宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

いのちの源(2)

2023-03-31 08:23:09 | 祈り
      (前日からの続き)
聖書に、神は光あれといわれた、すると
光があったと世のはじまりと記しています
けれども、実際、宇宙は、混沌のなかから、
神が、自らの愛と光をなげわかって、創造
された大生命なのであります。

このことをおもいますと、我々のいのちの
源は、宇宙であり、宇宙を創造された大生命
である神の愛と光であり、その神、宇宙神の
みこころそのままをあらわした世界平和の
祈りをとなえることで、我々はすでに、
我々のいのちの源、愛と光のなかに抱かれて
いるということがいえるのであります。
          (つづく)

いのちの源(1)

2023-03-30 07:47:51 | 祈り
いのりは、いのちを生きしめる源であります。
我々人間のいのちというものは、この世に、
ただ20年30年生きているそれだけのいのち
ではないのであります。

宇宙の星々を浄めきよめて、そうして地球に
降立ったのが私たちなのです。

生命はもともと神の光を受けた澄み清まった
流れなのですが、人間がこの地球世界に
住むようになって、いつの間にか業を
自分の主人だと思うようになってしまった。

今はこうした業をすっかり払い、世界平和の
祈りのなかで、新たな光にみちた霊人の生命を
回復する時なのです。

障りなどというものの一切なかった
霊止(ひと)のいのちへと帰す時なのです。

といって、肉体を亡ぼすのではありません。
そのまま、肉の身のまま霊身になるので
あります。
その一番の近道、易行道が消えてゆく姿で
世界平和の祈りという私の唱導した
この教えなのであります。

これは全く、私個人の我から出てきた教えでも
祈りでもありませんで、五井昌久という一個の
人間が、神様にこの身、このいのちをささげて、
どうぞこの人類世界を真実に救い導く方法を
お教え下さいと、うまずたゆまず自分
というものを忘れ、自分というものをおいて
祈った末に、神様の心が私のなかにひびき、
私は真実の私自身との、自己との対面を
果たすことができたのであります。

真実の自己は、全く白光そのもの、光
そのものの自己でありました。
私はその対面を果たした瞬間、自分の
ふるさとへ帰ることを許された者のみが味わう
何ともいえぬ感激を味わったのであります。

そして人は、人のいのちは、みな等しく
このようにかがやいていることを知ら
されたのであります。
この真実を伝えつづけてゆくことが私の使命で
あることを、この身にも心にも識らされた
のであります。

このいのちのかがやきは、神様の愛と
知恵によるのでありますが、さらに、この
かがやきを、つよめ、深めるのが、私ども
一人一人の世界人類が平和でありますように、
日本が平和でありますように、私達の天命が
完うされますように、守護霊さん守護神さん
ありがとうございますという世界平和の祈り
なのであります。

この祈りには、一点の私もありません。
それでいて、私ども一人一人の個々の
いのちと、この地球世界に生きるすべての
人々とをしっかりと結んでいる祈りなのです。
              (つづく)

いのちについて 序

2023-03-29 06:12:33 | 祈り
      序 詩
             五井 昌久
いのちは
神の光
人間は
その
ひかりを受けて
のびやかに生きる
存在
神のいのちと
人のいのちは
一元となって
今こそ
みこころの
愛と深さを 
知らしめてゆくのである
        昭和61年11月22日 

統一ということ(5)

2023-03-28 06:26:23 | 祈り
       (前日からの続き)
人間の想い煩い、業というものはね、習慣の
もんですからねえ。
60年生きてりゃあ、60年の分があるんですよ。
前生の分から言えば、何百年の分がある訳ね。
その塵を払い落とす祈りではあるけれど、
その想い習慣というものもしっこいからね。
だから、自分の中に、ああ高められなかった
と思えば、それが業になる。
高められるかどうかというのは、神様の方で
ちゃんとして下さるもんでしょ。
だから、それはそれで任せておいて、
任せるというのは楽なんですよ。
任せるというのは、こんな楽なことはないのね。
神様に任せたら、いつ死のうが生きようが
いいんですよ。
もう任せちゃったんだから、何にも言うこと
ないでしょ。
ね、仕事の心配もいらない。
将来の心配もいらない。
お金の心配もいらない。
本当はそういうものなんですね。

だけど、世の中に生きている以上、そういう
訳にいかないから、いろんな煩いが出てくる。
本当はそうですね、だからそこを見透して、
神様というのは我々を愛して下さる。
聖書にあるけど、一日の煩いは一日で十分だ、
もうあんまりくよくよするなという、そういう
イエスの言葉があるけれど、あれと一緒なんです。
ずっと引きずっていけば、それが業になるの。
だから、業にならない内に消していただいてね、
ああ消えてゆく姿だと思ってね、ああ消えました、
ありがとうございますと言って、そういうおもいで
統一をふんわりなすってらっしゃれば、
そうすれば、いつの間にかあなた方の光が
益々輝いてね、そして、自分のためにも人の
ためにもなっていく。
そういう人にいつの間にかなっていただくように
なるんです。
分かりましたね。
それじゃあ。
          昭和63年8月26日

統一ということ(4)

2023-03-27 06:59:57 | 祈り
       (前日からの続き)
人というのはね、見える人も聞こえる人も
感じる人もいろいろあるけれども、いろいろな
能力をもってればもってる程、不自由ですよ、
逆にね。
ちょっと持っちゃうとね、把われちゃって、
大変なことになるんだけども、そういうものは
全部、必要があるからこそ見させる、聞こえ
させるものでね。
そんなものは、生命に全然関わりがない。
永世の生き通しの生命というものは、見える
とか聞こえるとか、どんな才能があるかないか
とか、お金も地位も、何にも役に立たない。
ただ素直な生命になる。
それだけでしょ。
神様に素直になる。
それだけですよ。

そこへ目指してゆくんですからね。
そこが大目的だから、そこへ向かって、我々
いろんな想いを抱いたままでいいから、
お願いしますといって統一に入っちゃうと、
いつの間にか気持ちが良くなって、何だか
訳わからなかったけど、先生の口笛にのって
気持ちよかったと。
ああ良かった良かった、それが一番いいんです。
そうやっていく内に、何だか憂さがとれる、
何だか憂うつな気持ちがちょっと明るい方へ
向いていくと。
それでいいんです。
       (つづく)