宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

神の愛念について(2)

2023-02-28 09:03:23 | 祈り
     (前日からの続き)
今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。
不安がある、いろんなことが起こってくる。
事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに
天候が不順じゃあとか言ってるけれども、
実際に毎日毎日、今もどこかで大雨が降り
雷が鳴って、雷に打たれて死ぬ人だってある。
雨に流されて家がどっかへいっちゃう人もある。
つぶれて下敷きになってけがをする人や
なくなっちゃう人がある。
そういう不浄の世の中というもの、これを
見ていると、何を頼りにして何をよりどころ
にして生きていったらいいか分からないという
不安がつきあげてくる。
というのがこの世の中の本当のところで
あります。

で、そういうところをふまえて、私は
何を申し上げるかというと、我々という
ものは、常に神様の愛によって生きて
いるのであるということ。
これを忘れてしまっては困るんです。
ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体を
もつ人間は思うけれども、しかし、神様の
愛というのはね、あなた方一人一人の
天命を抱きとって、この世だけじゃ
なくてずっと深い天命を愛して、そうして、
もちろん、あなた方という一人一人を
愛して、そこを見つめての光をむこうから
流し続けていらっしゃる。
その愛なんですね。
だから、個人の小さな喜びもささやかな
喜びも、良かったねといってむこうから
光を送って下さるけれども、しかし、
一人の人間の生き死にが問題ではない
というところに神様の愛というものが
あるんです。

こう言うと、非常に無情のように
思うけれどもね、そうじゃない。
つまり、本当に人間の姿、そして、神様の愛
というものを知って行く時には、肉体の死
とか、いくつで死んだとか、若くて死んで
しまってかわいそうだとか、そういうこと
というのは何となく問題にならなく
なってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを
今見てますでしょ。
そうしますと、本当にこっちもむこうも
ないんですよね。
むこうの世界もこっちの世界も、ずうっと
連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼
という目でもってみているから、あっちの
世界が見えてこないだけで。

しかし、そういう把われも何もかも
捨ててしまってね、祈り一念、世界平和の
祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。
その教義を唱えるということはどういう
ことかというと、つまり、無になって、
自分もなく人もなく、自分が祈るという
ことも忘れて、その大きな流れの中へ
入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が
消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分が
ここにいるということも忘れて、ただ、
祈りの光と一緒になっていく。
そういうものなんですね。
本来そういうものなんです。
それは、どんな赤ん坊であっても
子どもであっても、あるいは、老人
であっても、神様を知らないと思って
いる様な人であっても、あれは無神論者
だと皆が非難するような人であってもね、
そのスイッチというものはもってるんです。
          (つづく)


神の愛念について(1)

2023-02-27 10:26:42 | 祈り
神の愛念についてということで
ありますが、いつも申しておりますように、
神様の愛念というものは、これは絶える
ことなく、ゆるしの大河ともいうべき
大生命の根元から流れてきているもので
あります。
そして、神様の愛念というものは、
我々人間のこの肉体や想いや、我だとか
何だとか、余分なものがいろいろ
くっついてはいるけれども、しかし、
その中を貫いて流れている。
つまり、神様の愛念というものは、
離れて何か遠くにあるものではなくて、
自分の中に絶えず息づいている、生命
そのものなんだということをまずここで覚えて
おかないと、我々は大変な間違いを
することになってゆく。
                   (つづく)

五井先生と呼んで下さい(9)

2023-02-26 08:41:01 | 祈り
      (前日からの続き)
その生命というものは、どんなに豊かで
あることか。
これは分からない程豊かなんですよね。
言葉なんかでは言いつくせないでしょう。
量とか質の問題じゃない。
存在そのものが愛なんだから、その愛に
抱きとられて、そこから出てきた生命
というものが我々自身だとすれば、我々
というのはすごい宝物をもっていただいて
この世の中に出てきてる訳ですよ。
だから、その宝物をもってながら、
もちきれませんすいませんということは、
やっぱりこれは傲慢不遜になる訳です。
いただいたものなんだから、それを
どう使うかは神様の方でお決めに
なるんだから、そこですっきりと神様に
お任せをしてね、そうして、どう使って
いただくかはわかりませんけれども、
日々私どもはつとめてまいりますという
つもりで、世界人類が平和でありますように
とやっていきますとね、いつの間にか我々を
使って下さるわけですね。
我々は、我々も気づかない内に器になって
まいります。
その器になるということは自分を磨く
ということでもあれば、皆さんに喜びを
分けるということでもあれば、自分の深い
本心がそこで満たされて光になってゆくという
ことでもございます。
そんなに難しいことでもないけれども、しかし、
不断に祈って、そうして、超越者に任せて
愛の源に任せてやっていくということが
大事だろうと。

そのために、いろいろ申しましたけど、
てっとり早いのは、五井先生と呼ばれれば
私はゆく訳ですから。
呼んで下されば、引き出すお手伝いを
致しますからね。
その引き出しがいくつあるか、その幅とか
量とかそんなものは神様の方で決める
ことであって、皆さんの方で、私量が少ない
からなんて、そんな遠慮することはありません。
ただ、そういうものを引き出すお手伝いを
私はしにまいりますので、どんな時でも
構いません。
文句たらたら恨みごとたらたら、いろんな
ものを引き受けます。
私はずっと十字架にかかっておりますから、
かかりっ放しですから。
私に全部言って下すって結構です。
だけども、神様の御心というものは、
そういう深いところにあるんだということをね
やはり承知なすって、その上で祈って
下すったら、光のエレベーターももっと輝いて、
皆さん方を光の世界へ引きつれてゆくことが
できる。
そうして、自己のためにも他己のためにも、
世界人類のためにも宇宙人類のためにもなって
いく。
そういう世界が、皆さんとともに築いて
まいれることだと思っています。
           昭和63年8月26日


五井先生と呼んで下さい(8)

2023-02-25 15:20:57 | 祈り
我々の目指してゆくところは、そういう
いろんな面を持っていても、その生命を
さながらに明るく朗らかにしてゆくという
ことですから、そこへ向かってゆかなきゃ
いけないわけですからねえ。
だから、私たちはその立場立場によって、
見える感じる想えるということを
まず認めた上でね、その上でさらに
その人の成長に従って、ああここまでなら
この人行けるなというところまで、
一段一段いっしょに階段を登ってやる
ということ。
降りて行ってやるということね。
それが大事なんです。
上からね、あなたこうしなきゃいけませんよ、
こうすべきですよ、というふうに
言ってしまいますとね、それがしたくとも
できないという人がたくさん
いるわけですよ。
おもいは一杯あるけれども弱くってできない、
ありますよ。
だから、それがいけないと言ってしまうと、
もうその人全体を否定することになる。
禁止することになる。
おまえがいけないということになる。

だけど、神様というものは、おまえは
いけないはないんです。
おまえは可愛いけれど、おまえは駄目だ、
おまえは良い子だけど、おまえは悪い子だ、
それは全くないんですよ、神様の側から
すれば。
だから、それぞれその時々に応じてね、
人間の我々の目から見ますとね、ああ
しょうがない人だなあ、やっかいな人だなあ、
こんなつまんない人がいるかしら、もう
いろいろ言ったって何にもわからないような・・・
と思いますよ、あせりますよ。
だけども、やっぱりその人はその人なりに
悟る時期、分かる時期気づく時期、あるいは、
傷ついて一歩進む時期、いろいろあるわけね。
そこで、へたに我々が裁断をしてねえ、
この人は駄目だとか、この人を標準にして
話をしようとかねえ、そういうことは言っちゃあ
いけないし想っちゃあいけない。
何故なら、神様というものはね、そういう標準を
何ももっていない無限定なんですよ。
神様というものは、無限定な愛なんですよね。
その愛というものは測り知れない、測るものは
ないんです。
そういうものから我々の生命というものは
出てきているんですね。
            (つづく)




五井先生と呼んで下さい(7)

2023-02-24 10:04:29 | 祈り
    (前日からの続き)
やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。
祈りというものは窮屈なことを目指すんじゃ
ない。
こうしなければならぬというものじゃない
からね。
人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。

しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。
私は前に妙好人ということを言いましたよね。
白光に寄ってくる人は特別な人は来なくて
いいと言いましたよ。
妙好人みたいな人が集まりゃいいって。
それは何も妙好人を理想にした訳じゃない。
けれども、神仏へのあるいは大生命への
ものすごく素直な祈りがあり希求がある。
そういう人をやはり理想にしたい。
他の、社会的な地位だとか立場だとか、
そういうものは一切いらない。
そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。
やっぱり、すっきりと生き通しの生命に
なってゆくためには、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、そのために祈りが
あるわけですから。

ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。
例えば、高橋君なんかは、この人
善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。
で、善人だけがいいわけでもないんです。
善人ということはいいことだけども、
ある時にはいいけども、ある時には
大変だろうなあという時があります。
例えば、バカ正直という言葉がありましょ。
正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。
だから、その立場立場によってね、
ある時ある人が善人に見えることもある。
ある時ある人がずるく見える時もある。
それは、その人がその人の生きてきた
環境とかいろんなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人
だなあとか感じる。
その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないと
いけない訳ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、
だけど放っとくとね、とてもじゃないけど
すっきりいい生命にはなっていかない。
        (つづく)