高校時代の思い出を書いてたら、今日同窓会の知らせが届きました。
卒業して、40年が経ちました。ということで同窓会をしましょうということらしいです。こういう機会でないと、とても会うことができない人がいるでしょう。
なので、出てみようかなと思います。
しかし、クラスではなく、学年全部ですから、すごい人数になるかなと思います。
高校時代の自分がどうであったかを振り返りながら書いているので、そこで再会した人たちが、自分のことをどのように見ていたかなどもわかるかもしれません。
そう考えると、美術部の仲間にも会ってみたいなと思いました。
特に、下級生も含めて再会できたら楽しいだろうなあと思います。
美術部の下級生たちは、私にかなりの好印象を持ってくれて、私はまるでスターのような扱いを受けました。私が二年の後半から美術部に行くようになったので、初めは部員という感覚ではなく、お客さん的な位置づけでした。ゲストというものは、大切に扱われるものですからね。
私が最もいい気分だったのは、下級生の男子の面倒を見ていて、それを女子が見学している状態です。私の勘違いかもしれませんが、みんなが憧れの視線を向けてくれたような気がしました。
私は、バスケット部のキャプテンをしていましたが、二年の二学期から美術部に顔を出すようになり、バスケット部を辞めました。進路を考えてデッサンを始めたからです。
このことは、「私が絵の道に入るまで」という文章で、このブログに以前載せました。
私はこのころ、器用貧乏という言葉を意識するようになりました。
自分の進路を考えたとき、一体何をすればいいのか?わかりませんでした。
数学が好きでしたが、そうは言っても学校で一番でもない。将棋が強いと言っても、プロになるほどではない。バスケットの選手としては、身長が低すぎる。172センチでしたが、成長が止まっていました
もし、バスケット部がもっと強くて、激しい練習をするチームだったら、最後までやって、体育の先生を目指したかもしれませんが、そういうチーム状況ではありませんでした。なぜなら、二年生になった私は、下級生に私が教える状態でした。これでは強くなりません。指導者がいないのです。
結局、一つ残った絵の道を選ぶことになるのですが、それは、一つのカルチャーショックがあったのです。
私が尊敬する古川先生がいたことも原因です。
古川先生は、私の父の絵の師匠ですから、私の家にもよくいらっしゃいました。実は私の家が古川先生の家の隣なのです。私が中学二年の時に先生が引っ越してきました。
あるとき、先生が我が家に来て、父と絵の話をしていました。
そのときに、私は先生に自分が描いた石膏デッサンを見せました。
私は、美術部でもないのに、水彩画を描いたり、石膏デッサンを自宅でしたりする子供でした。それは、父が美術の先生だったのでその影響です。
そのときに、先生は私のデッサンを見るやいなや、「形は違うけど、結構描けるな」と言いました。私は、驚きました。石膏像を見て、デッサンを見て、見比べてからならわかります。しかし、先生は石膏を見もしないで、形が違うけどと言ったのです。これが驚きでした。父にしても、父の友達にしても、見比べてから、いろいろ言ってくれます。そこが違いました。すごい先生だとは聞いていたけど、そうなのかとショックを受けました。
私は、美術部でもないのに、県展に入選したとお話ししました。それは、古川先生が入選させてくれたのだと思います。しかし、高校生の頭では、自分の力だと思ってしまいました。自分はすごいんだと得意になっていました。だから、このとき見せたデッサンも、すごいとほめられるかと思っていたのです。
実に甘かったですね。そして更にカルチャーショックが襲います。
一度、美術部に見学に来てみろという先生の言葉に誘われて、行ったところ、そこにあった石膏デッサンが、すさまじいレベルでした。
西洋の有名な画家のデッサンかと思うようなすごいデッサンが、それは美術部の先輩が描いたものだと知ったからです。
ええええーーーーと思いました。
私は、絵が上手いとうぬぼれていました。美術部でもないのに県展に入選したということが、自慢でしたし誇りでした。
ところが、自分よりすごい人がいたのです。
それで、美術室でデッサンをさせてもらうことになりました。
すると、尚更ショックが増しました。飾ってあるデッサンどころか、美術部の同級生のデッサンにも適わないのです。
あれーーー、俺はデッサンが下手なんだという現実でした。
上手いつもりでいた私は、決定的な挫折を味わいます。
もし、このショックが無かったら、私は考えが甘いまま過ぎていたでしょう。
なぜなら、バスケットをやりながら、大学は美大に行こうという考えもあったからです。
しかし、そんなことをしていては、とても駄目だと思い知らされたのです。
つづく
卒業して、40年が経ちました。ということで同窓会をしましょうということらしいです。こういう機会でないと、とても会うことができない人がいるでしょう。
なので、出てみようかなと思います。
しかし、クラスではなく、学年全部ですから、すごい人数になるかなと思います。
高校時代の自分がどうであったかを振り返りながら書いているので、そこで再会した人たちが、自分のことをどのように見ていたかなどもわかるかもしれません。
そう考えると、美術部の仲間にも会ってみたいなと思いました。
特に、下級生も含めて再会できたら楽しいだろうなあと思います。
美術部の下級生たちは、私にかなりの好印象を持ってくれて、私はまるでスターのような扱いを受けました。私が二年の後半から美術部に行くようになったので、初めは部員という感覚ではなく、お客さん的な位置づけでした。ゲストというものは、大切に扱われるものですからね。
私が最もいい気分だったのは、下級生の男子の面倒を見ていて、それを女子が見学している状態です。私の勘違いかもしれませんが、みんなが憧れの視線を向けてくれたような気がしました。
私は、バスケット部のキャプテンをしていましたが、二年の二学期から美術部に顔を出すようになり、バスケット部を辞めました。進路を考えてデッサンを始めたからです。
このことは、「私が絵の道に入るまで」という文章で、このブログに以前載せました。
私はこのころ、器用貧乏という言葉を意識するようになりました。
自分の進路を考えたとき、一体何をすればいいのか?わかりませんでした。
数学が好きでしたが、そうは言っても学校で一番でもない。将棋が強いと言っても、プロになるほどではない。バスケットの選手としては、身長が低すぎる。172センチでしたが、成長が止まっていました
もし、バスケット部がもっと強くて、激しい練習をするチームだったら、最後までやって、体育の先生を目指したかもしれませんが、そういうチーム状況ではありませんでした。なぜなら、二年生になった私は、下級生に私が教える状態でした。これでは強くなりません。指導者がいないのです。
結局、一つ残った絵の道を選ぶことになるのですが、それは、一つのカルチャーショックがあったのです。
私が尊敬する古川先生がいたことも原因です。
古川先生は、私の父の絵の師匠ですから、私の家にもよくいらっしゃいました。実は私の家が古川先生の家の隣なのです。私が中学二年の時に先生が引っ越してきました。
あるとき、先生が我が家に来て、父と絵の話をしていました。
そのときに、私は先生に自分が描いた石膏デッサンを見せました。
私は、美術部でもないのに、水彩画を描いたり、石膏デッサンを自宅でしたりする子供でした。それは、父が美術の先生だったのでその影響です。
そのときに、先生は私のデッサンを見るやいなや、「形は違うけど、結構描けるな」と言いました。私は、驚きました。石膏像を見て、デッサンを見て、見比べてからならわかります。しかし、先生は石膏を見もしないで、形が違うけどと言ったのです。これが驚きでした。父にしても、父の友達にしても、見比べてから、いろいろ言ってくれます。そこが違いました。すごい先生だとは聞いていたけど、そうなのかとショックを受けました。
私は、美術部でもないのに、県展に入選したとお話ししました。それは、古川先生が入選させてくれたのだと思います。しかし、高校生の頭では、自分の力だと思ってしまいました。自分はすごいんだと得意になっていました。だから、このとき見せたデッサンも、すごいとほめられるかと思っていたのです。
実に甘かったですね。そして更にカルチャーショックが襲います。
一度、美術部に見学に来てみろという先生の言葉に誘われて、行ったところ、そこにあった石膏デッサンが、すさまじいレベルでした。
西洋の有名な画家のデッサンかと思うようなすごいデッサンが、それは美術部の先輩が描いたものだと知ったからです。
ええええーーーーと思いました。
私は、絵が上手いとうぬぼれていました。美術部でもないのに県展に入選したということが、自慢でしたし誇りでした。
ところが、自分よりすごい人がいたのです。
それで、美術室でデッサンをさせてもらうことになりました。
すると、尚更ショックが増しました。飾ってあるデッサンどころか、美術部の同級生のデッサンにも適わないのです。
あれーーー、俺はデッサンが下手なんだという現実でした。
上手いつもりでいた私は、決定的な挫折を味わいます。
もし、このショックが無かったら、私は考えが甘いまま過ぎていたでしょう。
なぜなら、バスケットをやりながら、大学は美大に行こうという考えもあったからです。
しかし、そんなことをしていては、とても駄目だと思い知らされたのです。
つづく