カテゴリー『必撮無眼流』・・・このカテゴリーがあることを忘れていた、わけではないが。
写真といえば、我妻ニコル専属写真家に成り下がり、それもカメラではなく携帯で撮るしまつ・・・。
自分のことを『写真家』と名乗る暇も実力もないうちに『禅』にうつつを抜かし、20年間ほど写真から遠のいていた。
2003年ジュネーブで『引越し屋』の職をえてから、肉体サラリーマンとして給料や休暇の日程などが安定したので
写真活動を再開したのだが、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のごとく、写真機材が銀塩からデジタルに移行してるうえに
『肖像権』とかで、昔のようにやたらに人にカメラを向けることが出来ない時代になっていた。
21歳の時、写真学校入学以来、私は自称『撮人家・サツジンヵ』というくらい、撮影の対象は『人間』だけであり
自分で現像、紙焼きするモノクロ写真家であったから、写真活動を再開したものの非常にめんくらってしまった。
しかし、やはこここにも『捨てる神あれば拾う神あり』、写真活動休止の空白の20年をある日本人写真家のブログを読むことで
写真家にとっての変革期をどのように乗り越えるか・・・個人レッスンを受けるが如く、色々彼から学んだのである。(感謝)
1981〜1986年の間、私が30歳代初期のとき、↑この写真展案内カード左からの順で『銀座ニコンサロン』・『新宿ミノルタ』『新宿オリンパス』
でそれぞれ写真展を行った。右側の『貰った背広』は自写像作品で、写真雑誌の批評で高く評価され、記名帳を見ると有名な写真家や評論家など
が見に来てくださったが、肝心の私がその時スイスにいて、写真で飛躍するチャンスを逃してしまっていた。
しかし、今思うと『若気の至り』も至りで、銀座や新宿の街中で短期日とはいえメーカーギャラリーで無料で写真展を行えた事が、
如何に光栄なことであり、どんなに有り難いシステムであったか、その頃の私にはまったく解っていなかった。
当時、アマチュアにしてもプロにしても作家志望の写真家はメーカーのギャラリーの審査をパスし、写真展を積み重ねることで
写真家として箔を付けるというのが王道であったのだ・・・。『井の中の蛙大海を知らず』であった。
スイスにきてから何度か写真展を行ったが、銀座や新宿で行った写真展とは問題にならないくらい、手応えのない写真展であった。
いま色々なことを還暦スキャンする余裕があるから、はっきり解るが、人口比がまったく違うことを考慮にしても
ニコンやキャノン、オリンパス、ボクの愛機であったペンタックス・・・
などなど有名どころの写真機メーカーがある国である日本と、それが何もない、たとえばスイス…
写真機材ばかりではなく、 写真に対する人々の『思い入れ』のレベルが圧倒的に違うことを痛感する。
ただヨーロッパの中でもパリは例外的に写真を愛好する人々が多い。
それがロベルト・ドアノーやアンリ・カルティエ・ブレッソン等を輩出した素地であったか
あるいは逆に、彼等がいたからこそ写真文化を大切にする風土ができあがったのか・・・。
もう十数年前になるが、フランスからスイスに進出した本のチエーン店「Fnac」がジュネーブに出来た時、
フランス店には必ず写真展コーナーを設けてあるので、ジュネーブ店にも初めは写真展コーナーがあったが、
4,5ヶ月後廃止されてしまったのをみた時、私はジュネーブ人の写真に対する関心の薄いことに大いに失望したのをおぼえている。
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