詩 心
8月22日付の朝日新聞の「耕論」に、『詩の心』と題して、3人の方の談話が載っていた。
ちょっと言うのが恥ずかしいが、わたしは二十歳前後のころ詩作に凝ったことがある。友達が同人誌に発表したのを見て、自分も書いて見ようかと思ったのがきっかけだった。
どこかに発表しようという気もなく、自己流で大学ノートに書き溜めたが、引越しを繰り返すうちにノートは紛失してしまった。
どんな詩だったかほとんど忘れてしまっているが、「冷気の中で凍って光るエーテルの針」とか、「何万年か後で南の海で見つかる人間の化石」なんていうのを題材にしていたことは記憶している。
短歌や俳句と違って、自由に言葉を並べられるので、自分には合っているかと思っていたが、ノート1冊も埋めないうちに種切れとなって、その後詩を書こうとは思わなくなった。
ところで、「耕論」の3人の方の言葉には詩人ならではという感じがある。
佐藤文香さん(詩人・俳人)
「詩を書いていると、いつの間にか海岸を走ったり大きな犬と出会ったり、-----詩がわたしを知らない世界に連れて行ってくれたりします。」
「詩は言葉を愛する人間同士が出会える〈待ち合わせ場所〉なのかもしれません。」
中井悠加さん(国語教育学者)
「(発見がなく、何を書いていいかわからないという子供がいるが)でも順番は逆なんです。発見ありきでなく、言葉を使って書いたり試したりしているうちに発見が繰り返される。いろいろ試せるのが詩なのです。」
四元康祐さん(詩人)
「誰が読まなくても、誰のためにでもなく、自分に向き合ってただ書く。でも、それが偶然誰かの目にとまればいいと祈りつつ、書いた詩を瓶につめて海に投じる。大海を漂ったその瓶がたまたま僕の元へも流れ着く。僕も、日本語の詩に詰め替え、瓶をもう一回海に放る、そんな比喩がふさわしいかもしれません。」
「ただ少し危うさも感じます。------詩が共感を得るためのツールになっているのでは、とも思えるからです。詩が誰かに届き、共感されるのは〈偶然〉であって、それが目的ではありません。」
いずれも含蓄のある言葉である。ちょっと詩心をくすぐられて、書いてみようかなと思ったが、あの頃の感性はもう残っていそうもない。
本棚から宮沢賢治の『春と修羅』を引っ張り出して、お気に入りの詩、『原体剣舞連』を音読した。
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
マンションの小さな公園で
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