宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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水がながれるように

2010-11-29 20:14:25 | 祈り
水がながれるように

いのちは

本源の光にむかって

ながれてゆく


愛と

美と

平和を呼ぶ声が

どこからか

きこえる


平和の祈り言のなかに

神を呼ぼう

私たちのふるさとへの呼び声を

高くしよう


自愛他愛

という声がきこえる

このひびきをたずねれば

さらに

ゆるしの光に出会うことになる


自分をゆるし

人をゆるし

このひびきのなか

光は

大円光となって

あたりをつつみ

人々をとらえる


ゆるしの光

やわらぎの光よ

あなたが

神の智慧と

愛とから

放射されていることを

私はしっている


そして

すべての人々の上に

このゆるしとやわらぎの光がおよび

それぞれが

愛の柱となって

この世界を平和にしてゆくことを

私はしらされている


神よ

あなたの大愛の何という深いことか

そのいつくしみのまなざしの前に

私は頭を垂れ

ただひたすらに

世界平和の祈り言をささげる


神よ

この地球そして宇宙に完全平和がおろされ

神のみこころが

それぞれの天命を

かがやかせるそのときまで

私は

印を結び

柏手を打ち

空っぽの場所となって

あなたの心を

伝えつづける


人よこの神の愛の前に

さあ世界平和の祈りを

ささげて

いこう

三昧について

2010-11-29 20:04:15 | 祈り
 宗教というものの極意は何かというと、神の愛を

知って、祈り心で生活するということであります。


 どんな時にも、神様が、守護霊守護神が、我々を

愛している、愛してみちびいて下さっているという

事実に気付き、ここに深く心を留める時、私どもは

本当に深い大きな安心のなかに抱かれるので

ありますが、しかし、いわゆる宗教三昧になって、

この社会から、人間からはなれた生活をすることは、

これは間違っているのであります。


 三昧ということを、世の中の人は、わき目も

ふらずに一つのことに没頭する、没頭して、一種

こうこつとした状態になり、まわりのものは何も

みえてこないという風にとっているようであります。

 いわゆるこうした意味での宗教三昧を、私は

厳しくいましめているのです。


 神様とともにあるよろこび、神様を愛するよろこび、

神様から愛されるよろこび、これらは、神をしたう

私どもにあたえられた至福ではありますが、しかし、

これがどんなに至福だからといって、家族を無視し、

仕事を放り出して、世捨て人のように、ただ神様

だけにひたり切るという生活は、特殊も特殊という

べきなのであります。

 それは全くある限られた人にのみ神様があたえる

ことでありまして、人は、人を離れて生きることは

してはならないし、また出来ないのであります。


 この人生と申しますものは、いつもいいますように、

我々の修行場でありまして、人生のさまざまな場面に

出会って、我々は、人間が誤って身につけてしまった

業想念のおそろしさ、人にやさしくし、やさしく

されることの嬉しさ、愛することのすばらしさなどを

学んでゆくのであります。

 そして、このみちびきは、あなた方の守護霊、

守護神の愛によるのでありますが、現実生活のなかで、

泥まみれになりながら、それでも、誠実でありたい、

やさしくありたい、愛したいという心が自然に湧き

上がってくる、まさにその時を、三昧とよんで

さしつかえないのであります。


 三昧とは、法の世界、宇宙の大法である神の愛と

ゆるしのこころにしっかりととらえられた人間の本体、

いいかえますなら、真実の人間のよろこびを指している

のであります。

 神の愛と人の愛とがピッタリと一致した時、その時、

人に三昧境にあるということができるのであります。

 ここには、ちっぽけな肉体人間の小知才覚など、

入り込むすきはありません。我というものが消えて、

一切無、一切空となり、光ばかりという世界なので

あります。

 滝に打たれ、参禅をなし、食を断って、いのちがけの

修行の末に、人は、この法悦境を

えたものでした。

 けれども、現代の現実生活のなかで、これを求める

ことが(いのちをすててかかることが)どれ程

むずかしく、実現不可能なことかを、我々はよく

知っておりますし、そうしたことを祈り求めた末に、

私に与えられたものが、世界平和の祈りだった

のであります。


 世界人類が平和でありますようにという祈りは、

救世の大光明霊団の光を受けて、修行者が容易にのぼる

ことの出来なかった光一元の世界へと、私どもを

みちびいてくれるのであります。

 なお申しますならば、法の世界、三昧の世界と

いうものは、ゆらぐことなく、確かにそこにある不動の

ものでありまして、私どもが、誠実に、素直に、神を

求めて、祈り心で毎日を生きて参ります時、

この三昧の光、神人一体となった無礙の光は、私どもを

とらえ、覆い尽くすのであります。

 世界平和の祈りを行じつつ、毎日を神への感謝に

生きて参りましょう。