こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ユトレイシア・ユニバーシティ。-【8】-

2021年12月02日 | ユトレイシア・ユニバーシティ。

 

 さて、今回も再び「だからどーした☆」話の続きといったところです(笑)。

 

 萩尾先生の『一度きりの大泉の話』の中に、モンゴメリの『丘の上のジェーン』の名前が出てきて、自分的に結構驚いたというか

 

 

 >>小学生の頃はオルコットの『若草物語』を描いていました。中学生になるとバーネットの『小公女』、ケストナーの『二人のロッテ』(映画の『罠にかかったパパとママ』の方の画像を使用しました)、高校生の頃はモンゴメリーの『丘の家のジェーン』(これは絵物語にしました)です。

 

(『一度きりの大泉の話』萩尾望都先生著/河出書房新社より)

 

 いえ、読んだ瞬間から「『丘の家のジェーン』の絵物語かあ。そりゃすごすぎるだろう……っていうか、それ見たい!」とか思いました(笑)。

 

 というか、モンゴメリの作品の中で突出して世界的に一番有名なのが『赤毛のアン』で、たぶんその次あたりに人気なのが『エミリー・シリーズ』で――わたし的にお気に入りなのは『銀の森のパット』(&『パットお嬢さん』)だったりするんですけど……パットやマリーゴールド、ジェーンあたりの名前を聞いてすぐわかる方というのは、かなりのところモンゴメリ中毒の中毒度の高い方のような気がします(^^;)

 

 でも、モンゴメリといえば『赤毛のアン』で割と終わってしまいがちなのかな……と思ったりするんですけど、ファンの方の中には結構、「アンよりもエミリーのほうが好き」とか、「アンよりもパットのほうが好き」とか、「モンゴメリが書いた作品の中で一番好きなのは『マリーゴールドの魔法』」とか――意外に結構いらっしゃったりしますよね。

 

『丘の家のジェーン』は、その続編を書いてる途中でモンゴメリは亡くなってるそうなので……わたしもジェーンがその後、どんなふうに成長したのか、続き読みたかったなって思います

 

 それではまた~!!

 

 

     ユトレイシア・ユニバーシティ。-【8】-

 

 さて、テス・アンダーソン教授の到着と同時、教授が「先週の水曜の決着をつけようじゃないか、みんな!」と話しはじめると、その場にいたほとんど全員から喝采が上がった。「もうすぐ大学のほうは休講になる。ゆえに、この討論会の続きは来学期から……ということになってしまうからな。出来れば今日はキリのいいところ、理想を言うなら男女ともに納得できるような答えが導かれるようにと私も願っている。では、今回は女性陣からはじめるんだったな?」

 

 アンダーソン教授にそう促され、リズはマイクスタンドのマイクを手に取った。「がんばってね!」とか、「何があっても応援してる」とか、「流れが悪くなったら、必ず援護射撃するから!」などなど、周囲の女学生たちが囁くような声で次々と告げる。

 

「初めまして、文学部二年のリズ・パーカーです。この討論会は飛び込みオーケーということでしたので、先週の討論会の動画を見て、今回この発言の場をいただきました。で、ですね……簡単に話をまとめたとすれば、先週の討論会の終わりあたりというのは、たとえば、女性のほうがセックスに対する欲求が強くて、男性のほうが弱かった場合――女性が週二回はセックスしたいというのを、男性のほうでは週一回じゃどうだね、おまえ……といった場合、その残り一回の欲求のほうをオナニーすることによって女性は我慢できないのかどうか――という主旨で間違いなかったでしょうか?」

 

 リズが「オナニー」という言葉を口にすると、会場が一気にざわついた。アーサーは「なかなかやるな、あの女」と舌打ちし、ジミーのほうでは「くそっ!この時点でもう惚れそうだ」などと呟いている。

 

 もちろん、自分の前の座席の彼らを見て、心中穏やかでないのはロイである。(彼女はオレの恋人だぞっ!)と、ジミー・ハワードに言ってやりたくて仕方ないが、ここはとにかく黙って事態を静観する以外にない。

 

「そうですね。極めて短くつづめて言ったとすればそういうことでしょうね」

 

 ギルバートはいつも通り冷静にそう返していた。彼は女性側がどのように切り込んでこようとも、そのすべてをはね返せる力が自分にはあると、信じて疑いもしなかった。

 

「これは、ネットの投稿サイトに書き込まれてたいた、男性の発言なのですが……元の発言がどこから取られたものかを知りたければ、あとでURLをお教えします。とにかく、ここでと同じく男女の性について、ざっくばらんに匿名で語るといったような主旨のサイトに、こう書き込まれていたのを見かけました。『男は自分の性的欲求はマスターベーションで晴らすことが出来るし、ある程度のことはそれでどうにかなる。でも、女性の欲求不満は男がいない限りどうにも出来なくて大変だろう』……この意見について、男性は『まったくそのとおりだ』と、納得しますか?」

 

「…………………」

 

 リズのこの言葉は、ギルをして返答に悩むところだった。アーサーは「気をつけろ、罠だっ!」と右から囁き、ジミーはといえば「いい女だなあ」などと、まったく関係のないことをひとり呟いている。

 

 だが、ギルが(とりあえず何か言わねばならない)と判断し、マイクをスタンドから取った時のことだった。女性陣の側から静かに――けれど、最後にはもう我慢できないというくらいの大声で、一気に大爆笑が起こったのである。「そいつ、女についてなんて絶対何もわかってないわ」とか、「そんなネットに投稿してる暗い奴なんて、童貞に決まってるわよ」だのと、あちこちから嘲笑する声さえ聞こえてくる。

 

「『どうにも出来なくて大変』ということはないんじゃないですか?」と、ギルバートにしては珍しく、彼は控え目な声音で言った。少し、自信がなさそうな様子でさえある。「それに、これは俺の意見ということではなくて、そうですね……アンダーソン教授ならこうおっしゃりそうだ。男がマスターベーションでおさまっていられるなら、この世界には強姦も性犯罪も、もっとずっと少なくなっているはずだ、と」

 

「それに、女の場合は色々道具を使って自分を慰めるっていう方法だってあるだろう」

 

 ロイは自分の斜め後ろからそのような野次を聞き、さらには「そーだ、そーだ!!」という周囲の同調の声に、げんなりした。いや、もし自分の愛する女性が、こんな益になりそうもない討論の矢面に立っているというのでなかったら――もう少し面白がれた部分もあったかもしれないのだが。

 

 ロイはさっきからずっと、リズがまるで存在していない幽霊のように、自分のほうを見ていないと気づいていた。だが、ギルバートのほうには視線を据えていることから、自分の存在に気づいてないはずがないのはわかっている。ただ、ロイはこの時……いや、この時も、というべきだろうか?リズが一体何をどう思ってこの場に立っているのか、いくら考えてみてもさっぱりわからなかったのである。

 

「だから男は馬鹿なのよっ!」とか、「あんたたちは絶対アダルトビデオの見すぎだっつのっ!」といったように女性陣側からも野次が飛び――この時リズもまたやはり、くすくす笑っていた。

 

(いちいち神経に障る女だ……)と、ギルはそう思い、内心でチッと舌打ちする。

 

「わたしは何も――いえ、これもわたし個人の意見であって、この場にいる女性全体の意見を代表するものではありませんが、わたし自身は男性は男性で大変なんだろうなと思っています。アンダーソン教授がよくおっしゃるように、確かに男性と女性では性周期が違いますし、さらにはそれには個人差といったものまで存在します。ようするに、女性に生理が存在するように、男性は男性でそのように遺伝子的に組み込まれているわけですから……まあ、わたしがもし女性という性を持たず、男性であったとすれば、することは大体同じでしょう。親に隠れてこっそりエッチなサイトについて検索したりとか、その手の本を読んでみたりとか。わたし個人の意見としては、男性というのはそんなふうに遺伝子に操られなくてはいけないわけですし、そこをいちいち理性で抑えるのも難しいらしい……くらいのことは理解します。ただ、自分たちの性がそういうものだから、女性も大体同じような性欲だろうと想像するの間違いです。たとえば、女性の中にも性欲の強い女性が存在するのは確かにしても、男性が「きのう寝た女は淫乱だった」というように表現する時、大抵はその人自身の願望や性欲を口にしている場合のほうが多いでしょうね。女性のほうでは愛している人の願っているとおりにしたいとか、そういう部分のほうが大きいのに――自分の性欲の反映に対して<淫乱>などと口にするから喧嘩になるんですよ」

 

 アーサーとジミーはギルバートを飛び越えて、互いにサインを送りあった。それはすべて目と手ぶりによる会話でしかなかったが、彼らはつまり、こう言っていたわけである。『こりゃもうダメだ』、『俺たちがギルを発掘したように、向こうも似たような人材を見つけたらしい』……といったように。

 

 彼らの予定としては今回の討論で、『それで、女性の側では一体週に何回くらいマスターベーションなさったりするのでしょうか?』といったように、その路線で攻めようと思っていたのに、会場全体の雰囲気がすでにそちらへ向いていないというのは――彼らの目には明らかだったからである。

 

「そうですね。女性だってエッチなサイトを見たり、エロ本くらい読むでしょう……なんて言うのも揚げ足を取るようで幼稚だし、多少悔しい部分はありますが、どうやらここは紳士らしく引いたほうが利口なようだ――ということくらいは、俺にもわかります。それに、ここのところ俺ばかりしゃべりすぎたような気もしますしね。どうですか?誰か、俺の代わりに男性側の意見を代弁しようという勇気のある人はいませんか?」

 

 ギルバートが自分の後ろを振り返ってそう問いかけても、誰からもなんの返答もなかった。誰もがみな、口を閉ざすか、あるいは首を左右に振っているかのいずれかだった。それでこの時、ギルバートが「では……」と言いかけた時のことだった。一体何を思ったのか、ロイがギルバートの肩に手をかけ、(マイク貸して)というように合図したのである。

 

(変なことしゃべんじゃねえぞっ!)と、ギルは目に呪いにも近い念力をこめつつ、ロイにマイクを手渡していた。(これは全学内放送みたいなもんなんだからなっ!)と。

 

「え~と、工学部一年のロイ・ノーラン・ルイスです。今日、この討論会に参加するのは初めてなんですが、とても有益な議論について聞かせていただき、ありがとうございました。それで、どんなことでも自由に発言していいということでしたので、ひとつ、オレも女性に聞きたいことがあります。オレもそうですが、このユトレイシア大学に入学するまで……ほとんど脇目もふらずに勉強してきたといった学生は多いと思います。恋愛とかそういうのは、無事念願の大学に合格してから考えようっていうわけですね。ところが、勉強ばっかりしてきたので、正直オレなどはやはり、女性が何をどう考えているものなのか、さっぱりわかりません。それで、オレ今好きな人がいるんですけど……女性から見た場合、そういう感じの童貞って気持ち悪いですか?」

 

「べつに、いいんじゃないでしょうか」

 

 リズは、それまでロイの視線を避けてきたが、この時ははっきり彼のほうを見て答えていた。彼女には、ロイの気持ちが十分通じていた。同じように恥をかき、泥をかぶってもいいという、その優しい同情の気持ちが……。

 

「他の女性には、そういう人もいます。男の人はそういう方面に関して経験があって、上手な人のほうがいいとか……でも、わたしはそういう純粋な人のほうが好きです」

 

 隣でミランダが「馬鹿っ!あんた一体何言ってんのよ」と、小声で叱ってくるものの――それより遥かに大きな、マイクを通しての声が、このあと会場全体に響き渡った。

 

「ばっ、バッカじゃねえのか、ロイっ、おまえはっ!!全学内に向かって『自分は童貞です。オレとヤッてくれる彼女募集中』みたいな発言しやがって。第一おまえ、先週その好きな子とやらと結ばれて童貞は卒業したんだろ!?それで俺に言ったよな?その子と結婚したいだのなんだの、どろ甘いノロケ聞かせやがったくせして……」

 

「ギル、やめろってばっ!これ、全学内の学生が見る可能性あるんだぞっ。結婚なんて聞いたら、彼女がどん引きするだろうがっ」

 

 ロイのほうの言葉はマイクを通したものではなかったが、周囲の人間には十分聞き取れるものだった。そこで、男性陣側からまずドッと大爆笑が起こり、まるでその笑いが波及するように、女性陣側のほうも笑いだしていた。こののち、テス・アンダーソン教授が場を締めて、「じゃあ、今日は珍しく短かったが、このあたりにしておこうか」と呼びかけた。「どうやら、冬学期からは仕切り直したほうがよさそうだな。私としては脳科学から見た男女の恋愛論の違いについての続きからはじめたいんだが……まあ、そのあたりについてはあらためて部員全員で話しあうとしよう」

 

 集まっていた学生たちは、まるで潮が引いていくように、すぐに第三会議室から出、さらには教育棟Aの建物からも去っていった。「もっと盛り上がると思ってたのに、なんかつまんなかったねー」とつぶやく学生もいれば、「最後のとこだけ面白かった。童貞どうこうってところ」とか、「結局、どういうことなのか結論は出てないんじゃね?」などなど、意見や感想は色々あったようである。

 

 この日、もちろんリズはこのあとすぐロイと話して抱きあいたかった。また、それはロイにしても同じで、自分たちの気持ちが十分すぎるほど通じあっているということを、互いに確かめあいたくて仕方なかったわけだが……リズはジュディ・コールリッチやミランダといった<フェミニスト・クラブ>の面々に「よくやってくれたわ!」とか、「リズ、あなた最高よ!!」、「ほんと、ほーんと。男なんてどうしようもない馬鹿ばっかりなんだから!」といったように囲まれはじめ――秋学期の討論会が女性陣の勝利で終わったことを祝いあう場へ、自然連れ込まれることになっていたのである。

 

 一方、アーサーとジミー、それにギルバートといった男性陣首脳らに、こちらも自然と一緒に来るよう巻き込まれたロイもまた、リズとの教育棟Aを出てからの再会を阻まれた。そのようなわけで、ロイは最後、多数の女性たちに英雄扱いされ、どこかへいくリズの後ろ姿を見送ったというだけで……あとは、大学の正門を出た通りにある中華料理店『ハイハイ上海』にて、酒を片手に文句を言いあう彼らの愚痴を聞かされるという羽目になったのだった。

 

「ちっくしょー!!あともう少しだったのによおっ」

 

 店員の持ってきた焼酎をぐっと飲み、アーサーが悔しそうにごちる。ロイの見たところ、彼はおそらくギルレベルの金持ちに違いなかった。二十数名もの男子学生がぞろぞろついてきたにも関わらず、「みんな、今日は奢ってやるからなんでも好きのもの頼めっ!!」などと、入店時に通達していたからである。

 

「俺も思うけど、あれは一体どう切り返しておくのが正解だったんですかね……?」

 

 軽く落ち込み気味のギルを、隣のジミーが背中をばんばん叩いて慰める。彼は垂れ目気味なせいか、いかにも人が好さそうな顔をして見える。なんでも将来は、親の病院を継いで内科医になる予定だそうだ。

 

「ギル、おまえが落ち込む必要はないって!いやいや、実際おまえは俺たちが期待した以上によくやってくれたよ。ありゃあ単に、相手が悪かっただけの話さ」

 

「そうっスよねー」と、後ろの座席から別の学生が割り込んでくる。「僕、リズ・パーカーと同じ文学部なんですよ。リズがまだ一年の時、ロバート・フォスターって教授が、彼女になんかセクハラを働いたとかで……たぶん、レイプ寸前とか、それともレイプされちまったのか、あるいは本当につきあってて深い仲だったのかはわからないんだけど――とにかく、それが原因でフォスター教授は即刻クビになったって話。リズ・パーカーのほうでは大事にしたくなかったらしくて、新聞沙汰とか、そういうところまでは行かなかったってことなんですけど、今にしてみたら彼女、相当やり手だったんだななんて思いますね」

 

「やり手って?」

 

 どういう意味だ、というように、すでに目が据わっているアーサーが聞く。どうやら彼は威勢よく飲みはじめたものの、アルコールには弱いらしい。

 

「ようするに、まだ一年にして教授を手玉に取っちまったっていう話ですよ。そういう噂が流れると、どうしても『成績でAを取るのに教授に迫ったんじゃないか』だの、おかしなことを言う奴が出てくるもんですけど……案外、そういうところもあったんじゃないですか?」

 

「確かになあ」と、隣の学生がさらに同意する。「ほら、うちの大学ってそこらへんかなりのとこケッペキじゃないですか。先生たちと学生の恋愛はご法度的な……なんでかっていうと、国で一番の大学の教授と学生のレンアイなんていうのは、あんまり聞こえがよくないですからね。他大学じゃ、『コンラッド大学のなんとか教授の愛人を八年やってました』なんていう美女が週刊誌のピンナップを飾ってても、「まあ、大人同士なんだし」的判断だったりする。でも、そこらへんユト大は上の判断が厳しいらしいってのは有名ですもんね」

 

 ちなみに、ラファエル・コンラッド大学というのは、私立大としては大体ユト国内にて第2位くらい……といったように判断されている名門大学である。

 

 ――このあとも、「だが、俺たちは決して女どもに負けたわけじゃないっ!!」とか、「必ずあの生意気な口を聞いた女どものうち、誰かをモノにして、メロメロにして手ひどく振ってやるんだあっ!!」、「女なんか、女なんか、女なんか……クッソー!!今年のクリスマスもひとりだぞうっ!!」などなど、男どもの悲しい告白大会の様相を呈してきた宴会は、美味しい中華料理とともに続いた。

 

 だが、ロイは最初に繰り出された、リズと同じ文学部だという青年の告白のせいで――がっかりと落ち込んだところからスタートし、さして飲んだというわけでもないのに途中で気持ち悪くなり、退座することになっていた。酒に強いギルは、時折ロイの様子を心配しつつ、男子学生たちのノリに合わせて気焔を上げたりしていたわけだが……ロイはその予定でいたにも関わらず、ギルに真実を告げることも出来ず(「実はあのリズ・パーカーって子が、オレの好きな子なんだ」)、タクシーで帰宅してからは悪酔いしたせいもあり、自分の部屋でとことん落ち込むということになった。

 

(そりゃあ、『そこの引きだしにコンドームあるから使って』って言われた時から……ここに来るのはオレだけじゃないっていうか、前にもいたんだろうなとは思ったけど、まさかその相手がロバート・フォスター教授とはね……)

 

 もちろん、文学部の学生がした、ちょっとした噂話の可能性もあると、ロイにもわかってはいた。けれど、ロイにとってショックだったのは、リズが教授と不倫していたかもしれないという事実のみならず――この、仲間内ではボブと呼ばれていた教授のことを知っていたということだった。

 

 ロイの父親は今もユトレイシア大の物理学科で教授をしている。無論、最初から教授だったわけではなく、今よりずっと若かった頃はユトレイシア大近くの教職員専用の住宅に住んでいた。ロイの父親のハリーは時々、自分の大学内のことを指し「我がユト大村では」という言い方をするのだが、この教職員専用の住宅を使用していた教員夫婦や家族などは仲がよく――それは文学部であれ理学部であれ、科の垣根を越えて親しい人間関係を築いていたわけである。

 

 もっとも、ロイが生まれる前からすでに、今の屋敷にルイス夫妻は引っ越してきてはいたが、この職員専用の住宅に場所が近いせいもあり、そうした交流というのはその後も続いた。だからロイは今も時々、廊下ですれ違った教授の誰かしらに……「君が赤ん坊の頃オムツをかえてあげたことあるの、覚えてるかい?」などと言われたりするのだが、フォスター夫妻はそうした中の両親が親しくしていた友人だったのである。

 

 旦那さんのロバートは教授の職を追われ、夫妻は離婚したらしい――みたいなことは、ロイもその時期確か、父や母がしていた会話の中にあったのを、一応覚えてはいる。このフォスター夫妻と親しくしていたのは両親であって、ロイ自身にとっては「うちにたまに遊びにくるおじさんとおばさん」くらいな感覚だった。とはいえ、ロバートのほうは釣りが趣味、奥さんのほうはテニスが趣味くらいのことは知っていたし、恐妻家で、奥さんの尻に敷かれているといったような夫婦関係だったようだ……ということも記憶に残っている。

 

 そして、このフォスター夫妻はロバートの離職後、離婚したということで、その後は彼らのうちどちらも、ルイス家の敷居を跨いではいない。

 

(リズが原因で、あの人たちは離婚したっていうのか?なんだっけ……今も覚えてる。母さんがフォスター夫人と話しながら料理を作ったり、クッキーを焼いたりしながら、彼女が夫の愚痴を言ったりしてたとか、そういうことだけど……)

 

『毎月、きちんきちんとお給料をくれるっていう以外では、なんの取り柄もないつまんない人よ』とか、『釣りしてくるのはいいけど、なんでわたしに料理させるわけ?ハラワタ抜いたりなんだり、結構面倒くさいってのに……じゃなかったら、キャッチ&リリースで釣りだけ楽しんで逃がしてこいってのよ』といった、日常生活の些細な、つまらない愚痴だったようにロイは記憶していたが。

 

(そうだよな。べつにリズが悪いってわけじゃないのかもしれない。それに、実はリズじゃなくてフォスター教授がつきあってたのは、別の学生だったって可能性もあるわけだし……)

 

 ちなみに、リズがフォスター教授にレイプされたかレイプされそうになったという可能性については、ロイはあまり本気にしていなかった。というのもこのロバート・フォスター、気の弱い犬のような顔をした中年であり、物腰のほうにも押しの強さのようなものは微塵もなく、女性がちょっと抵抗しただけで――むしろフォスター教授のほうが慌てふためいて失神しそうなくらいだ……といったような風貌の教授だったのである。

 

 ゆえに、ロイはあの文学部の青年がリズを「やり手」と評した気持ちがわからなくもないのだ。エリザベス・パーカーが本当はどんな人間かを知らなかったとすれば、ロイにしても同じように判断したかもしれない。「あの気のいいフォスター教授を色気によってうまく丸めこもうとしたのではないか」といったように……。

 

「あらやだ。なあにロイ?電気もつけないで……」

 

 ノックののち、母親のアリシアが入ってきて、ベッドにいるロイの元までやって来た。「先輩からお酒と食事を奢ってもらったんだけど……途中で気持ち悪くなって帰ってきたんだ」と、帰宅するなり、ロイは自分の部屋へ閉じこもっていたからである。

 

「具合が悪くなったって、大丈夫なの?ほら、ちゃんとあっためて寝ないと、風邪ひいちゃうわよ。母さん、今湯たんぽ持ってきてあげるわ」

 

「いいよ、湯たんぽなんて……」

 

 普段から過保護な母親が、自分の額に手を置いてきたため――ロイはその手を振り払い、起き上がろうとした。身体的には自分は元気だということを示そうとしたのだが、ロイは次の瞬間「うっ」と吐き気がこみあげて来て、急いでトイレのほうへ向かった。

 

「うげえっ」と喉の奥からこみ上げてきたものを吐くと、それはビールを飲みながら食べていた餡かけ焼きそばだった。リズの話がショックだったせいで、もしかしたらあまり噛んでなかったのかもしれない。それはほとんど原型を留めた状態でトイレの便器を漂っている。

 

「やれやれ。なんてこった……」

 

 ザーッと勢いよく青い水の中に消えゆく焼きそばを、実は息子の背後から母はしっかり見ていた。背中をさすってやろうとしたら、すぐにすっかり吐き終わってしまったのである。

 

「なあに、今の?ねえロイ、あんた一体何食べてきたのよ?まさかとは思うけど、先輩たちから無理にお酒飲まされたり、早食いを強要されたわけじゃないでしょうね?そもそもあんた、お酒弱いんだから……」

 

「違うよ。そんなんじゃないって……」

 

 バスルームでうがいし、タオルで口許を拭うと、今度は小用を足したくなり、ロイは母親のことをそこから追いだした。部屋のほうへ戻ってみると、アリシアが洗濯して畳んだものをクローゼットにしまっているところだった。

 

「ねえ、母さん。前まで時々うちにきてた、フォスターさんのことだけど……」

 

「フォスターさん?もしかして、ボブとジェシカのこと?」

 

 ロイはコーヒーサーバーにコーヒーが残っていたので――それを再び保温であたため直して飲むことにする。

 

「うん、そう。なんで全然来なくなっちゃったのかなあと思って……」

 

「そうねえ。ボブは教授の職を辞してから、ジェシカと別れたのよ。もともと、ボブは家にこもって本を読んだり書きものをするのが好きってタイプで、ジェシカはスポーツが大好きなアクティヴ女子だったでしょ?若い頃は、正反対の性格だったから惹かれあったのかしらねえ……なんて、みんなは話したりしたんだけど、ジェシカの話じゃ性格の不一致が離婚理由だったってことだったわ」

 

 ここで、アリシアは過去を懐かしむように、一度溜息を着いて続けた。

 

「わたし、ジェシカのこと好きだったのよ。さっぱりした性格の人だったしね……ボブとは同じ文学部卒で、小説のことやなんかで話もあったし。離婚したって聞いたあとも『気にしないで、うちに遊びにきて』とは言ったのよ。だけどジェシカ、『わたしたちはもう負け組みたいなもんよ』なんて言うんですもの。悲しかったわ。ようするにね、大学内のレースで勝ち抜いて、教授にまでなったのは良かったけど、今じゃみんなわたしやボブのことを嘲笑ってるに違いないとかって……とにかく、生活水準も変わってしまったし、お情けで仲間に入れてもらっても嬉しくもなんともないって。こんな寂しいことってないわよ」

 

「…………………」

 

 ロイが温まったコーヒーをカップに入れると、アリシアが「わたしにもちょうだい」と言うので、ロイは残ったのをあげた。

 

「それ、オレが飲んだ使いかけのやつだよ。新しいカップ使えば?」

 

「いいのよ。家族ですもの」

 

 そのあと、アリシアは「なんで急にそんなこと聞いたの?」と言うでもなく、今度は会話の矛先を変えた。

 

「父さんはね、ロイが大学で勉強ばっかりしてるんじゃなくて、友達と酒も飲むようなつきあいがちゃんとあるなんて、むしろ安心だ……なんて言ってたけど、本当に大丈夫なの?工学部のテッドが言ってたところによると、ロイ、なんか手抜きしてるんじゃないか、なんて。もっとがんばればAを取れるところを、一体どうしたんだなんて言うんですもの」

 

 テッド・レズニックは、工学部の教授のひとりである。こういう時、昔からの知り合いというのか、両親の友が大学の教員というのは、たまに面倒でもあるのだ。しかも、他の学生からは「特別扱いされてるんじゃないか」、「贔屓されてる」といった誤解まで受けてしまう。

 

「うん……まあちょっとね、色々あるんだ。今学期はボランティア活動もがんばってたっていうのもあるし」

 

「そうね。母さん、何もロイのこと責めてるってわけじゃないのよ。ただ、テッドの言い方がちょっと含みのある嫌味な感じのものだったから、ちょっと気になって……」

 

「ああ、そうだ、母さん」

 

 今度は、ロイのほうが話の矛先を変えた。テッド・レズニックのことはロイは昔から「好きなおじさんのひとり」だった。ただ、彼は昔恋愛関係で色々あったらしく、ロイの母親には冷たい態度を取るのである。

 

「ほら、前から時々話してたボランティア部の部長、彼女のこと、クリスマス・ディナーに招待したんだけど、いい?」

 

「ええっ!?そりゃまあ、いいけど……結局今年も、ロジャーもロドニーもロナルドもクリスマスは帰れないなんて言うんですものね。まったくもう、男の子なんてつまらないったら。ひとり、女の子がいたらねえ。そしたら女同士のことやなんか、色々楽しくしゃべれたのに……」

 

 アリシアはコーヒーを飲み終わると、ブツブツそんなことをつぶやきながら部屋を出ていった。実をいうと、ロイが気にしていたのは次のようなことだった。アリシアが友人だったジェシカから『リズ・パーカーっていう女学生がレイプされそうになったって訴えたらしいんだけど、そんなの絶対嘘よっ。あの人のいいボブがそんなこと出来るわけないっ』みたいに泣き叫ぶのを慰めた……といったようなことがあり、結局はそれが離婚理由であり、フォスター夫妻は残念なことに二度とうちへやって来なくなった――と、母アリシアが信じ込んでいた場合、その当のエリザベス・パーカーを我が家へ招待することなどはもってのほか、ということになるだろうという。

 

(でもたぶん、あの母さんの話と様子から見て、大丈夫じゃないかと思うんだよな……)

 

 この時、例の餡かけ焼きそばを吐いて、何かの憑きものでも取れたかのように――ロイは突然にして気分がスッキリしていた。と、同時に脳内でもその瞬間からポジティヴ・スイッチが押されたらしく、物事の良い側面を見ることが出来るようになっていた。

 

(そうだよな。リズがボブおじさんが教授職をクビになった理由の人物とは限らないんだ。それに、もし仮にそうであったにせよ、彼女には何か深い理由があったとか、とにかくそういうことだったんじゃないか?……)

 

 リズの部屋に招待してもらい、夢のような時を過ごしたのも束の間、翌朝には邪魔者のように追いだされ……童貞男がキモかったのだろうかと悩んだことも、今ではただの杞憂とわかっており――ロイは今日、教育棟Aの第三会議室でリズと目と目が合った瞬間のことを思いだし、鳥肌が立ちそうなほどだった。

 

『べつに、いいんじゃないでしょうか……わたしは、そういう純粋な人のほうが好きです』

 

 その瞬間、ロイとリズの間では、まるで一瞬にして彼ら以外その空間には誰もいないかのような――特殊な共有感覚がお互いの間を貫いたのである。次に会った時、ロイはリズの瞳に『君もあれを感じた?』といったように問いかけ、彼女のほうでは『やっぱりあなたもそうだったのね』と肯定してくれるに違いないと信じていた。

 

 そうなのである。結局のところ、噂は噂にすぎない。ロイはそれよりも、ベッドの中でリズと話したことや、その時の彼女の声の調子や仕種や……あるいは今日目と目が合った瞬間の、生まれて初めて感じるような強い感覚のほうを信じることにした。これはもしかしたら、科学至上主義のロイにとっては、珍しい判断であったといえたかもしれない。

 

 そしてこのあと、ロイは彼の高校時代、ユトレイシア・チャートで第1位に輝き、流行った曲――彼自身は『「恋はジェットコースター」だって?バカじゃないのか、この女』とずっと思っていたある女性アーティストの歌をダウンロードして聴いた。

 

♪恋はまるでジェットコースター

 きのうはHighだったかと思えば

 きょうはLow……

 なんてハイブローで刺激的なの

 ねえ、ダーリン!

 

「はははっ!ほんとにそのとおりだ……オレ、なんでこの曲、高校時代は嫌いだったのかな」

 

 ロイはそんなふうに思って笑った。教育棟Aの第三会議室で起きた奇跡のような一瞬のあと――今度自分は『ハイハイ上海』という中華料理店にて、再び天国から地獄へ墜とされることになったのだ。

 

(でもきっとまた、リズとなら天国へ昇れるに決まってる……)

 

 能天気にそんなことを考えながら、ロイはテッド・レズニック教授に提出するレポートの続きに取り掛かることにした。母が嫌味を言われない程度のものに仕上げなくてはならないと、少しばかり気合を入れながら……。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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