">《以下の文章は拙書、「満月に聴く音楽」(2006)に収録された「アレア 世界的大衆音楽、その可能性と中心」の中からシュルレアリスムに関して記述された箇所だけを抜粋し、編集したものである。書かれたのは<93年>と末尾にあり、読み返すと、若干、私自身の考えにに修正を加えるべき点も散見されるが、修正せず、そのまま掲載する。》
(中略)
アレアの特徴の第一がその演奏テクニックと自由さであるなら、第二の特徴はグループの政治性だろう。アレアは政治的なグループである。それは余りにも明確なグループのポリシーである。
我々は今までポピュラー音楽が政治的メッセージを持ち、社会問題を題材にする場面をしばしば見てきている。ジョンレノン、クラッシュ、クラス、チャーリーヘイデン、アートアンサンブルオブシカゴ、パブリックエナミー、ヘンリーカウ、リントンクエッシジョンソン、アーチーシェップ、マービンゲイ、ピーターガブリエル、ギルスコットヘロン、崔健、シンニードコーナー等々。他にもたくさんあるだろう。しかしそれらと比べ、アレアの政治性の徹底性は際立っていると言えよう。アレアはイタリアの様々な社会問題を取り上げ、その変革を主張するメッセンジャーであった。その政治性は希にみる徹底したものである。
(中略)
‘社会派の芸術家’であるアレアを読み解くにはシュルレアリスムを引き合いに出すべきだろう。実際、アレアはアルバム『1978』でアンドレ・ブルトンによる「シュルレアリスム宣言」(1924)を引用している点を見ても、何らかの影響下に創作行為があったとみて良い。
世紀の変わり目、現代の始まりと共にヨーロッパで発生したロシアアバンギャルド、ダダ、イタリア未来派、シュルレアリスム等は全て、社会と密接に関わりを持った芸術ムーブメントとして今、尚その有効性が着目されるものだ。
芸術が政治に対し告発し、和解し、擦り寄り、また攻撃する。そして政治は芸術に対し弾圧し、和解し、取り込もうとし、宣伝に利用し、また押さえ込む。そのような相互関係性に於いて、芸術は内的な深化も遂げていく。
特にシュルレアリスムは芸術至上主義というセーフゾーンを取り払い、社会性という現実的有効について最も深く探求し行動を伴ったムーブメントであった。
今、考えられるシュルレアリスムの成果とは芸術が社会、政治という現実へ付随する形(現実を批判したり肯定したり、反映するといったあらゆるケース)、それを仮にプロパガンダと呼ぶなら、そのプロパガンダを内含しつつ 現実から切り離される<固有の現実>を求める意志が芸術、表現の質的向上と現実的、政治的効果として希に両立した事であるだろう。このような成果が芸術を軸としたムーブメントによって成されたのは後にも先にもシュルレアリスムだけなのではないか。そして先に結論を言えば私はアレアが正にシュルレアリスムに匹敵する程の活動と表現の力を持ち得たと言いたいのである。
従ってその音楽は単なるプロパガンダではいけない。そのような‘解りきったもの’であってはならない。それは換言すればアートや音楽が政治、社会の下部構造に位置する状況だ。
即ち音楽は音楽自体の純度を追究し一見、芸術至上主義とも感じさせるほどの外的完成度を持ち、且つそれが現実世界に対し<反>(アンチ)の触覚によって、実際的行動や、思考を人々に喚起させるような力を音楽自体が持つ事。このような音楽こそがシュルレアリスム的高水準にあると言えよう。
アレアはこのようなレベルを備えたグループだったと言える。
(中略)
シュルレアリスムは1920年代、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間にフランスで生まれた。アンドレ・ブルトンは1924年「シュルレアリスム宣言」を発表し、芸術(彼自身にとっては反芸術と同義)による社会変革と人間の内部変革の究極的合一、現実と夢という二律背反の超現実的合一を唱導している。それ以前、あるいは同時進行としてダダがあり、シュルレアリスムはそのダダ運動の中から誕生している。
ダダとはベルリン・ダダに象徴されるように政治色がかなり強く、ワイマール共和国からナチスへの移行期という時代背景もあり、表現の中に攻撃的要素が充満している。従って体制側からの激しい弾圧が加えられた。ダダの作品は概して諷刺やプロパガンダが一貫しており、芸術作品そのものの深化には及んでいない。と言うかそういった要素を意識的に排除しており、ヨーロッパ・アートの系譜そのものからの断絶を意図している。
そしてダダ作家は自らが戦闘的な活動家である場合が多く、作品の位置付けを社会行動の一媒体として考える。そこには直接性、明解性、現実性が要求され、非芸術的要素、非技巧的要素が強い。
アンドレ・ブルトンはダダの性格を受け持ちながら、尚かつそこへ夢や無意識の探求といったテーマを共存させようと試みた。それは社会革命という現実の変革と精神革命という人間の内的変革を同一に置く志向である。
その結果、シュルレアリスムの作品はハプニングや非確定性という反技巧的側面と構築的技巧美、精神的な内面追求度が共存する独特のスタイルとなる。
それはいわば夢的でもあり、リアルでもあるものだ。
しかしこの困難な活動コンセプトはブルトン自身の困難な道のりそのものとなる。
ブルトンらシュルレアリストはできて間もない共産党へ入党し、当時のフランスの右傾化及びファシズムという脅威へ対抗する現実的活動に参加する。しかしシュルレアリスムの芸術活動は言うに及ばず、夢や無意識、不条理の探求などという非現実的なものの現実的価値など認める筈がない共産党とは当初からしっくりいくはずがなく、間もなく離党(実際には除名)し、ノンセクトラディカルとしてのシュルレアリスムの立場を貫いていく。
やがて同じノンセクトラディカルでありライバルでもあるジョルジュ・バタイユと連合する活動を展開し、その政治性はナチスドイツの脅威という迫り来る現実と共に活発化してゆく。
しかしシュルレアリスムの独自性とはその表現が政治的プロパガンダに決して介入されないという一線があり、その根本的姿勢はブルトンの対ドイツレジスタンス(抵抗運動)への不参加とアメリカへの亡命という形へと帰結する。これに対する世間の目は<社会の変革>、<ファシズムへの対抗>を標榜するブルトンの裏切りというマイナスイメージだったようだ。そして実際、ブルトンら亡命グループはフランスに残って地下活動を続けた詩人、芸術家らレジスタンス派から相当の批判を受ける。
しかし結果的にブルトンは正しかった。
戦後、シュルレアリスム離脱派で共産党員であるルイ・アラゴン、ポール・エリュアール(ブルトンのかつての親友であり同志だった)がレジスタンス詩人、正義の詩人として英雄視される一方、表現のイデオロギーまでもがコミュニズムそのものとなり、正に芸術の政治的下僕としての位置に収ってしまうのである。その延長にアラゴン、エリュアールらの「スターリン賛歌」があり、彼等、現実派の盲目さを露呈してしまう結果となる。
ブルトンは見抜いていた。ヒトラー以上のファシスト、スターリンの本性。やがて明るみに出るその暴虐性。そしてそのスターリンの下部組織である各国共産党(コミンテルン)のスターリンへの偶像崇拝。その<宗教>に犯される芸術の堕落の行方。
戦後、フランスに戻ったブルトンは錬金術や秘教という‘超克手段’を芸術に融合させながら、尚も各種の現実的闘争を1966年に亡くなるまで続行した。時代はサルトルら実存主義派の時代ではあったが、後のパリ五月革命にもブルトンの影響は多大だったとされている。
ブルトンがピカソ像除幕式に抗議している写真がある。そこには既に年老いたブルトンが怒りの抗議をし、人々がそれを取り巻いている。
ここでブルトンは‘芸術(ピカソ)の体制側への回収’に対する異議申し立てを行っているのだ。ブルトンのスタンスがここに象徴される。ここでの‘体制側’とは現行政治体制だけを意味するのではない。反体制勢力をも含むあらゆる政治、社会イデオロギー、及びその団体を指しているのだ。つまりブルトンにとって芸術はあらゆる現実勢力の吸引力を排除し、それを超克しなければならない。同時に芸術至上主義に陥る事なく現実変革路線を実行する志向を保持しなければならない。
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私がここで少し長くシュルレアリスムの事を引き合いに出したのは、アレアの活動の歴史と音楽の完成度の高さ、外部への影響、パワーが正にシュルレアリスムを想起させるからである。
アレアは1973年のデビューアルバムで社会的メッセージ色を既に持ち、続く『caution radiation area(警告 放射能汚染地域)』(74)ではその立入禁止の看板がアルバムジャケットに描かれ、核問題を曲中で取り上げている。そしてサードアルバム『crac』(75)、フォース『are(a)zione』(75)までの間、アレアの活動は可能な限りの政治的アクションと共にあった。しかも音楽の外向的パワーを人々の間に浸透し続けた。
特に『caution radiation area』、『crac』の音楽的パワーは凄まじい。複雑な曲を難なくプレイしアンサンブルするそのテクニックにダイナミズム、初期衝動のエネルギーがストレートに加わり、原曲の複雑さ、コンセプトの難解さ、アバンギャルド要素が聴く者にそれを感じさせない。それはまるでシンプルなパンクやファンクを正面から聴かされているような精神的開放感につながってゆく。テクニカルな音楽、思想的な音楽がこのような爽快感を伴って聴く者を圧倒するのはとても珍しい事だ。そしてアレアの音楽にあるエネルギーの質とはその音が思想に負けない密度にある点で両者が希に見る両立を実現しているのだ。
アレアの音楽は技術、コンセプト、思想、メッセージ、そしてプレイする本人達の生活、社会意識、表現活動、アンガージュメントそれら全てに対し隙間なく探求的であろうとした。その結果、作品は進化を続け、自らも社会へのコミットを先鋭化する‘総合的な進歩’を実現してきた。アレアが持つこのような求道的精神こそが多くの人にエネルギーを伝播する要因になっているのだろう。
アレアは実際、かなり前衛的な事もやれば軽快なポップソングも演奏する。しかしそれらがまるで高圧電流のようなエネルギーの元、一貫した流れの中で私達へ向かってくる。<ジャズロック>という便利な言葉があるので便宜上、それによって語られる事の多いアレアだが、その音を聴けばこの呼称さえ、似つかわしくない事が解るだろう。丁度、70年代のマイルスデイビスの音楽を指して、そのジャンルが何をもってしても当てはまらないように、アレアもまた、アレアとしか呼びようのないスタイルを持っている。
そして<international POPular group!>と名乗る(POPのみ大文字である)通り、グループの大衆性への方向が閉塞的な地下アバンギャルドと対極に在るという事。それでいて第一級のアバンギャルドでもある自覚がアレアの音楽性に顕在するのだ。
前衛を観念的、高踏的に捉えず、人々の最前線、大地の最前衛に位置すべき実験場として捉えるアレアの発想は正しくシュルレアリスム的であると感じざるを得ない。
(中略)
アレアは具体的な政治活動から遠ざかりながらも一層、政治的になった。それは『melladiti』の音の感触が如実に物語る筈だ。アルバム全体の焦点の集中度、それを先ほど<厳格主義>と私は書いたが、アレアは正しく問題意識の深化によってそれを成し遂げている。これは聴く者に影響を与えざるを得ないだろう。アレアはイデオロギーの提示ではなく、感性のフロンティアとして、感覚(正しい、そして進むべき)を人々に伝播するグループへと変容したと言えよう。
これは先述したシュルレアリスム=アンドレ・ブルトンの辿った変化と方向性に同一の軌跡を感じる。
(中略)
『1978』は『melladiti』の硬質性とアレア本来のポップさをプラスした素晴らしいアルバムとなった。私が初めて聴いたアレアのアルバムである。甘ったるいものが多かったキングレコードの「ユーロロックコレクション」と題された当時の再発シリーズでその硬派が際立つ作品だった。演奏は『melladiti』よりカラフルになり、初期の地中海音楽のカラーも鮮明に打ち出し、開放的なトーンと明るさが基調になっている。しかしアルバムの内ジャケットを見て、アレアの全く変わらぬ過激性を確認するのである。そこには様々なテキスト、コラージュ、詩、解説、写真が盛り込まれ、音楽の明るいトーンとのバランスを提示するのである。全くアレアの批判精神は不滅だ。
アンドレ・ブルトンや、ジャック・ラカンが引用され、見事に音楽化してみせるこのグループはくどい位に社会性を見据えた表現活動をしている。ここへ来てアレアはいよいよ、明確な前衛グループのフロンティアとしてポピュラーシーンに斬り込んでいこうという勢いが感じられる。
このアルバムではギタリストのパオロトファーニが脱退しており、彼の絡みつくような粘着性ギターが聴けないのは残念だが、各曲が余りにもバラエティーに富んでおり、その穴を感じさせない作品となっている。
アルバム『1978』はアレアの音楽的ルーツ、南欧トラディッショナルの要素がそのメロディー、リズムにおいて顕れる。それはとても伸びやかで明るいものであり、一級のポップスだろう。
アレアは『1978』に於いてシュルレアリスムへの傾倒を深めている。それは具体的にはA面4曲目「homnage a violette noizieres」(精神攪乱)に於ける「シュルレアリスム革命」紙(1933)からの引用、B面2曲目「acrostico in memsria di l aio」に於けるアンドレ・ブルトンとルイ・アラゴンによる「ヒステリー50周年」の引用に見られる。これはいずれもブルトンによるフロイトの精神分析をベースにした精神の開放思想の一端であり、その意図するところは狂気や精神異常という社会的疎外物、抑圧の対象を人間性開放への契機として逆にその聖性を認識する事である。ブルトンは当時、あらゆる‘抑圧の機構、装置’を攻撃するマニフェスト、テキストを発表していた時期で、その中には刑務所や、精神病院の隔離、圧殺性を告発するものも含まれていた(後年、ミシェル・フーコーが行う仕事の先駆だろう)
アレアはその演奏においてしばしば理性を超えるトランスゾーンへ入っていく。特にディメトリオの人間離れしたパフォーマンスには‘万物の表現’或いは‘可視範囲を超える未知への接触’という性格が強い。彼は絶えず狂気や異常という暗黒面を視て、現実へと舞い戻っていただろうし、人間の内部の奥底への探求心は人一倍強かった筈だ。
アンドレ・ブルトンがヒステリーを社会に於ける聖性と見なす肯定的な再定義を行ったと同様、ディメトリオも人間のあらゆる感情や深層心理を広角に捉え、社会に於ける<異>への弾圧に対する<反>を打ち出している。
何れにしても<社会的異>への信仰が強いアンドレ・ブルトンの性格をディメトリオは70年代に受け継いでいるかのようだ。従って、ブルトンのテキストを引用しながら、音の世界においても濃厚にその影響を感じる事ができる。
『1978』でアレアは力強さと夢幻感覚が交差する正にシュルレアリスム的な作品を作り上げた。
ブルトンはシュルレアリスムに於いてあらゆる芸術ジャンルを巻き込んでグループの活動を世界中に波及させたわけだが、何故か音楽にあまり感心を示さなかった。はっきり言って軽視した。そしてこのムーブメントはヨーロッパの殆どの地域はおろか南米、日本にまで飛び火した広範囲なものだったのだが、イタリアではさほど拡がっていない。
アレアはシュルレアリスム未踏の地、イタリアで生まれ、しかも音楽という手段を選択した最後のシュルレアリストだったのかもしれない。
アレアのリーダー、ディメトリオ・ストラトスは1979年、6月18日に白血病で死亡している。恐らく生前に死期を告げられていたと思われるが、彼の活動は死を間近に捉えながら、凄まじく疾走するようなものであっただろう。それはジョン・コルトレーンに似て求道的ですらあった。
10万人を動員したというディメトリオの追悼コンサートではイタリア中から35のグループ、カンタウトゥーレ(イタリア語でシンガーソングライターの意味)が集まり、ボーカリスト不在のアレアも熱演を繰り広げたという。そしてやはり「インターナショナル」もプレイされた。後の東欧革命、天安門での民主化運動でも歌われたこの歌をアレアはディメトリオへの鎮魂として演奏した。それは恐らく最後の祝宴だったのだろう。
ディメトリオを失ったアレアは80年に『tic tac』という素晴らしい‘フュージョンアルバム’を作製するがディメトリオの不在は最早、アレアではなく、それは全く別のグループになっていた。<international popular group!>という冠がジャケットにも記されていない事がそれを象徴している。
「70年代に入って現れた多くのロックミュージシャンの中でこのアレアほど大きな社会的意義や変革的機能を音楽活動の中に持ち得たアーティストを恐らくアメリカやイギリスの音楽界から探し出す事は不可能であろう」
アルバム『1978』の解説はアレアの偉業を示すものだが、アレアは何よりもその音楽が楽しい。このような味わい深いエンタテーメント、驚きと思索にも満ちた音楽は他にはないだろう。
イタリアというポピュラーシーンの辺境から突然変異の如く現れたアレア。白血病という限られた人生の中で常人の何倍ものエネルギーを短時間に放出して見せたディメトリオ・ストラトスというカリスマ。そして70年代という政治の季節。恐らく色々な条件がアレアを成立させたのであろう。
アレアが追求したあらゆる開放の試みをその音楽性の最高級のエンタティメント精神から感じ取り、90年代の現在、何一つ解決されずある諸問題に目を開く契機とする事ができるかもしれない。
1993年4月
2019.4.6(sat) live and talk program ‘満月に聴く音楽’ ‘surrealism’ シュルレアリスム
Starlling
◦松本和史Mastumoto Kazuhito(Experimental movie)
◦Kazuto Yokokura(laptop)×長野雅貴Nagano Masataka(typewriter, other devices)
◦菊石 朋Kikuishi Tomo (poet reading)×宮本 隆(bass,sampler)
Talk about ‘surrealism’ 松本和史(詩人)聞き手:宮本 隆
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18:30 open 19:00 start
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