宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(3)

2014-09-30 06:33:10 | 祈り
       (前日からの続き)
 「白光への道」にも書いてありますように、
これだけ世間が複雑になって、みんなの思いも
複雑になり苦しみが多くなって来ると、例えば、
諸神善霊も如来諸菩薩もみんな生き生きと動いて
働いているということを説いてゆかないと、
みんなが安心できない。ただ我々の多くの場合、
そういう霊的なことに左右されて日常生活が
営めなくなるということになると、現実のことが
やっていけなくなるわけですね。現実の皆が今
生きている、この肉体を大事にし生活も大事に
しながら、対人関係も大事にしながら、深い
深い祈りの方へもっていくことが非常に大事
なんです。そこの兼(か)ね合いですね。

 指導者というのは、自分の中に見える素質
というものを持たされている人達は、時に応じて
機会をとらえて、自分が今何を言わなければ
いけないのか、目の前にいる人達が何を求めて
いるのかを察して、ああそうか、我々は神様に
つながっているんだなあと、悲しみも苦しみも
あるけれども、全部消えてゆく姿なんだと、
神様の大愛によって、我々は養われているんだ
というところへ導いていかないといけない。
 それは自分ではなくて、神様が導いて下さる。
 そういう目に見えない世界の守りの中にあって
我々の生命が生きている。そこのところを
間違えてね、私が言ってるのにあの人は
言うことをきかないとか、祈りが足りないとか、
どうだこうだということになってくると、もう
我の争いになるわけね。そこにはもうその人の
生き生きと輝いている生命のことがなくなって
しまうわけね。
           (翌日へ続く)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(2)

2014-09-29 08:18:40 | 祈り
      (前日からの続き)
 我々がこの地上で、例えば、電車の中で、
世界人類がーっていう風に心の中で唱える
とすると、それは目に見えない世界、天界の
方にもそのスイッチが入って、みなさんに
関係する縁のある霊人達も一緒になって
祈る。そして、救われたいと思う人達も
一緒になってその光を浴びる。そういう
皆さんの一言、世界人類がーって思った
時に、目には見えないけれども、光の
いろんな交差があり連動がある。生きて
いる人も死んでいる人も、この世界平和の
祈りの救世の大光明霊団に関係する諸神
善霊がこれに参加をしている。そして
その時には、目には見えないけれど、一大
セレモニーがそこで始まるわけですよ。

 そういうことは非常に霊的な事ですから、
やたらそういう事をいうとね、私は見えない
とか、あなたは見えたかとか、見えるか
どうか聞こえるかどうか、感じるか感じない
かの話になって、あなた見えなくてお気の毒
でしたねと、そういうところで相手を低く
見てしまう思いが、まだ人間の中にはある。
 本来は神の子だけれど、この地上で
我(が)とたたかいながら生きていますと、
我の方に引っ張られていく。そういうことが
あるでしょ。そうすると、その現象面だけに
把われてしまって、本来我々が実践して
いかなければならない祈りがもう祈れない。
 祈って祈って祈り抜いて、自分自身の
生命を朗らかにしてゆくその祈りがね、
祈れない。

 しかし、祈れない時でも、守護霊さんと
思う、守護神さんと思う、これも思えない
時は、もうどうにもしてくれ!と思い
ながらでも神様を呼ぶ。そういうところへ
皆が成っていかなきゃいけない。そういう
祈りに高められていかなきゃいけない。
 高められる一つの一段階を我々は踏まな
ければいけないのです。ところが、人間
というのは弱いものですから、祈りを
忘れて現象面のことだけになって、何が
大事なのかということを忘れてしまうと
いけない。ですから、現世利益的なことを
在世中にはあまり言って来なかった
のですが。
          (翌日に続く)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(1)

2014-09-28 03:02:49 | 祈り
 苦しい事とか、人が病気になったり、自分が
病気になるとか、そういう事が出て来ると、
なかなかすっきりいかないですね。生きにくい
ですね。そこで消さなきゃならない、その人
個人の業もある。それから、先祖が送ってくる
いろんなサインもある。守護霊や守護神が
必死になって守ってますけれども、その光だけ
ではさえぎられない我(が)があり業があり、
色んなことがあるわけです。それが今、地球
全体に溜まってしまって、このままでは
地球が爆発してしまうというので、あのような
四次元の光を降ろしてやっていかないと
いけない。何十億という人類の心の奥の奥では、
みんなが世界の平和を大調和を望んでいる。
 その愛の心を祈りに高め光にかえて、四次元
五次元六次元、やがて七次元八次元、高次元の
光の世界へと地球を直結させてゆく。
 そうしないと地球そのものが滅びてしまう。
 そういう所まで来ているわけですね。

 世界人類が平和でありますようにという
この祈りの中には、一つの不調和もないけれど、
この祈りをしても、日常では色んなことが
あるから、自分達は本来霊なんだ光なんだ
ということをいつも思えるような状態には
ないわけです。

 だからそこを何とか突破していかなきゃ
ならないということになると、何が必要に
なるかというと、やはりこれが祈りである
わけですね。祈りを通して神様の方に心を
向ける。神様の事を思う。神様に対して叫ぶ、
嘆く。最初はそこからでいいんです。そこ
からでいいからやっていく。そこからでいい
からやっていくと、だんだん神様の方へ心を
向けてゆくと、すーっと気持ちが神様に
つながっていく。ああ神様と私はつながって
いるんだなあーと。神様といっぺんに
思えない人は、守護霊様守護神様という風に
思えばいいわけね。ですから、世界平和の
祈りには、守護霊様守護神様ありがとう
ございますと、分けて表わしているんです。
 あなたの先祖の悟った霊があなたを守って
いますよと。あなたのおじいさん、おばあさん、
もっと前の悟った霊があなたを守っていて、
それが、神様とか仏様の光一元の世界へと、
あなたの生命をつなげていますよと。特に
日本の人達はそれが親しみやすいわけですよ。
 ただ神様があなたを守っていますよと言う
だけでは、これはもうとっても辛いわけ
ですね。

 最初は、その思いでも叫びであっても
いいけれど、だんだんと祈りにつながって
いかないといけない。祈りになって
いかないといけない。昔は南無阿弥陀仏や
南無妙法蓮華経とか、キリストは主の祈りを
言ったでしょう。しかし今は、みんなが
心を一つにして祈れるものでなくてはね。
 民族も国も複雑な時代にですよ、一つの
祈りにならないと、地球全体がどうにも
ならなくなってしまう。というところで
生まれて来たのが、神様から託された
祈りが、世界人類が平和でありますように
という祈りなんです。そして今は、個人
から世界中にこの祈りが広がって、言葉だけ
ではなく、心の奥にこの祈りが響いていって
いる。

 お互いを思いやること、自分を愛する
ように、相手を思いやり相手を愛すること。
 言葉だけじゃなくて、人類みんな兄弟
なんだ、神様からつながって来ているみんな
兄弟姉妹なんだという思いをいだく。誰が
どの宗教につながっているなんていうような
ややこしい事ではなく、皆が一緒でも離れた
ところでも、光り輝いた思いのスイッチを
入れることが出来るのが、この世界平和の
祈りなんです。
        (翌日に続く)

臨死体験をしたことについては…

2014-09-27 06:56:31 | 祈り
 (質問)あのリポートは本当かうそかという
議論もありますが。

 (答)本当もうそもなくて、あれは本当
ですけどね。要するに、臨死体験をして帰って
来た人は、死が恐くなくなる。死が恐く
なくなるというのは、人間の生命が永遠の
ものだということに覚醒するんですね。


 (質問)やはり波動が変わって来ている
という証拠でしょうか。

 (答)そうです。あれは昔からあるんですが、
今情報化時代になって、多くの人たちの体験を
知るようになり、みんなが今、そのことを考え
始めて来た。そういう時期に来ている。考え
なければいけない時期に来ている。ただあれが
全部ではないし、基盤でもない。そういう
時代に入りましたよという、守護霊、守護神、
霊人達からのメッセージと思えばいいんです。
        平成3年8月30日

最近 臨死体験がクローズアップされたりしていますが…

2014-09-26 05:56:22 | 祈り
 (質問)最近、NHKがスペシャルで特集
したり文芸春秋などでも臨死体験がクローズ
アップされたりしていますが…。


 (答)死ぬ時には、向こうへ往く人も帰る
人もあるけれど、臨死体験で語られるように、
そういう風に感じたり見えたりするのですが、
それは、その人の心境や、今生あるいは前の
世でどういう生き方をして来たかということ
によって、見え方も違うし、迎えに来る人も
ちがう。

 今、臨死体験が多く出てきているか
というと、どうもこの世だけではないらしい、
物質だけではないらしいと、死んで終わり
だけの生命ではないらしいということに皆が
少しずつ気が付いてきているからそうなる。
 そういう現われの一つと思えばいいんですね。
 それにとらわれる必要はないんです。みんな
違うのですからね。

 村田さんが書いているように、白光の同志の
人達が往く時には、天上の音楽が鳴り、霊人が
迎えにきたりと色々あるでしょう。みんな
それぞれの宗教縁によって、その迎えられ方も
みんな違う、違って当然でしょう。
 但し、違うけれども、それは、その人の魂が
死というものを恐れないで、肉体の死という
ものを受け容れて、ずーっと階段をのぼって
自由無碍になってゆくという、最終目標は
みんな変わらないんですよ。その人が納得する
かたちで、この肉体死というものをのりこえて
向こうへ往かないといけないから、みんな
それぞれ違うだけの話です。