宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

本当の人間

2015-03-16 09:54:50 | 祈り
人間とは何か──
誠実に生きてくればくるほど
みんなこの質問の前に一度や二度は
立ちつくします

自分の心のなかに
いくつもの自分の想いがあって
どれが自分なのだか
わけがわからなくなってしまう
そのうち
人間というものも
何なのかわからなくなる

自分というものを
問いつめてゆくこと
それが
とりもなおさず
人間について
考えてゆくこと
なのであります
しかし
迷ったり
悩んだり
かなしんだりする
そのなかを
グルグル廻っている
それが人間だという理解で
人間をとらえていきますと
かならず
行きづまってしまうのであります

こんなものじゃない筈だ
と思ったりする
感情の世界
自分が了解している範囲内で
人間をとらえていくということは
ある限定のなかで
自分自身をとらえる
ということになるのであります
そうではなく
人間というものは
無限定の世界から
みつめたときに
はじめてその本質が
あらわれてくるものなのであります

自由自在身
本心と本心が呼び合い
光と光が結び合う
かたちが必要なときには
かたちとなり
おもいを流すことが必要なときには
おもいを流してゆく
そういう自在さを
人間は本来
持っているものなのであります
人間は神の分生命(わけいのち)であり
分霊(わけみたま)である
ということはしばしば
申し上げているところでありますが
それは
無限定の神の大愛から
わかれてきた存在である
ということなのであります

あるがままにあることが
すなわち
光となり
愛となる存在
それが
神の愛
智慧であります
真理であり
真善美の世界であります

何をおもうということもなく
成すということもなく
そのままにあることが
いのちすこやかに生きる
ということになるのであります

朗らかに天のこころに従って
生きること
これが無為であります

自分自身を解放すればするだけ
人間は自らのいのちの流れに
すなおに
生きることになるのであります

自分自身を
本当にしってゆくには
どうすればよいか
何をすれば
真実の人間のすがたを
みることが
できるようになるか
と申しますと
それは祈りであります

人間は
祈って参りますときに
真実の自己に出合うのであります
悩みなら悩みをかかえたままで
苦しみなら苦しみをかかえたままでいいから
真実祈りに入ってゆきますと
朗らかな自分自身
すなわち
本心が
ひらいてゆくのであります

人間は
神の愛が
光となり霊となって
その肉体に息吹きとして
吹き込まれたものであります

肉体は
この地球世界を
浄化してゆくために
仮に身にまとった
衣にすぎないもので
祈りに入ってゆきますと
自分を生かして下さっている
光のいのち
霊なるいのち
愛なるいのちである
神へと
かえってゆくことになるのであります

世界平和の祈りを唱えますと
私どもはかならず
この
私どものたましいを
やすませいこわせる
私どもの家、ふるさとに帰ってゆくので
ありますから
本当にこころがやすらぎ
しみじみとよろこびが
湧き上がってくるのであります
それはまったく
自然(じねん)なことでありまして
人間というものは
よろこぶようにつくられており
祈りによって光がつよまり
深くなり私ども自身の
ありどころが
神であることを
しらされるように
なっているのであります
だから
祈るということは
つねに
自分の家を
おもい出し
確認するということに
他ならないのであります
そして
自分自身の本体の朗らかさを
しらされてゆくことに
他ならないのであります

人間として生きるということは
本来
神から分けられたよろこびのいのちを
うたい上げてゆく
ということでありまして
我々の奥にある自在身は
いつも
直霊の自分自身と結びついて
光のながれのなかに
身を任せているのであります

かなしみの裡にも光はあるのであります
我々の心が
どんな歎きに直面して
もだえておりましても
しずかに
光というものは
我々を守り導いているものなのであります

光は絶えざる神の愛であり
愛はすべてをつつみすべてを溶かして
ゆくものでありますから
ただ一つ残ったものは神の愛
というこの事実にむかって
我々は歩いてゆくのであります

肉体をまとい、この世に生きることで
味わう苦しみはすべて
我々の人生を深くするものではあっても
それらは、この現し世にとどまる
ものではなく、人間というものが本来
宇宙大にもひろがって本心の光
神の光とともにあり
その光のみが愛のみが
実は私たちいのちを養い私たちの裡に
とどまっているのだ
ということに気づかされるとき
人間というものは
本当に自由になってゆくのであります
そして人間のすがたというものも
みえてくるのであります

どんなにかなしんでいても
光が裡にある
ということは
人間というもののいのちの根が
明るく朗らかな
本心によって
つくられている
ということなのであります

この宇宙に
神の愛の気が流れている
それとおなじように
我々人間もまた
小宇宙として
世界平和の祈りのなかで
絶えず
光を放ってゆく存在者
なのであります

本当の人間 序

2015-03-15 08:54:09 | 祈り
      序 
            五井 昌久
 本当の人間と名づけたこの巻では、
真実の人間とはどんなものか、その
相(すがた)を明らかにすることに
よって、人間が安心立命している
事実をお伝えしようとするものである。
      平成2年1月28日

神の愛の前に 世界平和の祈りをささげていこう

2015-03-14 11:14:50 | 祈り
水がながれるように
いのちは
本源の光にむかって
ながれてゆく
愛と
美と
平和を呼ぶ声が
どこからか
きこえる

平和の祈り言のなかに
神を呼ぼう
私たちのふるさとへの呼び声を
高くしよう

自愛他愛
という声がきこえる
このひびきをたずねれば
さらに
ゆるしの光に出会うことになる
自分をゆるし
人をゆるし
このひびきのなか
光は
大円光となって
あたりをつつみ
人々をとらえる

ゆるしの光
やわらぎの光よ
あなたが
神の智恵と
愛とから
放射されていることを
私はしっている
そして
すべての人々の上に
このゆるしとやわらぎの光がおよび
それぞれが
愛の柱となって
この世界を平和にしてゆくことを
私はしらされている

神よ
あなたの大愛の何という深いことか
そのいつくしみのまなざしの前に
私は頭を垂れ
ただひたすらに
世界平和の祈り言をささげる

神よ
この地球そして宇宙に完全平和がおろされ
神のみこころが
それぞれの天命を
かがやかせるそのときまで
私は
印を結び
柏手を打ち
空っぽの場所となって
あなたの心を
伝えつづける

人よこの神の愛の前に
さあ世界平和の祈りを
ささげて
いこう
   平成2年1月9日 記 第8巻 了

神様という身元引受人がいて 実家がある

2015-03-13 06:40:36 | 祈り
肉体なんて
ちっぽけなもんです
なんにもできない
だけど
この肉体に
光をながして
いのちを
ながして
下さっている方がある
それが神です

肉体ってのは
衣ですからね
衣服です
だからもし
人間が
肉体だけのものだったら
死ねばおしまいの世界に
なってしまう
けれど
そうじゃないってことを
私たちは
しらされているわけ
そして
いよいよ深く
識らされてゆくわけです

我々のいのちが
神からわけられてきた
光そのもののいのちであって
大元は霊であり
愛であるんだということをね
それがわかってきますと
老いがそんなに目立たなくなってくる
それは
白髪にはなるし
しわもできてくるけれど
私たちのいのちが
本来そういうものなんだということをですね
世界平和の祈りのなかでしらされてゆくと
気持ちがとしとらないんです
それだけじゃなくて
つねに感謝してゆくから
心があかるくなって
光が入ってくる
そういうのがわかるように
なってくるんです
そうすると
ほんとに年とるのが
遅くなるんですね
まあみた目がおばあさんか
妙齢の美人かは別としてね
私は心美人ってのが好きですけれど
生命の法則というのは
そういったものなんです
つまり
朗らかな
永遠のながれのなかに入って
生々としてると
本当に元気になるんです
その元が統一であり
祈りであるとこういうわけなんです

祈ってゆくことによって
自分自身の魂の実家を知るわけなんですよ
だけど
ああこんなに居心地がいいんなら
もうちょっといよう
神様楽させて下さい
というのはとおらないんです
怠けは駄目なんですね
やはり苦しくても
歯をくいしばって
一所懸命にやって
そして神様
一生懸命やったんですけど
ここまでしかできませんでした
と帰るのはいいんですよ
そうやって
一所懸命やってる内には
傷つくことも
傷つけられることもあるんだけれど
いつも
神様を呼びながら
生きてゆくと
涙のながれたあとから
光がスーッとながれてゆく
ってことになるんです

ひとつも無駄というものはない
まわり道させてるようでも
苦労させてるようでも
むこうの世界では
ずっとみてて
そうして光をおくりつづけている
愛でこころをいっぱいにしながら
みまもってるわけです
だから私達は
未来永劫
大丈夫なんです

ちゃんと神様という
たしかすぎる身元引受人がいて
実家がある
祈れば
いつでもこの
神の愛の世界が
私たちの前に展開し
ひろがってゆくのであります

無心に
神を呼んで参りましょう
しずかに統一をして参りましょう
それではどうもありがとうございました