宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

行為の光明化(9)

2023-08-31 07:58:36 | 祈り
        (前日からの続き)
宇宙子科学のメンバーが、今必死になって計算
したり何だかんだやっている。
それというのは、地球の波動というのは今
実は一番遅れている。
それは何で遅れているかというと、宇宙人類
というものは、本当は心波でもって心の波
でもって、自分が調和した心の状態にある調和
こそがこの世界の最大目標なんだということを
知っている訳です。
それに反して地球の人類というものは、肉体を
本来の自分だと見誤(あや)まって、
我(が)の世界できておりますから、この我を
脱ぐために随分苦労をしている。
先ほど申しましたような、親鸞にしても法然
にしても釈迦にしてもですね、あるいは
イエスキリストにしたって、その我を脱がせる
ための先覚者であった訳ですけれども、それは
それで大変に光明を発揮した訳ですけれども、
今はとに角、これほど国が分かれて、そして
これほどいろいろな紛争の種があって、人間が
短気になってる時に、どんなふうにしたら
本来心の芽を導き出して、そして、それに
肥料を注いで芽吹かせるかということになれば、
これはもう世界人類が平和でありますように
という言葉を根にする以外にはないのであります。
                       (つづく)

行為の光明化(8)

2023-08-30 07:00:44 | 祈り
       (前日からの続き)
そこでいろいろな芸術や文学や美術などの方面で、
そういうものを、慰めを、あるいは何とか人間が
この突破口を作って、そしてそこから抜け出して
自由な生命になるにはどうしたらいいかという
ことを、宗教だけじゃなくて、いろんな方面の人が
今手さぐりをしている。
もちろん宗教者もそれをやる。

だから、この間のような宗教のサミット
なんかが開かれたりして、そして、あれは
いろんな人が集まって来た訳でありますが、
その共通の根本の願いというか祈りというか、
我々を結び合わせているものというものは、
やはり、世界人類というこの一つの大きな深い
命題でありまして、我々がこの地球に生きている
ということ、そしてこの地球に生きている以上、
この人類が平和でなければならないという非常に
素朴なところから始まるこの言葉、それへの祈念
というものが、あのサミットを成功させたので
あります。

そして、我々が唱導しているこの世界人類が
平和でありますようにという祈りは、ただ、単に
この地球に生きている人間が平和であるように
というだけの祈りではなくて、この我々人間が
平和な気持ちになれば、調和する気持ちになれば、
自然に我々が生きてるまわりのこの自然をも
大切にするし大事にして、あらゆるものの生命を
尊んでゆくし、それは我々の中の霊性という
ものを目指して、そして、奥の自由な体という
ものはもう自在になってゆけば、地球だけに
この生命が生きてる訳ではない、宇宙の調和
そのものの一環が地球に生きてる我々人間の
体の中に埋め込まれているんだということに
気がついてゆけばですね、これは、宇宙全体に
本当は鳴りひびく祈りであるんだ、世界人類が
平和でありますようにというこの一句(く)の
中には、宇宙全体が求めている祈り、調和
そのものを求めていく祈りというものが実は
込められている。
          (つづく)

行為の光明化(7)

2023-08-29 07:09:01 | 祈り
        (前日からの続き)
ところが今は、いろいろなものが情報が多すぎて、
見るにしても聞くにしてもあるいは行動する
にしても、飛行機であれば世界中どこへだって
行けますし、ニュースなんていうのは一日の内に
地球の裏側からでも入ってきますし、だんだん
だんだん世界が狭くなってきて、そして、
だんだんだんだん自分のまわりの関わりがそれと
反比例して薄くなってゆく。
親子であっても何か親が信じられない、子どもが
信じられない。
そういう世界になっていった時に、自分
というものを本当に今この瞬間に見つめられてる
人がどれくらいあるかというと、これが非常に
頼りないことになってきている。
だから、自分というものが見つめられずに
自信が持てずに頼りなくなった時に、じゃあ
どうするかということが、今この世界中の
生きてる人間たちの共通の悩みになってきている
訳であります。
           (つづく)

行為の光明化(6)

2023-08-28 07:49:02 | 祈り
     (前日からの続き)
一人一人が神の宮なんであるという
あのイエスの言葉というのは、本当に
ここのところにおいて真実な訳です。
あるいは釈迦が汝ら精進せよと言ったように、
自分が死んだ後もずっと努力していきなさいと、
祈りの生活を続けていきなさいと言ったのは、
この調和の世界が自分の中にあるんだという
ことを絶えず確認する努力をしていかなければ、
肉体身というものは弱いから、自分の中にそんな
調和の世界があるなんてことはなかなか分から
ない。
あるいはまたもっと話を別の方にすると、
法然にしろ親鸞にしろ日蓮にしても、南無阿弥
陀仏、南無妙法蓮華経というあの六語なり七語
なりの中に生命をこめた言葉があるという発見を
したのは、あれは非常に素晴らしいことで
ありまして、あの中に本当にさながらの光明が
生き生きと生きづいている訳でありますけれども、
しかし、南無阿弥陀仏と言ってしまってサッと
悟れるかというと、なかなか肉体人間そういう訳
にいかない。
ただ南無阿弥陀仏にしても何にしても、
その中に光があって、光のエレベーターに乗って、
それがサーッと高い所まで自分を連れていって
くれるんだ、自分の心の奥底にある調和の世界に
自分がそのまま合体して合致して生きていけるんだ、
生き通しの生命なんだというところまでの自覚を、
あの南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろ、
あの真理そのままの言葉の中に人間は合体した時に
光になってゆけるという、この大きな真理を
発見したというのは、これは大変なことなんで
あります。
それはちゃんと、日蓮なり親鸞なり法然なりの
後ろに大きな大きな深い働きをする守護霊さんが
いて、そういういわゆる末世といわれた時代に、
本当に人間が救われなければならない、その魂の
要求にみ合った道は何であるかということを、
あの人たちに示した訳であります。
             (つづく)

行為の光明化(5)

2023-08-27 10:42:58 | 祈り
             (前日からの続き)
とにかく、私どもが光であるということを肝に
銘じておりますと、不思議なこととか、とんでも
ないこととか、思いがけないこととか、そういう
ものが起こってまいりましても揺らぐという
ことが少ないんです。
何故なら、いつも申しておりますように、
本体というものは揺がないんである。
本心というものは揺らぐということは
まず有りえない。
揺らぐものは気持ちがゆらぐ。
感情が揺らぐんであります。
ちょうど波が風を受けて騒いだりあるいは
嵐が来て波が波打ったりするけれども、
海の底はちっとも平和そのもので全く(何も)
波立ちも何もしない。
調和そのものの世界である。
魚だとか海藻だとか、そういうものの生命を
そのまま受けて安らがせている様に、何ら
調和の世界に変化はない。
そういう調和の世界というものを、生命
さながらの世界というものを、実は人間は
一人一人の中に持っている。
          (つづく)