宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

祈りは きかれる

2014-05-14 05:57:15 | 祈り
祈りは
きかれる
といいます
これは
本当なんです

ところが
ちっとも祈りが
きかれない
よくなっていかない
五井先生
どうなってるんですか
五井先生助けて
下さい
という声が
毎日のように
きかれるんですよね

そこで今日は
祈りが
きかれるということは
どういうことかということについて
少しお話してみたいと思います

この世もあの世も
つらぬいて
およそ人間の住む世界というものは
その人の想念どおりの
世界になっていく
ということは
これは
ひとつの厳然たる
法則なんです

たとえば
何がなんでもお金が欲しい
人の道に外れたって
何したって
とにかく
一億二億というお金を
かき集めたい
お金に対する執着ですよね
念です
そうするとその念でもって
一応金は集まって
くるんです
くることはくるけれども
それは
自分の念で集めたお金なんで
つまり
自我欲望ですよね
それでもって入ってきたお金というのは
重たいんですよ
祈りじゃなく入ってきますからね
それで
身につかないで
また出て行ってしまう
こういう
いうことをきかせるというのは
祈りじゃないですよね

祈りというのは
私はこれだけ辛い
だからできるならこうして欲しい
けれど
みこころのままに
っていうんで
預けちゃうんです
ゆだねてしまう

神様の方も
それが
まごころから
でてきたものか
そうじゃないかって
いうのは
よくみてますからね
こちらの都合ばっかり
いってるようだと
それはきかれないし
また
そういうのを
祈り
とはいわないんです

祈りがきかれる
きかれないというのは
それによって
その人の本心が
本当にひらかれ
その人自身が
みがかれてゆくかどうか
ということを
守護霊や守護神が
みていて
それでよし
となったら
きかれたり
きかれなかったりする
だから
祈りというのは
あなたまかせなんですよ

ただね
私心(わたくしごころ)ではなくって
自分の身に代えても
子どもを救って欲しいとかね
そういう
身命を賭した祈りの場合には
きかれることがありますが
本来
祈りというものは
神からわかれてきた
分生命(わけいのち)分霊(わけみたま)
としての
自分に出会って
そして
神に感謝してゆく
というものですから
すべてを感謝してゆくなかで
その人に今
必要でないものは
与えられないわけなんです

守護霊守護神や
神様というのは
その人にとって何が必要で
必要でないのか
ということを
長距離ランナーの助走者のように
よくみているわけです

ですから
その人が
どうしても行きたい場所がある
ここに転勤したい
と思ってても
一番嫌な一番行きたくないところに
行かされたりする
そうすると
肉体人間というのは
すぐ
神も仏もあるものか
とおもったりして
そういうわけで
私なんかも
うんと恨み言しょってるんですけど
まったくこれを光にかえてくというのは
なかなかホネの折れることでね
これは冗談ですけど

そんな風に
今この人を
望みどおりに動かすと
この人の魂の成長にはならない
本心がひらきにくいって
むこうが判断したときには
これはてこでも動かないんだね
それで
祈りがきかれたきかれない
ということになるんです

人間が
その持っている想念どおりの
世界をつくってゆくというのは
そのとおりですけれども
心境というのは
微妙にかわるでしょう
一日のうちに
地獄に行ったり極楽に行ったりね
人間というのは
いそがしいんです

それで
移ろいやすい肉体人間の心を
祈りでもってしっかり浄化しながら
少しでも高い所へとみちびきたい
というのが
守護霊さんの愛念ですよ

この世で
そりゃあ色々なことがあります
だけど
人生の苦労というものを
味わって
人の苦労をしてね
その上で
それを
世界平和の祈りのなかに
投げ込んで
みんな消えてゆく姿だ
守護霊さん守護神さん
ありがとうございます
とかえしていったら
絶対悪くなりっこないんです
それだけ
光になってゆくんですから

祈りというものの
真実のすがたを
求めながら
世界平和の祈りを
唱えつづけてゆくとき
本心がひらき
そして
一人びとりに
もっとも必要なものが
与えられると同時に
しっかりと
私どもは
神の愛に
抱かれているのであります

このままで地球を光明化していく 大きな働きのなかに

2014-05-13 06:03:01 | 祈り
いつも
いうことですが
神様というのは
本当に
無限の存在
なのであります

この地上には
たとえば
国があり
民族があります
それぞれ今は
公用語というものを
持ってはおりますけれども
やはり
それぞれに国語を持ち
国境というものを持って
人々は
生活しております
そしてそのことに
別段の不思議を
感じる人は
あまりありません

たとえて申しますなら
神様という無限の存在には
こうした一切の
枠がないのです
神の愛と智慧をしるために
無数の世界があり
修行場があることは
御存知のとおりですが
神々のものには
一切の枠はないのです
大愛なのであります
ですから
神の我々人間に対する思いも
本当に
無碍なのであります

人間はもともと
この神からの分かれで
神にすれば親でありますから
人類に対する愛は
一入なのであります
その人類に対する愛を
託されたのが
世界平和の祈りなのであります
これによって
一人のこらず
もれなく
光の世界へみちびいてゆこうという
神の心が
うずいている
祈りなのであります

絶えることのない
守護の神霊への
感謝をとおして
本心の光を
この身に無理なく
あらわしていく
この祈りを唱えますときに
私どもは
心から安心して
自分の魂を
やすめることが
できると同時に
このままで
世界平和のために
この地球を光明化していく
大きな働きのなかに
すっぽりと
入れられていくのであります

どうぞ
日々の生活のなかで
世界平和の祈りを唱えつつ
生きていって下さるよう
一人でも多くの人が
この祈りとともに
明るい毎日をすごして下さるよう
祈ってやまないもので
あります

父の愛の深さ 母の愛の愛しみに いつ気づくことだろう

2014-05-12 09:11:37 | 祈り
父の愛の尊さ
ただ
じっと黙って
子ども達を
みている
だが
その慈顔の深さよ
子ども達は
いつ
その父の
相(すがた)の深さに
気がつくだろうか

おそらくは
彼らが
父となったとき
その愛の深さに
気づいていくのだろう

母の愛のかなしさよ
どこまでも
子どもを抱きしめてゆく
その無限の愛の
かなしさよ
子ども達は
いつ
この母の愛に
気づくことだろう

恐らくは
彼らが
母として
子をみごもったときから
母の愛の愛(かな)しみは
彼らを
とらえてやまぬだろう