(前日からの続き)
人間というのは、永遠のいのちに生きる
存在です。
身体だって、何十という体を持っているんです。
この世の波動では粗すぎて、とらえられません
けれども、実に微妙に、霊妙に出来ている。
奥の奥に、いくつも身体を持っているんです。
そうして、その奥の奥の体を訪ねてゆきますと、
遂には、光明体そのものの身体に突き当たる。
そこが本心の世界です。
この本心、光明体の光を受けて、我々の
いくつもの体は養われている。
そして、心は、まっすぐ神様につながって
いるんだけれど、かなしいことに、長い間に
我々人間は迷っちゃったから、なかなかまっすぐ
ゆかないんです。
素直に神様って呼べないわけ。
そこでいろんな聖者が出て、そして最後に
私が来たんです。
五井先生って人が来てね、世界平和の祈りって
いうものを神様からいただいて、そして、
それを皆さんにこうやって教えてるの。
死ぬまで教えて、死んでも、こうやって教えて
いる。
何故か?法身だから、自由身だから。
そうでしょう。
皆さんだって死にゃあいっぺんに分かります。
自分の体が自由身だってことがね。
法身、法(のり)のからだだってことがわかる。
法っていうのは、つまり、宇宙の大法則に
とらえられた体ということですよ。
それは何かって言えば、神様の愛ですよね。
大愛。
私は、お前のいのちはもらうぞって言われた
時、はいよろしゅうございますっていって、
いのちをすっかり返しちゃった。
神様にね。
だから、我だとか何だとか、ややっこしい
ものはすっかりなくなって、スッキリ生きる
ことが出来たんです。
で、今の状態をいいますとね。
そうやって、きよめて下さった私のいのちが、
すっかり、宇宙神のなかに、大我のなかに
回帰して、帰一してね。
神様ととけ合って、それでこうやって
しゃべってるんです。
愛に抱かれたいのちなんですよ。
それが法(のり)のいのちということ、法の
身体、法身ということなんです。
あるがまま、なすがままね、おいお前、一寸
しゃべってこい、そうですかってんで、私は
神様のところから来てこうしてしゃべってる、
ね、自分がしゃべろうなんて思わないんだ。
だってもう、神様のなかに溶けてるんだもの。
宇宙の一部としてしゃべってるんだもの。
誰にお仕えするというでもない。
分かります?
何のわくもないところから、今、私は
からっぽになってしゃべってるんですよ。
だから、愛というもののありがたさが
わかるんです。
愛というものがなければ人間絶対に生きて
ゆけないということが、今、余計に
分かるんです。
老いたヨハネが、晩年に涙をためて、どうか
みんな愛し合ってくれ愛し合ってくれ
といったというんですけど、それは本当です。
真理の言葉です。
憎しみやおそれからは何も生まれない。
けれども、愛は、すべてを生かすんです。
あらゆるものを生かすんです。
生かさずにはおかないんだ!
何故なら、それが、愛こそが神のこころ
だから。
我々は、みんなここに立ち返るべき
なのです。
その使者として私が来たのです。
昌美がいるのです。
白光真宏会があるのです。
我々はさきがけなのです。
愛するということが、どんなに大事で、
どれ程の大きな力を発揮するものかという
ことを、宇宙の兄弟たちとともに、この
地球に生きる人類の一人一人に
知らせてゆくさきがけなのであります。
そのためには、自分を、人を愛し、自分を、
人をゆるしてゆく、そういう生き方に
徹しなければなりません。
器になるというのは、この神のこころを知り、
神のこころに従うということであります。
本心をたずね、祈りを重ねてゆくという
ことである。
我々は、いろんな役割を与えられている。
けれども、それは役割であって、その人の
本質ではないのであります。
人間の本質は、あくまで、愛とゆるしと
やさしさなのであります。
愛とゆるしとやさしさという神の光を受けて、
我々はこの世に生まれて来たいのちなので
ありますから・・・
俺が偉い、お前は駄目だ、こんなことを
したら俺はどうなる、あの人はどうなる。
少なくとも、祈りを知る者は、そういう
我の世界に自分を閉じ込めてはなりません。
神様というのは明るいいのちなのであります。
我々は、そのいのちを、今、一人一人うけて
生かされている神様の子どもなのであります。
神へのおそれとつつしみと、愛と祈りを知る時、
このいのちが、肉体の死を超えて、神の心である
大愛へとつらなっているものであることを、理解
することができるのであります。
我々は、祈り祈り、また、祈り祈り、祈りつくして、
光明神となるまで、愛を自他に満たしてゆくための
さきがけなのであります。
昭和62年5月14日 午後
五井 昌久
人間というのは、永遠のいのちに生きる
存在です。
身体だって、何十という体を持っているんです。
この世の波動では粗すぎて、とらえられません
けれども、実に微妙に、霊妙に出来ている。
奥の奥に、いくつも身体を持っているんです。
そうして、その奥の奥の体を訪ねてゆきますと、
遂には、光明体そのものの身体に突き当たる。
そこが本心の世界です。
この本心、光明体の光を受けて、我々の
いくつもの体は養われている。
そして、心は、まっすぐ神様につながって
いるんだけれど、かなしいことに、長い間に
我々人間は迷っちゃったから、なかなかまっすぐ
ゆかないんです。
素直に神様って呼べないわけ。
そこでいろんな聖者が出て、そして最後に
私が来たんです。
五井先生って人が来てね、世界平和の祈りって
いうものを神様からいただいて、そして、
それを皆さんにこうやって教えてるの。
死ぬまで教えて、死んでも、こうやって教えて
いる。
何故か?法身だから、自由身だから。
そうでしょう。
皆さんだって死にゃあいっぺんに分かります。
自分の体が自由身だってことがね。
法身、法(のり)のからだだってことがわかる。
法っていうのは、つまり、宇宙の大法則に
とらえられた体ということですよ。
それは何かって言えば、神様の愛ですよね。
大愛。
私は、お前のいのちはもらうぞって言われた
時、はいよろしゅうございますっていって、
いのちをすっかり返しちゃった。
神様にね。
だから、我だとか何だとか、ややっこしい
ものはすっかりなくなって、スッキリ生きる
ことが出来たんです。
で、今の状態をいいますとね。
そうやって、きよめて下さった私のいのちが、
すっかり、宇宙神のなかに、大我のなかに
回帰して、帰一してね。
神様ととけ合って、それでこうやって
しゃべってるんです。
愛に抱かれたいのちなんですよ。
それが法(のり)のいのちということ、法の
身体、法身ということなんです。
あるがまま、なすがままね、おいお前、一寸
しゃべってこい、そうですかってんで、私は
神様のところから来てこうしてしゃべってる、
ね、自分がしゃべろうなんて思わないんだ。
だってもう、神様のなかに溶けてるんだもの。
宇宙の一部としてしゃべってるんだもの。
誰にお仕えするというでもない。
分かります?
何のわくもないところから、今、私は
からっぽになってしゃべってるんですよ。
だから、愛というもののありがたさが
わかるんです。
愛というものがなければ人間絶対に生きて
ゆけないということが、今、余計に
分かるんです。
老いたヨハネが、晩年に涙をためて、どうか
みんな愛し合ってくれ愛し合ってくれ
といったというんですけど、それは本当です。
真理の言葉です。
憎しみやおそれからは何も生まれない。
けれども、愛は、すべてを生かすんです。
あらゆるものを生かすんです。
生かさずにはおかないんだ!
何故なら、それが、愛こそが神のこころ
だから。
我々は、みんなここに立ち返るべき
なのです。
その使者として私が来たのです。
昌美がいるのです。
白光真宏会があるのです。
我々はさきがけなのです。
愛するということが、どんなに大事で、
どれ程の大きな力を発揮するものかという
ことを、宇宙の兄弟たちとともに、この
地球に生きる人類の一人一人に
知らせてゆくさきがけなのであります。
そのためには、自分を、人を愛し、自分を、
人をゆるしてゆく、そういう生き方に
徹しなければなりません。
器になるというのは、この神のこころを知り、
神のこころに従うということであります。
本心をたずね、祈りを重ねてゆくという
ことである。
我々は、いろんな役割を与えられている。
けれども、それは役割であって、その人の
本質ではないのであります。
人間の本質は、あくまで、愛とゆるしと
やさしさなのであります。
愛とゆるしとやさしさという神の光を受けて、
我々はこの世に生まれて来たいのちなので
ありますから・・・
俺が偉い、お前は駄目だ、こんなことを
したら俺はどうなる、あの人はどうなる。
少なくとも、祈りを知る者は、そういう
我の世界に自分を閉じ込めてはなりません。
神様というのは明るいいのちなのであります。
我々は、そのいのちを、今、一人一人うけて
生かされている神様の子どもなのであります。
神へのおそれとつつしみと、愛と祈りを知る時、
このいのちが、肉体の死を超えて、神の心である
大愛へとつらなっているものであることを、理解
することができるのであります。
我々は、祈り祈り、また、祈り祈り、祈りつくして、
光明神となるまで、愛を自他に満たしてゆくための
さきがけなのであります。
昭和62年5月14日 午後
五井 昌久