宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

子供はもうたくさんだと想った魂が生まれ変わった時に、子供は授からないのか

2014-10-31 06:05:34 | 祈り
 子供が欲しくない、もう子供はこりごりだと
前生で想ってしまって、そこで生命を終えると、
この世の中に出てきた時に子供が出来なく
なると。そういう話を村田さんなんかが言ったり
しているけれども、それは本当にそうなのかと。
 もしそうならば、この世の中で子供が欲しいと
想っている人なんかが、そういう前世との
関わりなんかで、宿命なんかで、出来ないと
いうようなことになってしまうのかという質問が
あったと思いますが。

 まあそこに入る前に、本当に今、子供で苦労
してるお母さんが多いですね。子供の気持ちが
分からなくなっちゃったとかね。それから、
これだけ手塩にかけて子供を育てて来たのに
裏切られちゃったとか。何十年育てて来たのに、
どうも何か価値観が異なっちゃって親子
でありながら何か意見が合わずに、気持ちが
合わずに悲しい切ない想いをしてるとかですね。
 そういうことが随分私の耳に今も聞こえて
来ますね。昔から何かそれはあるようで。
 そういう苦労というのはおそらく人間が
この世の中に生きていく限り、絶えないん
だろうなあと。そういう苦労を何かの形で
させられるんだろうなあという気も致しますが。

 そこで、前生にそう想わせられてこの世に
出てきた時に、その為に子供を持てなくなる
という人があるかというと、無いことはない、
あるんです。それはどういう人があるか
というと、例えば、子供に本当にひどい目に
あって、もう裏切られて裏切られて切ない
想いをして、もう子供なんてものはたくさんだ、
もう懲り懲りだ、とんでもないという想いが
出た時、守護霊さんや守護神さん、神様に、
神様もう子供は懲り懲りですと申し上げた時に、
向こうの世界では、やっぱり厳正な審査が
ある訳です。ただその想いをそのまま受けとって、
ああそうかと子供が出来なくする訳じゃ
ないんです。その想いが、その人の我、欲に
なってないかどうか。子供が出来なくなったら
いいというのは、これも欲の一つなんで、
その欲になってないかどうかね。いわゆる自分の
気持ち感情そのままで訴えてないかどうか。

 そういうことじゃなくて、本当に人間として
辛くなって、これ以上肉体人間として、
子供と関わるということがとても辛いと、
生きてられない程辛いと。ただし、その時には
その人は、こういうことを想わなきゃいけない
訳ですね。想わせられる訳です。つまり、
子供を与えられることによって苦しみも
来るけれども、同時に、子供を与えられる
ことによって、喜びも慰めも励ましもね、
色々なものが来る訳ですよ。
 親が子を持つということはね。そういう望み、
希望も一切、将来にわたって私は放棄しますと、
要りませんと。子供の苦労は懲り懲りだけれども、
それ以外の苦労ならば私は喜んで致しますと。
 そういう真実の気持ちからの訴えであるならば、
向こうの方で色々調べましてね。そして、これは
本当の心から出てる、これ程苦しんだのならば、
じゃあ次の世の中は、子供こそ与えないけれども、
違うところで人間を見つめ直させようと。
 あるいは、人間の生命(いのち)について
勉強させ直しをしようということになって
出て来る訳なんですね。だから、例えば、我が儘
でもってこの人の子供を欲しくないなんて想って
産まないとか、そういう次元で強く想って次の
世の中にという、そういうのじゃないんです。
 本当に辛い想いをして、そこで、お願いします、
ただし違うことで役立てて下さいと言って、次の
世の中は違うことをやっていく。そういう人が
やはり何人かはいる訳ですね。

 だけれども、そういう人達はどういう今度
生き方をするかというと、それは様々
ですけれども。例えば、夫婦の間で、
他の子供たちは可愛いのに、自分の御主人との
間の子供はどうしても産みたくないとか。
 そういう風な想いになって出てくる。そして、
産みたくないという気持ちと同時に、あるいは
親になりたくない母親になりたくない、父親に
なりたくないという気持ちと同時に、子供が無い
ことへの寂しさなり悲しみ、孤独、あるいは
葛藤ですね。そういうものを味わう。そういう
ことによって、子供の生命というもの、人間の
生命というものが何処から来るかとか、それが
無いことがどれ程大変なことかとか、そういう
ことをずっと考えさせられていく訳ですよね。
 そういう形で、神様、守護霊さん守護神さん
というのは、やっぱり学ばせていくんですね。
 そうかそうかで、そっちの方の苦労をさせ
ないよと放りっぱなしにしない訳ね。決して
放りっぱなしにしませんね。

 そして、もう一つ言っとかなきゃ
いけないのは、我々は前生もあるし前々生も
あるし、色々なもう前々々生もあるん
だけれども、霊界からこの世の中に親子に
なって降りて来る時に、この人が親ですよ、
あなたはこの両親の間に生まれて来るんですよ
という時に、我々は素直に向こうから来る時は、
はいと言って、そうだと想って降りて来る訳ね。
 で、それと同時に記憶が消えるんですね。
 つまり、そういう記憶があっちゃあ、この
世の中で光明体として神の器として生きていく、
本当の意味で修行していく為に、そういう
記憶は邪魔になってくる訳ですよ。色んな
ものがあったら困る。だから、ごく少数の人を
のぞいてはね、前生に自分は何してたとか、
男であったとか女であったとか、色んな記憶を
消しちゃう。そうして、もちろん霊界からの
記憶も消しちゃう。

 だから、我々というのは、何かこうやって
ここに移住してる時には、この今の家族と
両親と兄弟とか、妻とか子供とか夫とか、
そういう関わりの中で、会社にいったり、何か
商売したりとか、そういう今の関わりを絶対の
ものだと思って毎日を過ごしてゆくけれども、
しかし、本当はそうじゃない。ずっとその
積み重なりがあって、前の世の中で公務員
だった、前の世の中では武士だった。ずっと
ある訳ですよ。だけどそれを消しとかなかったら、
邪魔でしょうがないから消すけれど。本当の
こと言えば、この世の中だけの生命じゃないから、
例えば、この世の中で子供が授からないとしても、
それは前生がそうだったからというんじゃ
なくって、そういう風に誓いをたてた人が、
子供は授からないけれど、その代わりに
考えさせられる。で、その人は未来永劫子供が
出来ないかというと、そうではない。

 生命というのは、ずっと私が申しております
ように、ずっと続いてまいりますから、その次の
世の中で、やっぱり子供というものは
いいもんだなというか、必要なもんだなと、
人類にとってはね。子供が出来なきゃ光が
絶えてゆく訳ですよ。我々は神の光の生命
なんだからね。光の一筋なんだから。その種が
絶えるということは光の種が絶えるということ
であって、光の種蒔が出来ないということ
なんですね。だから、人類が絶えるということは
あり得ないし、核戦争だとか色々不安は
あるけれども、皆が平和な方向へ平和な
方向へと、今イランやイラクでもそういう風な
方向へ行くでしょう。というのは、やっぱり
この人類の種を根絶やしにしちゃあいけない。
 その根絶やしにしちゃあいけないという
想いの奥には、我々は神様の分生命(わけ
いのち)の分霊(わけみたま)の神から流れて
来た生命なんだから、その大元の神様のみ心の、
大愛一杯のその気持ちを根絶やしにするなんて
ことはありえないし、又出来ないんです。

 だから、その人類的な本能がね、結局それを
くい止めるというところへ働く訳ですよね。
 だから、子供というものに対して、ただ単に
自分の子供がどうのこうのじゃなくて、人間
にとって人類にとって子供というものは
要るんだなという学習を、その人はその人の
持ち場で、素直にあるいは苦しみながら
経験する。次の世の中で要らないと想って
生まれ変わって、子供について生命について
学習し終わった時に、じゃああらためて、
あなたの子供としてこういう子供が
産まれますよというのは、又次の世の中で
出て来る訳なんです。だから、未来永劫ね、
そういう誓いをたてた人に子供は授からない
かというと、そういう訳じゃない。やはり
生命は、その人の子孫は出てくる訳なんですよ。

 と同時にですね、この人間が生きていく
ということの中には、様々な苦しみが
伴なってく訳ですよ。例えば、仕事にしろ
家庭生活にしろ、結婚生活にしろすべての
ことについて、悩み苦しみがある訳
なんですよね。つまり、私が先っき申しました
ように、何故人類を根絶やしに出来ないか
といったら、神様の光の生命だから。それは
事実根絶やしになりようがないし、又それは
しちゃあいけないんです。でも、それは大目的
だけれども、例えば、私達が神様のことを
語る時に、神様というのは愛ですよという
時にですね、何も苦労もしない人が、何の
挫折も悩みも味わって来ない人が、神様は愛
ですよと言ったって、説得力がありますか。
 説得力ありませんよ。何にもありませんよ。
 例えば、ここに十人、人がいると
しましょうかね。十人いるとして、仕事が
なくなって明日からどうやって食べて行こうか、
明日のお米を買うお金も無いというところまで、
追いつめられた人がいるとしますよ。
 で、それを迎える神様のことを語る人が、
順境で育って来てね、物質も愛情も一杯受けて
育って来たその人が、そんなこと言ったって、
神様は愛ですと言ったって、説得力が無いこと
おびただしいじゃありませんか。

 だから、神様の愛というのは、人間の我々
一人一人の、人類一人一人の個性、性格、
良い所とか悪い所とかね、どういう所で
苦しんで、どういう生き方を送って、今何が
この人の悲しみなのかというのは、皆知ってる
訳なんです。知っていて、それで抱きしめてね、
今あなたがこれを欲しがってるのはよく
分かっている、だけど今はあげられない
けれどもといって、泣きながら光を
送っている。それが神様の愛なんですね。
 だから、そういう神様の愛というのは生半の
もんじゃなくてね。その生半でない神様の愛を
伝える、少なくとも言葉にして伝える時には、
何かその人の人生の中でね、離婚なり別れ、
お金が無いことだとか、子供を失なったとかね、
死別の悲しみとか、色々なこの世の中の苦
というものをいくつかですよ、無いにこした
ことはないけれどもね、個人的に言えば、
だけど神様の愛を語る時には、やはり何か
一つか二つかこの人生の山を越えて谷を越えて、
そうして、自分も塗炭の苦しみを味わってね、
もうこんな神様なんかあるかしらという所から
這い上がってきて、それで尚かつ唇から
出てきた言葉が、それが神様という言葉
だったと。ね、やっぱり神様、私はあなたが
忘れられませんと。そういう経験をした人が
神様を語る時にはね、やはり説得力が
あるんです。ただ単に、ここにこう書いて
あります。白光のテキストにこう書いて
ありますから。それじゃあどうにも
なりません。テキストというのはやっぱり
テキストなんです。

 私は色々神様のことをやさしく説く
というのは、そのやさしくというのはね、話を
難かしくすることは幾らでも出来るんです。
 だけど、子供からね、70 80 90になる
おじいちゃんおばあちゃんまで、皆悲しみも
苦しみも喜びも持ってますよ。そういう心に
持ってる人たちに神様の話をする時に、神様の
愛について語る時に、こちらのそういう心の
糧になるようなね、苦しみなどの財産の
一つや二つは、やっぱりなきゃうそなんですよ。

 だからね、この世の中から、平和の祈りを
していれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、
業は消えてゆく筈なのに、業というものは
消えていかない。何故なんだろう。業という
のは人間がつくるんです。業というのは神様が
つくるんじゃない。業というのは、この肉体を
かぶって生きざるを得ない、この地球世界で
生きざるを得ない肉体人間のね、痛みや辛さや
色々な想いですよね、そういうものから離れたい
と思って、把われないでおこうと思いながら、
つい深みにはまっちゃって、苦しいから助けて
という想いで神様を呼んだりする。それが
呼べば呼ぶ程、何か絡まっちゃって、どうにも
ならなくなっている。
 こっちから観ていると、みんな離れよう
離れようと思いながら神様を呼ぶんだけれども、
その苦の中に座り込んで、へたり込んでね、
はまり込んで、何か自分からその苦の中へ
入ってゆくような、離れたいと思いながら実は
しがみついてるような姿が、こっちから観ると
みえるんですよ。

 そうではないんです。苦というのはやっぱり
離れていかなきゃいけないです。苦は
引き寄せちゃあいけないですよ。業も
引き寄せちゃあいけないんですよ。非常に
難かしいけれどもね。例えば、杖の話を
しましょうか。杖というのは、足を悪くした
人なんか良く分かると思いますけど。坂道や
自動車なんか来る時あぶないですよね。その
あぶないという時に皆杖にすがっちゃうんですよ。
 すがると全体重をかけちゃって、それで余計に
転んで怪我してあぶなくなっちゃう。左足が
悪かったのに、余計に右足も悪くしたなんて話を
聞きますけど。これは何かというと、あぶない
と思ったら、その苦しみの渦からすっと
逃げちゃえばいいんです。柔道じゃないけど、
あっとその杖をはなして、その苦しみを離れて、
後ろ向きにひっくり返って、ちょっと離れりゃあ
いいんです。離れたら苦というのは、すっと
抜いて、そこへさっと光がさすんですよ。
こっちも光をむこうへ差し出しやすいんです。
 ところがその時に、あっと想って、その杖に
しがみついちゃうでしょ。だから、苦をふっと
引き寄せるのと一緒でね。

 離れたい離れたいと思いながら、皆さん
観ていると、人間というのは離れたいという
想いは強いのに、体の方は心の方は苦の方に
引き寄せられてしまっていて、業の中へ
波の中へ自分を引き寄せていってしまってる。
 それが観える。だから、離れたいと
思いながら離れられないというのは、これは
人間の習性ですから。私は責めてるんじゃ
ないんです。そういう想いがあるというのは
分かる。それが習慣になってるというのは
分かる。その習慣というのは、ずっと続けて
ゆけばそれは業を引き寄せるんです。それは、
一回は想って、二回目はパッと切り換えてね。
 そして、それを光の想いに変えていく。
 それには何をすればいいかというと、それは
祈らなきゃ駄目です。祈って祈ってね、
この辛いなら辛い、苦しいなら苦しいで
かまいませんから、五井先生何とかして下さい、
何とかしろでもかまいません。だからその時に、
五井先生すいません、離れたいと思いますので
よろしくお願いしますと。すっと何か、
ある空間をね、真空の想いをパッとそこへ
つくってくれたら、こっちだってさっと光を
差し入れられるんです。

 で結局ね、色んな所へ話がいってる
ようですが、つまり、そういう苦という
ものが、やっぱり神様を語る時にはなきゃあ、
そして、神様の愛を色々な人にしみ渡らせる
為には、とってもじゃないけど、やはり
説得力がなくなるという話でしたね。しかし、
それだけの為に苦を味わうのかといったら、
そうじゃない。その人の魂が光り輝いていく為、
その人の本心が輝いていく為にもちろんそれは
あるんですけれどもね。

 だから、子供が出来る出来ないという問題
にしたって、もう子供は要らないから次には
絶対中絶しても子供をつくらないようにすると。
 例えばずっと念じたとしますよ。念じた
としたら、先っきの、この人の子供を産みたく
ないという話じゃないけれども、やっぱりその
念というものが次の世界の中に現われてきて、
それは業ですけどね。そうして、くり返しに
なるけれども、そこで人間の生命のことを
考える、色々なことを考えさせられる訳
なんです。先っき私は念と申しましたけど、
前生で想い込んだ念が通って、仮りに現れて
きたとする。ところが、守護霊さんとか守護神
さんとかは、とても公平なのでね。何が公平
かというと、そういう念すらもね、やはり
利用するんです。何に利用するかというと、
何によって人間が生きてるのか生かされて
いるのか。我々の生命が何処から来たのか。
 我々は何処へ連れていかれるのか。ね、どう
したって、神様というのは悪くしっこないん
です。ね、最後には明るい所へ絶対連れていく
訳なのね。

 ところが、色々なことがあって、今苦しい
所にいるとか、悲しい所にいるとか、色々な
ことがあるんですがね。その時に、自分の
想いの切り換えをする。皆が離れたいと思い
ながら、その苦の中に業の中に枠をつくって、
その中へ入り込むんじゃなくって、あ、これは
消えてゆく姿なんだなということを想って、
ありがとうございますと言えなくても
かまいません。五井先生と呼んで下すったら
いいんです。そこで、世界人類が平和で
ありますようにと出来なくてもかまわない。
 出来る人はしてもいいけどね。そういう風に
して呼んで下さればいいんです。

 ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の
誤まてる想念がとありましょ。あの消えてゆく
姿というのも、我々の方から言いますとね、
深いところを一つ言うとね、この現われの今
あなた方が生きてる世界の中で、色んな
現実的な悩みや苦をとる、軽くしていく消して
いく、消えてゆく姿もあるけれども、その
現われが前生の念で現象界に出てきたと
するならば、その過去世にさかのぼって、
その念も消していくというのがあるんですよ。
 だから、人間の生命の本体のね、本心の
洗い浄めといいますかね、掃除といいましょう
かね。ずっとさかのぼって、何十世代何百世代
にもわたる、何十代何百代にもわたる
生き通しの生命の掃除をする訳です。それぞれ
のですよ。それが神様の愛なんですよ。
 もちろん、今の生活が安楽である方がいいし、
平和である方がいいし、皆と仲良く出来る方が
いいに決まってます。ね、だけども、神様の愛
というのは、その毎日の積み重ねも大事に思って
下さるけれども、それを通して、遠い将来ね、
我々が死んで又生き返って、その時には
今のような記憶はないかも分からないけれども、
その遠い遠いところにまで、遙か彼方にまで
つながっていく連らなっていく永遠の生命
というものに対する、永世というものに対する
祝福と喜びと、魂の浄めと、そういうものを
神様が下さるんですよね。そういう神様の愛
なんです。

 だから、子供が出来る出来ないというのはね、
前生で想い込んだから、子供は絶対に出て
こないかというと、そうじゃない。ある
選ばれた特定の人だけがね、真実私は子供
の苦労はけっこうです、もうこれ以上すると
肉体がバラバラになりそうです。だけども、
他のことならばどんなことでも致しますと。
 肉体がそう叫ばなくったって、霊体の方で
そう悟っちゃって、神様の方に訴えて
駆け込んで、駆け込み寺みたいに駆け込んで、
守護霊さんと守護神さんが神界でお願いした
としたら、やっぱり、そういう一生をその次の
生で送らせて下さるかも分からない。だけども、
先程も申しましたように、じゃあその人の
生命がずっと連らなって、何生も未来永劫
子供が持てないかというとそうでは
ないんです。やっぱり持ててゆく。

 子供だけではない、人類というものの生命の
根っこを見つめていく時に、光そのものに
なっていく、我々のその生命の根元なんだ
ということまで悟った時にですね、念の世界
ではない、祈りの世界になっていって、自分の
心の内を浄める。そうして、その想いが
まわりを浄めていく。その事が一番、
世界平和の中で大事になっていくし、自分の
持ち場持ち場でそんな大きなこと思わなくっ
たって、自分の明るい運命といいますか、
明るいこの生命を呼ぶ為のものになって
いく訳なんです。呼ばなきゃ駄目なんですよ。
 そして、信じなきゃ駄目なんです。任せ
なきゃ駄目なんです。

 神様これ何とかして下さいというのは
分かりますよ。私も人間だったんだからね。
 だけども、何とかして下さい、苦しくって
たまりませんというのをね、もう本当に
大変だろうけれども、その想いを出来るだけ
短くしてね、すいません私はもう
考えられません。考えられませんから、
守護霊さん守護神さん神様よろしく、五井先生
よろしくお願いしますと言って、もう
想えなきゃあ、それだけを想ってスイッチを
切り換えて下さいな。そうでないと、
こちら側はね、この人とこの人をこういう風に
くっつけて、あるいは別れさせてとか、ね、
まあこれは冗談だけども、この辺でこういう
商売をさせてとか、こういうコースを歩ませて
とか、守護霊さん守護神さんとね、我々の方で
ちゃんとそのコースをね、神様の方で決定して
いるのに、何かその辺でぐっと
すがられちゃってね、すがるのは悪いと
いうんじゃないんですよ。すがって下すって
いいんだけど、そのどうしょうもない苦という
ものに入り込んじゃって、そこではまり込んで、
そこから声を出してしまわれるとね、せっかく
浄めて、もう半年したらこの苦が終わるなとか、
ああもう三ヶ月したらと、刑務者じゃないん
だけどさ、そういう期間の短い長いがあって、
その短いのが、段々人間の方で我で
くっついてね、何故だろうとか、どうして
こうならないんだろうとか、私はどうして
こうなんだろうとか、何でこれがうまく
いかないんだろうと。ずっとその中にいると、
それは我の把われなんですよね。だから、その
把われを、辛いけれども私は把われてます、
だからよろしくお願いしますと言ってしまって、
さっと杖じゃないけれども、その場から
ちょっと身を引いて、神様の方へ五井先生の
方へ、五井先生と言ってくれていいですよ。
 そうしたら、あなた自身がどんなに悩んで
いようとも、その時あなたは光になって、
光明の中へすっと入っちゃうんだから。

 光に対して闇は勝たないんです。そういう
訳で、我々はすうっと光を通しやすい。光を
通すということは、あなた達の運命修正を
しやすいんです。だから、あなた達がくよくよ
考えてね、どうにかして下さい。もう
どうなるんだろう。もうそういう嘆きがね、
本当に沢山の人のが聞こえて来るけど、
やっぱりそれはね、祈れば何とかなる。ご利益
みたいだけれど、そうではなくて、本当に
真実に預けて祈っていったら、自分が光に
なっちゃって、そうして、本当に真実の
一本のね、光り輝く光体になって、
人連らなりの生命になるんです。光明体に
なるんです。だから、その事だけを素直に
無邪気に信じて、そうして、何もかもね、
五井先生に文句もいう。文句を言うけども
任せもするという生活をしていただいたらね、
そうしたら皆が平和になっていくし、子供が
出来る出来ないという問題も、ただ単に
念だけの問題じゃない。念すらも神様は
ちゃんとあずかって、それをいいように
消して下さる。前の前の世の中の分まで
消して下さる。そして、未来に向かって
いいようにして下さる。ということを
あなた方は覚えて、ちゃんと記憶をして、
その上で、素直に無邪気に祈っていただければ
と思います。
          昭和63年7月22日
  
            

臓器移植について

2014-10-30 06:29:43 | 祈り
 臓器移植が良いか悪いかということはね、今
日本の中で問題になって議論されている訳ですね。
 問題になってるというのは何が根元かというと、
愛するものと別れたくない、愛するものの体に傷を
つけたくない、という風なことねえ。つまり、臓器を
移植される側の人達の悲しみですよね。五体満足のまま
焼いてあげたいとかですね。何かそういう気持ちが
日本人には非常に強いんです。これは、何の宗教を
信仰しているとか何とかじゃなくって、日本人の精神性
といいましょうかね、国民性といった方がいいかしら、
そういうものなんですね。だから、自分の愛するものの
臓器が、例えば肝臓や心臓、腎臓というものが、何かの
為であるにせよ、ぼんぼん持ってゆかれる、傷がつく
ということは耐えられない気持ちがする。

 それと今は、人工的な、肉体の臓器じゃないものが
発達を致しましてね、それが働きをするようになる。
 そういうもの二つからめて考えていかないと、
つまり、人工の臓器移植と、肉体の人間の臓器移植と
両方考えていかないと、いいか悪いかという問題は
駄目なんだということです。

 人間の生命というものは、我々から観れば
ずっと生き通しのものなので、たとえこの世で
区切られても、次の世の中で、又次の世の中で、
ずっと神様の世界へ入り込むまで、生命というのは
永世なものなんですけれども。しかし、まだ
そのことについて迷いをもったりね、この世の中で
死んでしまえば終わりだとか、色々な悲しみや嘆きを
もってる人達の想いがある訳なんですね。そういう
人達からみれば、もうこの世で生命が終わりに
なるのに、そこで臓器移植をされてしまう、ねえ、
受ける方じゃなくて、されてしまうという悲しみが
ある。その空気がなかなかあって、受ける側はそれで
生命が何とか助かるんだからいいけども、される側の
身になってほしいという気持ちが拭えない
訳なんですね。

 そして一方では、先っきも申しましたように、
臓器が人工的に出来るようになると、なかなかこれはね、
肉体じゃないものが便利になったという問題だけじゃ
なくて、我々のような立場から申しますとね、つまり、
人間の内臓、心臓であれ肝臓であれ腎臓であれ、
あるいは脾臓であれ何であれね、内臓にまで霊要素
というものは入ってる訳なんです。だから、
その霊要素というものが微妙に働いて、我々の生命を
助けてね、そうして、向こうの世界と交流をして、
神様の光をいただいて、色々なものが合わさって、
ついに光体が我々の奥の体に入りこんで、
それでもって我々の生命が成り立ってる訳なんですよ。
 だから、人工的な臓器移植がどんどん発達して
行った時に、何かそれさえすれば生命が助かるとか、
生き伸びるとかと、簡単に生命というものを考えて
しまいかねないという怖(おそ)れが一方には
確かにある訳なんです。

 じゃあ、臓器移植は絶対駄目かというと、そうじゃ
ないんですよ。例えばね、交通事故なんかでね、
誰にも働いて欲しい、もう五十や六十でこんな
事故なんかで向こうの世界へもっていかれるのは、
皆の為にも個人としてのその人の運命を考えてもね、
とてもたまらないという場合には、守護霊様守護神様
よろしくお願いしますと言ってですね、そして、
臓器移植でも何でもやって、何とかこの人の運命も、
この人に関わる色んな人達の運命修正も、この人を
通してこの器を通してさせて下さいと、皆やっぱり
祈ると思うんです。そういう臓器移植がね、やっぱり
ないとはいわない。

 ただ私が申しますのは、それが一人や二人ならば
いいんですよ。一人や二人ならば、そういう
祈りに満ちた、皆の祈りに支えられて、たとえ肉体の
臓器移植であろうと人工の臓器移植であろうと、
そこに霊要素的なものが加わって、本当の意味で
その人が真実に生きるというところへ持って
いかされるし、又そうなってるからいいんだけれども、
これが本当に今のようにね、イギリスに行かなきゃ
ならない、オーストラリアに行かなきゃなんない
という風な形で、皆が病んで病んで、たとえそれが
解決され進んでいったとしたところで、本当の意味で、
生命への畏れがなくなって来た時に、それがこわい
という問題が一つある訳です。そうして、我々の立場
からすれば、我々の生命の元が何処にあるか
ということを、その大元を考えることを忘れたら、
これは、臓器移植是か非かという問題と同じ次元で
議論しなきゃならなくなる訳です。

 我々の生命というのは、絶対な神様の愛、生命から
分かれてきてるものなんですね。神様以外から
この生命というものは出て来てないんです。世界人類
どの人一人とってもね。例え、世の中にとても貢献を
してる人も、あんな人がと思うような人の生命
であってもね、裡(うち)の本心本体というものは、
皆神様から分かれて来ている。だからそういう意味
で言えば、皆神の子供でしょう。そういう分け隔ての
ない公平な本心本体をもってる、生命をもってる、
我々の大元、それは何から来てるか、それは
神様からなんだ、神様の愛なんだと。何度も
くり返して申しますけど、我々は神の分生命であって、
我々はこの地球世界の運命修正というものを、
それぞれの持ち場持ち場でさりげなくやって
いかなきゃなんない。そういう大きな大使命みたいな
ものをおびて、この肉体をまとって、ここへ生きて
存在してる訳ですよ。だから、そういう大使命
といいますか、何でこの世の中に、人間が何処から
分かれて何の為に生きてきたか、何の為に分かれて
来たか、その根っこは何なのか、というところをね
本当に謙虚に見つめ直した時には、そこに怖れ畏みが
出てくるんです。慎みが出て来て、祈り心が出てくる
訳なんです。

 ところが、今の臓器移植の是か非かという問題はね、
そりゃあ色んな宗教家とか、日本人の倫理観とか
生命観とか、風土の違いとかね、色々議論して
おりますけれども、良いか悪いかの問題だけで
これは決められる問題じゃない訳なんです。良いか
悪いかから出発して、いけないとは言いません。
 何故かというと、人間というのは、良いか悪いか
から出発しないと、悲しいことに深いところへは
なかなか行けないものでして、そこから何か侃々
諤々(かんかんがくがく)の議論が始まって、随分
曲がりくねって、やっと深いところへそれぞれが
到達するんです。だから、今の議論が悪いとは
言いませんけど、今の議論というのはイエスかノーか
なんですね。良いか悪いかだけで片づく問題では
ないのに、良いか悪いかの次元でやってる空気では
困るんですね。

 実は、臓器移植がどうのこうのというよりも前に、
我々はこういうもっともっと深いところを見つめて、
その上で自分の存在の根元を何処に求めるか、それは
神に求めるんだ、神様の愛に求めるんだという、その
深いところを見つめた人たちが、こういう是か非か
だけで侃々諤々やってる空気の流れをね、もっと
愛のある光のある平和に満ちた空気の流れに変えて
いかなきゃならない。本当のところを言えば、我々の
なすべき仕事というのはそれなんですよ。臓器移植
というものは、本当に必要があって、その人の運命、
生命に、あるいは器にとってそれがその時必要
であれば、神様というのは何が何でも臓器移植を
させると思うね。あるいは、させられる人もする人も
決まってるかもわからない。だけども、私がここで
言いますのは、そういうことによって人間という
尊厳に満ちたこの存在がね、つまり、神様というもの、
その根っこのところ親のところ大元のところを
忘れ果てて、何か品物を交換するみたいに生命
というものがただ単純に連らなっているんだ、
という風に思ってしまったら考えてしまったら、
非常に恐いことになる。だから、そういう風潮に
なるのをくい止めていくというか、くい止める
その空気をつくる、それが我々祈りの同士のやはり
役目なのではないかと。

 本当に世界が平和に調和した時には、臓器移植を
例えすることがありましてもね、する方もされる方も、
本当にありがとうございますと受けとってね、
それから、された人の方の記憶というのもね、
した方の記憶というのも、それぞれの子孫に
つながって行きますよ。今は、どうしても我々は、
健康になった人の方の生命、生活という方をやっぱり
覚えていきましょ。ね、心臓や肝臓の提供を受けた
あの人のおかげで、私の夫、子供の生命が
助かったんだと最初は思いますよ。で、忘れにくい
とは思うけれども、しかし、それで元気になってる
我が子や主人とか娘や息子とか見てゆく内に、
やっぱり、その人の為にその臓器を提供してくれた
人の、それまで生きた生命の過ぎゆきとかなどは
何処かにいっちゃって、目の前の人が元気になって
いく、それだけの人間になっていく訳なんですよ。
 そうじゃない、やっぱりそれを提供してくれた
人達への感謝尊敬、怖れ慎み、祈り、そういうものが
あって、その人の天命を祈るという広い気持ちが
あって、それでこそ本当に臓器移植というものが
完成される。それがちゃんとなっていけばですよ。
 そんな空気がちゃんとなっていけばね、
なるんでしょうけれども、今はまだそんな深いところ
までの議論になっていないんです。

 だから、この問題というのは全く是か非かの問題
じゃなくってね、何かそういう人間の深い生命の根元
というところを見極めるところまで、人間の
眼差しがですね、本心がですね、そこへ到達した時に
初めて解決が出来る問題であって、我々はじゃあ何を
すればいいかと言えば、そういう空気になるように、
我々の祈りの光を、世界人類が平和でありますように
という光をですね、そこへ持っていかせる。そこへ
届くように、守護霊様守護神様神様お願いします。ね、
調和のある平和な世界にして下さい。その為に、
我々の生命も、今死んでいこうとしている人も
生まれて来る人も、死に行く人、生きようとしている
人、ありとあらゆる色んな人の生命が、それぞれの
場所において、その根っこの深いところでちゃんと
役に立ちますように。そういう祈りをですね、
やっぱり我々は、世界人類が平和でありますように
というあの真言の中で、祈りの中でね、光明真言の
中でちゃんと果たされていくように、おもいを集めて
祈りを集めてやっていかなきゃいけない。それが
我々の努めなんでありまして、これは良いか悪いかの
問題ではない。そういう次元で解決するべき問題
ではない。

 我々人間というのは、野蛮時代は過ぎて
おりますからね。その過ぎていってるというのは確か
なんです。だからこそ皆、世界平和の運動がどんどん
世界へ広がって行って、今、国連で
ピースセレモニーをやろうというところまで来ている
訳ね。それは実現してゆくでしょう。段々運動だけが
宗教色を抜いて広まっていくというのも、つまり、
人類のね、人間の本心というものを呼び醒ます為の
先駆(さきが)けなんですから。で、先駆けというのは、
私はここで一言申しますけど、我々は祈りの先兵
ではあっても、だから我々が世界人類の中で選ばれた
ものなんだと思っちゃうと、これはいけないんですよ。
 これはちょうどね、ユダヤ教が言ってますけれども、
メシア思想というのがあって、我々は神に選ばれた、
父なる神に選ばれた、世界中でたった一つのイエスの
民族だという選民思想があって、彼らが驕(おご)り
高ぶった為に、彼らは色んな苦労をなめますね。
 色んな禍とみえるものを神様が下して、そうして、
キリストをおつかわしになって、神様がというところ
までものすごく時間がかかってましょ。随分時間が
かかってますよ。愛なる神の本来の姿を出すまでに
ものすごく苦労されたわけ。だけども、我々は祈りの
先駆けであるというのは、そういう意味で
驕り高ぶっちゃったら、あれと一緒になっちゃう
訳なんです。人間が驕り高ぶったら、神性がね、
神様の性質、真実の性質、それが自分たちの中に
ちゃんとあるのに、それが輝かないで、私が私が、
我が我がと我の世界が固まって、そうしてそれが
業をつくっちゃって、どうにもならなく
なっちゃうわけ。動けなくなっちゃうわけ。そう
じゃなくってね、我々はそういう空気をつくらせて
いただく。そういう、おまえ先にちょっとやれ
と言われて、それで、ハイと言って神様に仕えて
人に仕えてやっていく。謙虚に自分を見つめ人を
見つめ、人の心を見つめ本心を見つめ、本心を
掘り下げてね、そうして、真理を喜んでね、光明
というものを喜んで、神様の愛、み心というものを
喜んで、そうして働いていく。そういう意味の
先兵なんです。

 だから、我々に今一番必要なことは、私をはじめ
として、みんな神様の前に、神様のみ心の前にね、
謙虚にならなきゃいけないということなんですね。
 神様、どうぞあなたの前に私を使って下さい。私は
生きてる時に何のとりえもなかった。だが神様に素直
になって、神様あなたに私の生命を差し上げます。
 だからあなたの思うようにして下さいという風に
私はあげちゃった。だから、私は磔(はりつけ)に
なったのと一緒ですよ。キリストの磔と一緒なのね。
 だから皆の、五井先生どうしましょう、五井先生
なんてことしてくれたんですか、こんなことがある
じゃないですか、といって皆の苦を私は受けとめて、
今、法身になってますから、今、肉体を
離れてますからね。光になってますから。
 だから、それをちゃんと光にかえて、前よりは
もっともっと流しやすくなってます、光を皆の
ところへね。だからといって、じゃあ私のように
しなさいと言ったって、そんなになかなか
捨てられませんよ。皆仕事を捨てて家族を捨てて、
何ものも捨ててただ一つの為にやっていきます
なんて、そりゃあ出来ないです。ね、なかなか
そりゃあ生活というのは大事なんです。

 だから、捨てるということはなかなか皆出来ない。
 しかし、その空気をつくるということは出来る。
 私の愛する者から私を離れさせないで下さい。
 それは人間の真実の叫びなんだけれども、そこ
だけに執着しちゃうと、本当の意味で皆の人類の
天命が完う出来なくなっちゃう。空気が清らかに
なって、そういう想いも慰めて励まして、そうして
さらに浄めてね、是か非かだけの問題ではなく、
我々だけが救われるとか、あの人だけが救われる
とか、その問題だけじゃなく、あの教義の中に
あるように、個も救われ人類も救われるね。
 そうして、皆の想いを消してゆく。大きな
光明体なんだから我々は。そういう自分が
自分の中へ本体の中に眠ってるということ。この
肉体の奥にそういう自由な体が心があって、我々の
その気持ちを励ましているということ。神様の愛が
我々を励ましているということを
おもい知ってですね、そしてそこで、祈りを
ちゃんと心を込めてやっていけばなるんですね。

 信じなきゃ駄目。信じてやっぱりやっていかなきゃ
駄目なんです。どうしても皆信じる気持ちがねえ。
 私なんかが信じたって、私一人が・・・と、
あの先生のあの信仰は素晴らしいけれど、
私なんかの信心はとね。そうじゃないのね。法然に、
ある時ある人が、その辺のおじさんかおばさんか
だったと思いますね、法然さん、私は南無阿弥陀仏
言ってる時に雑念が出てしょうがないんだけれど、
こんなんでも阿弥陀さんの浄土に通じてるだろうか
と言いますよ。そしたら、おまえもそうか
わしもそうだと言ったというじゃないのね。皆
そうなんです。皆肉体が苦しみながら悩みながら、
祈る時にね、やっぱりそれはそのままで
いいんです。その肉体だけが祈ってる訳じゃない。
 あなた方の霊体、神体、神界に満ちる全部、
本来の自己、真実の自己というものがそこで
合体してね、真実の祈りを宣り出して一緒になって、
見えないけれど一緒になって、光になって光明体に
なって祈ってるわけ。
 だから、そのことを信じないといけない。

 で、人間というのは、本当はそういう存在が人間
なんですよ。この肉体をかぶって生きてる、飲んで
食べて眠ってというのは、それが人間だというの
じゃないわけ。我々は、地球世界に降りてきたのは、
そういう空気を早くこの地球世界に造らないと
いけないという、神様のみ心で我々はここへ降りて
来てやってる訳なんです。でも、そんな大きなこと
言ったってね、そんな深いこと言ったって、皆
ぴんときませんよ。だから今、そこまで考えなくても
いいから、皆がそれぞれの持ち場でね、誠実に真実に
私の小さな祈りを受けて下さい、そういうつもりで、
世界人類が平和でありますようにと祈ってごらん。
 そうしたら、皆が世界人類の中へ
入っちゃうんですよ。あなた方が、自分の体で心で
感じなくったってね、本当に祈りの光明体の中に
自分が入って、霊団の中に入って、あなた方が光の
一筋になって、ちゃんとやっていくんです。
 それは、私はこっちから見てるんです。

 あなた方の光が皆かけ回って、そういう屈折した
色んな人の想いだとか、悲しみだとかを浄めてね、
そうして、その空気を清らかにしていくのは、
こっちから見えてるんです。だから、皆が、
私なんか私なんかというのはね、それは私は
卑下高慢というのね。私はちゃんとうたにも詠んだ
と思うけれども、ああいう卑下高慢は
いけないんですよ。肉体の私を私と思ってる間、
私は出来ないんです。だけども、肉体の私は私じゃ
ない。本当は、その真実の奥に、つき動かしてる、
神様の生命に輝いてる自分自身がある訳だから。
 そして、それは何の我も苦しみもない自分がある
訳なんですよ。それを自分の中に、我々は一つずつ
皆奥に持ってるわけ。

 だから、それを眠らせちゃあもったいないのね。
 みんな、自分が働けないと思っても、自分が
眠ってる間に、その真実の体はね、あなた方の肉体を
抜け出して霊界へ行って、その持ち場でみんな働いて
帰って来るということを眠ってる間にやる訳
なんですよ。何故眠ってる間にやるかというとね、
色んな理由があるけれど、第一に、自分の中の
私なんか私なんかという、そういう我を
取り除けるんですよ。
 眠ってる間、そういう意識が働かないから、自由
になって自在身になっていけるわけ、それが
目覚めてる時でも、私でもそうなるんだなと素直に
思ってしまえればね、それは見えるとか見えないの
問題じゃなくって、本当にあなた方が光になって、
私たちが光になってやっていけるんです。

 そうすれば、人間が肉体を持ったまま霊人になる
時が来ますよという、私の言葉があるけれども、
あの通りなんです。我々は今でも肉体を持った
ままで霊人なんです。立派な霊人なんです。ただ
その自覚をどこまで深めて、そうしてその自覚をね、
把われにしないで我にしないで、それじゃよろしく
お願いしますという、そのお任せの心でしていくか、
いただき直しの生命にしていくか、それなんですよ。

 だから、臓器移植の問題とか色々言うけれど、
ヨブ記にあるように、神様がとろうと思えば、
この瞬間でもあなた方の生命はとれる。霊界移行
させようと思えばいつでも出来るんです。向こうで
働くことになる。それが本当に神様のみ心ならば、
そうなるんですよ。

 だけども、今ここで生きてね、何か働いて、存在
してるということは、この世の中であなた方が
やらなきゃいけないことが一杯ある訳ね。まだ
ある訳なんです。だから、色んな苦しみが
あるだろうけれども、しかし、そこであなた方が
しなきゃいけないと言うのは、とに角、私も含めて、
我々のまわりの空気を清浄にして下さい、世界人類を
平和にして下さいといって、本心から祈っていく
時に、本当にこの世の中は浄められていくんです。
 その浄められた空気が宇宙全体にまで広まって、
宇宙の平和にも貢献してゆくんです。愛と美と真と
秩序と、平和による秩序が宇宙の秩序なんですから、
そこへ皆、その大河の流れの中へ皆入っていく
訳なんです。

 だから、そのことをちゃんと信じて、それだけを
祈っていけば、臓器移植は本当になるべくして
なる時にはなるでしょうし、臓器移植なんか
しなくても、本当の意味で、肉体の生命も伸びて
いく、天命も伸びていく、ね、この世の中で執着する
という訳ではなく、この世の中で果たしていかなきゃ
いけない事があって、あるいは愛情があって、神様
もうちょっと生かして下さいと言ったら、向こうの
神霊方が、あそうかそれじゃあ半年向こうの霊界へ
移行するのを止めようかといって、半年伸びるかも
しれない。そういう期間が必ず平和裡にやって
来るんです、ただ、今はそこへ行くまでに皆
もがいていますからね。もがいているから、
その苦しみを皆分かち合ってそれを取るように、
取り除くように、それが苦にならないように
していかないといけない。淀んだ空気に
なってしまっては駄目なんですよ。それになったら、
本当に把われになって我になって苦になるから。
 だから、そうならないように、我々は本当に
一筋に、世界人類が平和でありますようにという、
それをお題目のように唱えて唱えて唱えきって、
光になって下さい。そうすれば、もうこの問題は
是か非かを乗りこえてしまって、人間の本来の
生命への尊敬、ね、色んなところへ、この肉体を
持ったまま我々は霊人になるべく、それぞれの
意識が働いていくと思います。その為に皆
働いて下さい。
          昭和63年7月22日

世界平和の祈り

2014-10-29 08:36:59 | 祈り
 もう何十回何百回か知りませんけれど、世界平和の
祈りについては申してまいりましたけど、まあ
こんなに分かり易い祈りはない訳ですね。真理の
祈りといってもいいけれども、まず現代、この
祈りに反対する人がない。

 たいてい宗教宗派の祈りというものはね、何か一つ
これを拝まなきゃ駄目という風な形で出発しちゃう
から、そこに把われが出来るんだけれども。

 世界人類が平和でありますようにというのは、
これはもう大本心の祈りですね。そして、神様の
祈りですね。

 これに反対しようと思ったって、これに反対
する人はなかなかないんですよ。だから、うまく
考えられた祈りですね。
 考えられたというよりも、神様方の御心を
現わした祈りですね。そういう意味で、これは
真言だけど、神様の言葉でもあるし、真実の言葉
でもあるけれども。

 しかし、やっぱり皆それぞれに宗教宗派という
ものを、日本という国は特にもってますからね。
 曹洞宗だ浄土宗だ浄土真宗だ、キリスト教だ
創価学会だ金光教と、あるでしょ。

 それぞれに皆、祈ってきた対象、祈っている
対象、自分はこっちを祈っていても他の人は
別のを、というのはある訳ね。その時に、
何が何でも世界平和の祈りと言わないことです。

 世界平和の祈りというのは、何も強制しなくても、
すっとその人の本心の中へ入っていくもの
なんですね。これを広めないと、広めないと、と
やってしまうと、ピースポールは立つかも
しれないけども、祈りは深まっていかない
ということに、極端に言えばなるんですよ。

 でも生身の人間というのは大事なんです。その
気持ちというものも大事なんです。

 気持ちの流れというものをくまないと、我々
生きてる人間関係というものは、この世の中では
ありますからね。

 その中で、世界平和の祈りというものの素晴らしさ
とか本質とかいうものを知らせていこうと思えば、
まず世界平和の祈りがありますよ、ありますよ
という風なことを言わないでね、やっぱり和顔愛語で
人に接していってね、そうすると、ああこの人の
やさしさ、この人の深さは何か違うなあ
というようなものを、神様の方が感じさせて
下さるんですよ。

 で、それを皆が感じとって、ああこの人何か
あるなあという風になれば、やっぱり聞いてきますよ。

 五井先生の本でも誰の本でもね、体験談のものでも、
渡してもらえばね、あとはこっちでスイッチを
切り換えますから。そうしないとねえ。

 日本というのは特に宗教の国ですけどね、
霊(ひ)の本(もと)という位で。

 本にも書きましたけど、要するに、霊的に指導者の
立場にならないといけないのが日本人だけれども、
それは気負いたってなるんじゃないんです。
 いつの間にか染みわたるように、本心の流れが皆の
中に染みわたるようにね、そういう風に導いていく。

 そういう役割を日本人がもってる訳です。日本人が
もってるの。だから、その流れに逆らった時にはね、
つまり、強制したりするようになった時には、
せっかくこのものすごい光明真言である祈りが、
その大光明が発揮できなくなっちゃう。

 こっちの光の流れは止まらないんですよ。全然
遮(さえぎ)られないけれども、それを受ける人の
想いに何かわくが出来て、そうして、受け入れ
られないという拒否の想いがきた時には、その光が
すっと降りていけなくなるんですね。

 だから、その人の立場、年齢、経験、その人の家の
宗教、何をその人が信じてきたか、信じてこなかったか、
そういうものまでずっと心を配って、その上で伝えて
いくということがないとですねえ。

 私なんか、まず話を聞きますよ。もちろん祈りが
一番大事だけれども、祈りをしましょうかとか言う
より前にね、祈り心でもって、その人の悩み苦しみ
というものをずっと聞いていくんです。

 すると、聞いてもらうと、人間というのはねえ、
静か心というものが生まれて来て、そうして、ああ
良かったなあ、聞いてもらえて落ち着いたなあという
気持ちになってくるんです。そういうやさしさ
といいますかねえ、労わりがないと、宗教という
ものはね、じわじわ染み込んでいかないんですよ。

 宗教というものが、生きてる人間を尊敬しない
ものだったら、これは何にもならない。害するもの
だったら何にもならないんです。戦争するような
宗教だったら何にもならないでしょ。

 宗教というものはね、やっぱり自愛他愛の宗教
じゃないといけない。

 自分を愛し、人を愛し、自分をゆるし、人をゆるし、
でないと駄目なんです。

 人の生命を尊敬するということは、その人の立場を
まず認めてあげる。

 その人の立場をまず受け入れて、それから話をする。
 それにはねえ苦労がいりますよ。洞察もいりますよ。
 色んなことがいるけれども、やっぱり私達には
限界がありますね。

 だから、祈って祈って、守護霊様、守護神様、
五井先生、五井先生と呼んで下さって構わないから、
五井先生お願いします、神様お願いしますと、
祈り心でその人に向かい合うとね、その人の今までは
見えてこなかった、欠点ばかりじゃない、弱さとか
辛さとか苦悩だとかいうものが見えてきて、
ああこの人には上から物言っちゃあいけないなあ
とか何とか、守護霊守護神が知らせて下さる。

 だから、その知らせに従って、自分の心が唇が
動いていくようになっていくんです。それが任せる
ということになるのね。

 任せよう任せようと思っても任せられないんです。
 そんなことは一切抜きにしてね、ただふんわりと
座って、ああ大変だなと思いながら聞いてあげる。
 生身の一人の人間として聞いてあげる。

 そういう事がね、支部や集会という集まりをする
人達の、指導するあなた方の立場としては、とても
大事なことになってく訳ですねえ。

 我々は、神様によって生命を新しくされるし、
心も新しくされるし、本心というものを磨いて
いただくんです。

 神様によって我々は生きてる訳だし、糧を
いただいてる訳で、我々の生死というものも、天命
というものも、神様が貫いてずっと見て下さる。

 その信仰の上に立ってね、そうして、色々なものは
神様が与えて下さるから、その上で、世界平和の
祈りを唱えていく。

 世界平和の祈りの中に、日蓮もいれば親鸞も法然も
いる、あれは神様の寄り集めの所ですよ。

 あの祈りの全体というのはね。

 だから、どの宗教であっても、くっつけて祈っても
祈らなくっても、世界平和の せと言っただけで、皆
あの中に全部入ってるから、宗教を超えちゃった祈り
なんだけれども、やはり、その人の立場の尊敬、
生命の尊敬というものを一番にしてね、あなた方は、
その上で自分を磨いていくということから始めて
いかないと、上から物言うとね、相手の心を
萎びさせちゃうことになる。

 初めから難しい課題を出したって、人間というのは
やっぱり駄目なんです。1+1=2から始めないとね。
 あるいは、1の前はゼロがあるという、ゼロ以下の
ところで苦しんでる人が沢山いるの。

 だから、そこへ百をもってきても駄目なんですね。
 いきなり百を解けといっても、ゼロ以下のところで
喘いでる人にね、百のところまで登っておいで
といっても無理なんです。

 ただ世界平和の祈りというのは、その百の
ところまで、あるいは千のところまで無理なく
背伸びなく、すっとゆける。

 光の集まり所だから、そういう祈りなんだけれども、
そこへ導く為にもね、一旦は生身の人間の憂い辛さの
所に立って、そういう所へ降りて、苦労をして、
その上で共感をして、そうして大変ですねと
言った末に、自然に皆さんで、では世界平和の祈りを
しましょうかと言って統一が出来るように、そういう
雰囲気づくりをしてゆく。ね、ここは本当に雑談の
場でいいんですよ。悩みの捨て所であっていいんです。

 そういう所から、人生の苦労というものの諸相が
見えてくるし、生きるということの大変さもねえ、
又色んなことも見えてくるし分かってくるしね。

 これも我々の修行なんです。

 だから、全部神様が備えて下さるから、神様に
任せて、そうして祈って頑張ってやっていって
下さい。
              昭和63年8月26日











 

(四)宝について(7)

2014-10-28 07:15:37 | 祈り
       (前日からの続き)
 人間というのは何が大事かというと、休養
なんですね。休養を得るには、やはり自分を
見つめる心が大事なんです。ところが皆んな
自分というものがわからなくなってる訳ですよ。
 悩む自分、惑う自分、苦しい自分というのを
自分だという風につかみ間違えてしまうと、執着の
方へ行ってしまう、苦の方へ行ってしまう。
 しかし、自分というのは本当はそういうもん
じゃない。自分というのは、空っぽになって本当に
朗らかになった時に、その小さい人間の智恵なんて
ものは止まって、神様の方から、「こういう風に
すればいいんだよ」と、何も思わなくても、その
ように運命というものは作られてゆく。
 それは支配されてゆくという事ではなくて、
本当に神様と一つになった時に、朗らかな生命に
変わってゆくわけですね。ですから、その朗らかな
生命というものを、皆が心の奥に持っているんだ
ということを、ちゃんと自覚をしてね、その上に
立って世界平和の祈りをする。守護霊守護神に
祈りを捧げる。そういう中で、人間とはこういう
ものなんだと、私は人間に生まれて今は辛いけれど、
元々私というのは朗らかな生命そのものなんだと、
そういうところへ守護霊守護神が導いて下さるんだ
と、神様の導きがあるというところへ心を向けて
やってゆけば、人間というのは楽に生きることが
出来るのです。
             質問集 「宝もの」了

(四)宝について(6)

2014-10-27 07:13:45 | 祈り
        (前日からの続き)
 合気道の植芝先生は、自分が宇宙だって
言ったんですね。私も宇宙だって、あの先生に
返したんです。と言うことは、宇宙というのは
競争者がいないんです。そして、人間という
ものは誰一人として例外なく、この宇宙
なんですね。本当に誰とも競争しない、誰とも
競合しない。それはもう厳然としてそこに
在る。存在そのものだとね。誰にも冒されない
誰も冒していかない。それでいてそこにキッチリ
立っていて光り輝いている。一人一人がそういう
存在なんですね。その人間の本質に気が付いて
ゆくと、楽になるんです。苦しまなくていいわけ
ですよ。苦しんでしまうと、無用な競争をしたり、
嫉妬心が起こったり、独占欲が出たりして、
そこで競争して疲れてしまって、ああ私は何で
出来ないんだろう、なんで私はこんなに
生まれついたんだろう─と思ってしまう。
 だけれども、それはなんていうか、徒労
なんですね。悩むことも一つの勉強だけれども、
そのことで振り廻されるほど人間はそんなに
小さく出来ていないんですね。
 本当は、もっともっと人間というのは朗らか
なんです。そりゃあ人の中に入れば、気を使わ
ないわけにはいけないけれど、気を使い過ぎて
クタクタになって、くたびれ切って、もう明日
から仕事するのはいやだ、生きるのはいやだ
という事になってしまうのも困るんですね。
            (翌日に続く)