中年おじさんの散策part2

散策内容を紹介します
七福神・温泉・散策案内が主なものです。

史跡-391 天神神社(天神島城跡)

2021-07-26 04:51:51 | 墓・史跡・古墳

このブログは 中年おじさんの散策 の続編です。

この企画は 私が引率します sosamu@ya2.so-net.ne.jp 

参加したい方はご連絡ください。090-3436-8532 ネットでカルチャー(散策・グルメ)

 

20210330 幸手 桜・史跡
埼玉県幸手市天神島   
天神神社(天神島城跡)
 『埼玉の中世城館跡』(第2版)によれば、室町時代の城で、場所を「天神島丸出輸」とし、現況は宅地・畑、自然堤防であり、遺構は堀・土塁が残るという。
ここは幸手城主・一色直朝が隠居後に住んだ城であり、東への街道を行くと「網代宿」があって小金城(千葉県松戸市)へと結ぶ。西へ行くと高野城、渡辺氏屋敷を経由して久喜へと通じる。さらに北には栗橋城へ至る街道もある要衝の地だった(『幸手市史』)。
『新編武蔵風土記稿』は「一色宮内大輔屋敷蹟」として一色直朝が天神社再建の際に屋敷を構えたと伝える。『武蔵国郡村誌』によれば、城主は一色直高で、天文二三年(1554)北条氏康の足利晴氏の攻撃で落城し、直高は芦原へ潜んで生き延び、これ以後、芦葉姓を名乗ったという。
『幸手一色氏』(幸手市教育委員会)によれば、かつては利根川の旧河川が乱流していた地と考えられる自然堤防上に位置し、高圧電線鉄塔の西側に堀跡と土塁が現存している。幸手一色氏の居館跡とみるのが妥当で、城の北東の天神神社は一色氏が勧請したものだという。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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史跡-390  幸手市神明内 浄誓寺

2021-07-25 05:17:00 | 墓・史跡・古墳

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20210330   幸手 桜・塚・史跡
埼玉県幸手市神明内     
  幸手市神明内 浄誓寺
浄誓寺 平将門首塚 
関東に覇を唱えた平将門であるが、その後人々がいかに慕っていたかを知る一つの目安に、将門に関する墓や塚が複数残されている点が挙げられるだろう。東京の大手町にある首塚が最も有名であるが、幸手市にも将門の首塚が存在する。
伝説によると、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手であり、ここで敗れて討ち死にしたのだという。そして首が埋められた場所が現在の首塚であるとされる。さらに一説によると、埋められた首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったとも言われている。
この浄誓寺の近くには、将門の血で染められた木があったことから“赤木”と付けられた地名など、将門にちなんだ伝承が残されている。 

 

 

 

 

 

 

 

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史跡-389   香取神社 久喜市南栗橋

2021-07-24 08:28:18 | 墓・史跡・古墳

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20210318 南栗橋    碑・史跡
埼玉県久喜市南栗橋4丁目         
            香取神社
聖観世音菩薩堂・不動明王堂
  所在地 栗橋町大字中里四二三番地
 香取神社の祭神は、経津主命である。埼玉県社寺明細帳には「元禄十年(1697)に除税地となる」とあるので、それ以前に創建されたものと推定されている。
 新編武蔵風土記稿の中には、「村の鎮守なり、狐塚村泉福寺持」と記載されている。
 現在の社殿は、昭和四十一年(1966)に再建されたもので、地元の人たちにより元旦、四月十五日、十月十五日の日に祭礼が行なわれている。
 境内には、嘉永三年(1850)奉納の石燈籠、享保十年(1725)の石塔などがある。 昭和六十三年三月
 この神社は、東武日光線・南栗橋駅の西100m程の辺り、要するに南栗橋駅・西口前に鎮座している。

 

 

 

 

 

 

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史跡-388 久喜パークタウン

2021-07-24 08:22:22 | 墓・史跡・古墳

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20210303   久喜 梅
埼玉県久喜市久喜北     
   久喜パークタウン
  久喜パークタウンせせらぎ通りは1999年1月に竣工した7階建て総戸数55戸のマンションです。最寄り駅はJR東北本線の久喜駅で、駅から徒歩17分です。幹線道路から少し入った一角にあり、戸建てが多く立ち並ぶ閑静な住宅街にあります。久喜パークタウンせせらぎ通りは丸みを帯びた外観が印象的なマンションです。舗装された道に豊富な植栽が施され、長いアプローチがエントランスまで続きます。DINKSまたはファミリーに適しています。周囲には高い建物はなく、陽当たり、通風ともに良好で、各住戸には収納スペースが用意されています。久喜パークタウンせせらぎ通りから徒歩2分のところに小学校、病院、薬局があります。徒歩5分のところにある幹線道路沿いには商業施設や飲食店などが数件あります。また、徒歩9分圏内にはコンビニエンスストア、スーパー、大型スーパーなどが揃い、日常の買い物は便利です。  

 

 

 

 

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史跡-387 観音堂(藤原道)

2021-07-23 06:18:15 | 墓・史跡・古墳

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20210303 久喜  史跡
埼玉県久喜市本町
    観音堂(藤原道)
 久喜駅西口の提燈祭り通りと市役所通りとの交差点近くにお堂があり、地元では観音堂と言っています。
 このお堂の近くには銅製の地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)があり、この像の後ろに、明治32年(1899)の「藤原堂由来記」と、平成6年(1994)の「記念碑」が、並べて建てられています。これらの石碑を参考にして、この場所の歴史について紹介します。
 今から三百年以上も前の元禄元年(1688)、近所に住んでいた藤原某の娘は子どもの頃から病弱で、年頃になると亡くなってしまいました。両親は、たまたまこの地を訪れていた江戸増上寺の高名なお坊さんにお願いをしてお堂を創建し、正観世音菩薩像を寄進し、娘の冥福と人々の利益を祈りました。このお堂は、藤原堂と言い、当時評判を呼び、多くの人がやってきました。そこで、元禄3年(1690)には別のお堂が建てられ、両親はさらに阿弥陀如来像を寄進し、翌年には父親が仏門に入りました。このお堂を念仏堂と言い、江戸時代の絵図にも描かれています。
 安政3年(1856)に風災害が起こり、すでに老朽化していた藤原堂及び念仏堂は建物が完全に壊れ、元に戻すこともできないまま、明治維新を迎えると、ついに廃寺になってしまいました。
 明治20年代に、この現状を嘆いたお坊さんが再興計画を立て、信徒とともに寄附金等を集め、5年の月日を費やして一堂を建立します。平成6年(1994)には、老朽化したこのお堂を改修しますが、このお堂が現在観音堂と地元で言っているお堂で、今もこのお堂には正観世音菩薩像が安置されています。 

 

 

 

 

 

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