がしてきました

 

 いえ、これはあくまでわたし的に勝手にそう思ってただけのことですけど……竹宮先生とは無理でも、せめても増山さんとだけなら――今からでも電話で話すとか、何か出来ないかなという、若干の可能性がなくもないのではないだろうか……みたいに思ったりしなくもなかったからです(^^;)

 

 というか、わたしが増山さんの立場でもし『一度きりの大泉の話』を読んだ場合、ほとんど発作的に電話するなり手紙を書くなどして、連絡を取らずにいられないような気がするんですよね。それで、このことに思い至った時、それはたぶん竹宮先生にしてもそうだろうなあという気がしました。ただ、それをしてしまうと「あなたがトラウマの張本人」と言われているも等しいのに、そんな人間が連絡を取るわけにもいかない=自重しよう……というふうになるというだけの話であって、まあ、竹宮先生にしても増山さんにしても――『一度きりの大泉の話』を泣きながら読んだというのが本当のところではないかという気がします

 

 あと、これはかなりどうでもいいことですけど、『世界の終わりにたった1人で』に出てくる>>「ナホトカ経由で……」というあたり、萩尾先生と山岸涼子先生、それに竹宮先生や増山さんが一緒にしたという1972年あたりの旅行を連想したのは、きっとわたしだけではないですよね?(^^;)

 

 さて、なんしても自分的に、もう少しか暫くの間は「増山さんロスについて考える」という時期になるやもしれませぬ。。。

 

 ぞれではまた~!!

 

 

 

 

 


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