(前日からの続き)
我々は、いろんな役割を与えられている。
けれども、それは役割であって、その人の
本質ではないのであります。
人間の本質は、あくまで、愛とゆるしと
やさしさなのであります。
愛とゆるしとやさしさという神の光を受けて、
我々はこの世に生まれて来たいのち
なのでありますから・・・
俺が偉い、お前は駄目だ、こんなことをしたら
俺はどうなる、あの人はどうなる。
少なくとも、祈りを知る者は、そういう
我の世界に自分を閉じ込めてはなりません。
神様というのは明るいいのちなのであります。
我々は、そのいのちを、今、一人一人うけて
生かされている神様の子どもなのであります。
神へのおそれとつつしみと、愛と祈りを知る時、
このいのちが、肉体の死を超えて、神の心である
大愛へとつらなっているものであることを、理解
することができるのであります。
我々は、祈り祈り、又、祈り祈り、祈りつくして、
光明神となるまで、愛を自他に満たしてゆく為の
さきがけなのであります。
昭和62年5月14日 午後
五井 昌久
我々は、いろんな役割を与えられている。
けれども、それは役割であって、その人の
本質ではないのであります。
人間の本質は、あくまで、愛とゆるしと
やさしさなのであります。
愛とゆるしとやさしさという神の光を受けて、
我々はこの世に生まれて来たいのち
なのでありますから・・・
俺が偉い、お前は駄目だ、こんなことをしたら
俺はどうなる、あの人はどうなる。
少なくとも、祈りを知る者は、そういう
我の世界に自分を閉じ込めてはなりません。
神様というのは明るいいのちなのであります。
我々は、そのいのちを、今、一人一人うけて
生かされている神様の子どもなのであります。
神へのおそれとつつしみと、愛と祈りを知る時、
このいのちが、肉体の死を超えて、神の心である
大愛へとつらなっているものであることを、理解
することができるのであります。
我々は、祈り祈り、又、祈り祈り、祈りつくして、
光明神となるまで、愛を自他に満たしてゆく為の
さきがけなのであります。
昭和62年5月14日 午後
五井 昌久