拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  悟空の緊箍児(きんこじ)

2022年04月03日 | 観自在

  昨日ブログで使ったフォロンの彫刻『?人間』を観ていたら、西遊記に出てくる孫悟空が悪さをすると頭を

  締め付ける輪っか『緊箍児』をイメージした。

 

  子供時代に観た手塚治虫等によるアニメ映画『西遊記』は、じつは私、馬骨に決定的な『仏縁』を結んだ作品であった…と

  今ではハッキリ思う。

  そのあたりの経緯について、以前書いた気がして調べるとなんとちょうど一年前のブログに書いていた。

   2021年4月1日『仏の掌』-拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

  なんだかんだといって、日本は仏教国で『悟りの周辺』を文化にまで高める大きな役割をしているのが『西遊記』だ。

  私の二十代の頃、夢中になって読んだ漫画が『ドラゴンボール』であったが、そのベースになっているのが『西遊記』で

  今では、世界中のガキどもに多大な影響を与えている作品で、そのベースが仏教であることを意識しているガキどもは少ない。

  ただ、残念なことに『ドラゴンボール』の主人公の『悟空』には、頭にはめる輪っか『緊箍児キンコジ』は使われていなかった。

 

  『緊箍児』とは、ネットで調べると、どうしょうもない暴れん坊の孫悟空をおとなしくさせるために、観音菩薩が三蔵法師に授けたもの。

  悟空が悪さをすると法師が『緊箍呪』を唱えることで、『輪っか』が締まって頭が割れるように痛くなる…というのだ。

  この話の『緊箍児』がキーワードとなって、『大疑団』〜『坐禅』〜『観音』・・・というような流れに私は導かれてきた気がする。

 

  私たちは皆、『?形』の『緊箍児』を頭にはめ込まれていて、それが人を苦しめる=『一切皆苦』となって『大疑団』に目覚める。

  制御がきかない『思考』に苦しめられ、そこから逃れようと『大疑団=最期の?』を抱く・・・

  そのとき、観音菩薩が『坐禅』というもう一つの『緊箍児』を我欲に飢えた『餓鬼ども』に課すわけだ・・・なるほどこれはこれで苦しいワイ。

  『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』と行くためには、自己の頭に『緊箍児』をはめる覚悟がなければ『郷里』の彼岸にたどり着けんだろう…。

        

 



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