年暮れに大根の上の部分を小皿に水を張って窓際に置くと、新芽がドンドン出てきてその生命力を楽しんでいました。そのうち青菜として料理にと思っていたら、薄桃色の小さな可憐な花が咲き出しました。
大根の花といえば、参議院永年在職議員の故市川房江さん(1981年2月11日87歳没)を思い出します。市川房江さんは戦後の女性参政権の実現に大きな貢献をされ、著書の『大根の花 市川房枝随想集』(新宿書房)を読みふけり、私は91年4月の統一地方選に企業城下町から町議会議員選挙に挑戦する勇気をいただきました。
(小正月の頃)
当時の青海町は人口1万人余りで、県議選・町長選・町議選ともトリプル無投票といわれていただけに、「女だてらに」と町中は大騒ぎでした。ある日ゲートボールから帰った父は、みんなが私のことを「共産党か社会党か」と言っていると・・・。企業城下町ゆえの厳しい締め付けで、町議会には共産党も社会党も議席がなかったので当然のことであったかもしれません。
町議会議員に当選後も『大根の花』をバイブルとして、市川房江さんの“お金のかからない理想選挙”を貫き、“寄りかからず”に孤軍奮闘の通算20年間の議員活動を続けました。そんなことで地域での風当たりが強かったことは言うまでもありませんが、当時は上越地方の各市町村に女性議員がいなかったことで少なからずとも影響を与え、その後、勇気ある女性たちが次々と立候補し、旧松之山町を含め上越地方に16人程の女性議員が誕生したことを思い出します。
また「新潟県女性議員の会」の設立に向け奮闘し、1996年には100人を超える女性議員の会となり、上越地区役員から副会長を務めてきた経緯があり、その時の出会いで今でもリベラルな人たちとの交流が続いています。
今日は上越市議会食料農業農村議員連盟の活動の一環で、三和区の元村議Oさんの雪下野菜の生産と簡易雪室貯蔵の現場視察をされた知り合い市議らのfbで、がんばっているOさんの様子を知りました。
夜になって久しぶりにOさんへ電話を入れると相変わらずの若々しい声が伝わり、生産野菜は三和区内の自校方式の学校給食へ届けているというので嬉しくなり、“大根の花”とともにチョッと昔のことを綴りました。
コメント、ありがとうございます。
平成の大合併により、新潟県内のリベラルな女性議員は姿を消してしまいました。
大きな傘の下での“日和見議員”では期待薄で残念で、市川房江さんがお元気ならきっと悲しまれると思います。
5回の選挙のうち、途中県議にもなったりしましたが、落選もした。 でも市議選3回目の前々回から続けてトップ当選し続ける背景には、市民に対する誠実な姿勢と、常に市政を民意に近づけてきた結果だと思います。
女性にしても男性にしても、市民の期待無くして、前進はありません。投票率は過去最低。前回よりも3000人少ない投票者数の中で、前回より1000票減らしてもトップは変わりませんでした。
そういう魅力的な候補者は、保守にしろ革新にしろ、残念ながらあまりおりません。男性ばかりでは、偏りすぎますが、では女性だからだれでもというわけにはいかない。 市川さんの文章に目を通すとき、理想選挙に値する候補者選出に手厳しかったのには、ただお金をかけないでなく、選挙中に動くお金の使い道を市民の前に公正明朗にし、議員になった際の統治能力も確かめていました。だから、女性だからという安易な理由での推薦はしてこなかったのです。ただの市民選挙でも政党の候補でも動じません。
政党に属さず、人間性を重視し、企業団体献金禁止、寄付されたお金の使用についての説明責任が果たされ、平和憲法を守り、福祉や環境といった公共面で、リーダーとして地域に貢献できた人で、できれば女性であることが望ましい。それが市川さんが推薦条件でした。そういう人が議員でいてくれたら、日本の将来に不安はありませんね。
昨年の暮れ、代々木の婦選会館(市川房枝女性政治参画センター)に隣接する市川さんのご自宅へ行ってきました。今年92歳でご健在の養女のMさんとお話ができて本当に良かったです。